第41話 その頃

 その頃、車の中で、雄二は焦っていた。


 手のひらの上で苦しそうにしているリリィの動きが止まってしまったからだ。苦しそうに寝返りを打っていた時はまだ良かったが、今では完全に動きを止め、消え入りそうな呻き声を発するのみとなってしまったのだ。一応ヒーリングで気を流し続けてはいるが、リリィが完全に動きを止めた時は、もう打つ手がないかもしれない。

 真っ青な顔をして落ち着きのない雄二に、源相が話しかけた。

「リリィさんは大丈夫そうですか?」

「リリィは頑張って何かに耐えています。一刻も早く敵のアジトに行ってリリィの魂を解放してあげないといけません」

「そうですか…」

 法定速度をオーバーして運転している為、基本前しか見られないが、源相はチラッとリリィを見た。確かにいつもの元気さは影を潜め、雄二の手の上で寝転がって全く動いていない。源相はナビに目を移す。大凡の位置まであと五十分と表示されている。このスピードで行けば、十五分は巻けるが、それがどれほどの効果があるのかは分からない。現地に行けばできることもある。


 源相は、余計な事を考えるをやめ、運転に集中した。


 リリィから目を離し、見てもすぐ着かない事は分かっているが、雄二は押し黙って想具を見た。もう、こうして少しでも近づいている事を確認していないと気が変になりそうだ。

 今回の作戦が間違っていたのかとか、凪がなんとかしてくれるかもしれないとか、もう頭の中が整理できない。

 ただ、現実に想具の色が変化しているので、近づいているのは確かだ。

 今、こうして手のひらの上にいるリリィは大きな魂の中の小さな欠片だ。という事は大元の魂に何かあったと考えるのが普通だ。もしかしたら身体の方に何かあったのかもしれないが、『犬』と物部の組織がリリィを死に追いやろうとしているのは間違いない。


 ヤキモキしていると、リリィの動きが完全に止まってしまった。


 くうう。僕にできることはないのか…


 リリィはグッタリとして、呼吸もしているのか分からない。雄二がもうダメかもしれないと思ったその瞬間だった。リリィの左腕が上がって親指を突き出したのだ。

「リリィ!!頑張って!!」

 思わず声が出てしまう。

 源相がチラッとこちらを見た。その表情は最悪の場合を想定しているかのように強張っていた。

「源相さん!!リリィが持ち直しました!!」

「え?」

 源相もこの展開は予想していなかったようだ。

 リリィは苦しそうに寝返りを打って身体を横にすると、大丈夫アピールをしたいのか僕の手をパシパシ叩いた。何があったのか分からないけど、リリィが自分の意思で動けるようになったのは朗報だ。

「リリィ!!僕たちももうすぐリリィの身体のある場所に着くから、そこまで頑張って!!」

 リリィはいつものような斜に構えたような顔で、左手の親指をグッと突き出した。心なしか顔色も赤みが増した気がする。

「向こうで凪が頑張ってくれたの?」

 すると、リリィはニコッと笑って頷いた。まだ声は出ないようだが、かなり持ち直した感はある。

 さすがは凪だ。

 敵の本拠地、尚且つ『犬』がいるかもしれない状況で、リリィのピンチを救うとは並の陰陽師ではない。普段は僕の尻尾に抱きついてダラダラとし、ゲームで遊んでいるイメージしかないが、やる時はやるようだ。源相さんも、凪が生きていた時代、凪は相当な陰陽師だったのではないかと言っていた。

「源相さん。僕たちもあっちに行ってリリィの身体を解放しましょう!!」

「そうですね」

 車の中に安堵が広がった。

 しかし、本番はここからだ。これから始まる戦いに気持ちを切り替え、雄二は窓の外を見た。緑の稲穂が揺れる田んぼが広がっている。この土浦を過ぎれば、埼玉、東京まであと少しだ。

 敵の場所の特定を急ぎつつ、尻尾に気を貯めるのも忘れない。


 凪。もうすぐそっち行くからもう少し頑張って!!と雄二は心の中で呟いた。


「あ」

 突然、凪が何かに気づいたような声を出すので、凪の脇を固める式神が凪を見た。

「雄二くんが、私を応援してくれた気がする」

 龍吉はこれだけ離れところでそんな事が分かるのかと言いたげな目で凪を見たが、当の凪は「雄二くーん。私、やったよー!!あとで褒めてねー!!」と手を振りながら遠くに叫んでいる。

「ふむ。この女の頭は大丈夫だと思うか?」と龍吉が龍子に問う。「ふふ。あなたは分かってないわね。女の情念は空間を越えるのよ」と龍子は凪に同調するように言う。

 何を言っているのかよく分からない龍吉は首を傾げたが、それ以上は何も言わなかった。

 凪はリリィに目を移した。魂と身体がくっついたリリィは、身体も正常になってきているし、見た目にも生き生きとしてきている。

 これは本来の姿を取り戻したと言っていいだろう。

 医者と看護師の話しを聞くに、少なくとも今日は安静にする方針のようだ。となれば、雄二くんたちが来るまでリリィはここから動かないだろう。『犬』にあれだけの事をされた後だ、リリィには身体の奪還まで少しでも休んでもらい、回復に臨んでもらいたい。 


 凪はここを式神に任せ、『犬』を見に行くことにした。


「よし。あの『犬』をとっちめるよ。龍吉と龍子はここでリリィちゃんを見ていて。何かあったらどっちかが私を呼びに来て。必ずどっちかはリリィちゃんを見ておいてね」

「うむ。承知した」

 龍吉がそう言うので、凪はこの部屋を出た。

 廊下ではリリィが持ち直したことに皆が安堵していた。ただ、こいつらはリリィの命が助かったことに喜んでいるのではなく、生贄が死ななくて良かったと喜んでいるのだ。本当に腹が立つ。

 こんな酷い喜び方は、幽霊でもしない。

 凪の感覚では、こいつらは集団で呪われているのではないかと思うくらいだ。

 いや、これはあるかもしれない。情念というものは意外と重要なもので、文明は社会的生活のために理性で衝動を抑え込もうとするが、私たちの情念は常に充足されるのを求めていて、衝動を解放したくなるからだ。だとすれば、同じ恨みを共有した人間で固まると、その情念が呪いのように解放を求めるのは、実は自然なことなのかもしれない。


 変な思想集団って本当に面倒よね…


 凪が昔所属していた組織も、建前は立派なものだったが、求められるのはその集団における規律と思想の遵守だ。それ自体は悪いことでもないと思うが、とにかく堅苦しくて凪にはあまりあっていなかった。それでも、恨みを正当化しては駄目だ。世の中、不満を排除して自分の良いと思う方向を突き詰めていくと碌なことにならないのだ。


 そんな事を考えながら、凪は一階の『犬』の部屋へと戻った。


  部屋に入ると、『犬』はまだ目を回していて、凪にやられた時の状態で転がっていた。それを牙之疾風が威圧するように見ている。

「牙之疾風ありがとう。リリィの魂は無事リリィに戻ったよ」

 それを聞いた牙之疾風は嬉しそうに頷いた。

 凪は牙之疾風の頭をゴシゴシ撫でると、『犬』の前に立った。

「ちょっと!!起きなさいよ!!あんたには色々聞きたいことがあるのよ!!」

 しかし、『犬』は気を失ったまま動かない。

 都合の悪い時に自分がよくやるから凪には分かる。これはあからさまな狸寝入りだ。あの『犬』がこの程度の拘束で、数十分間も完全に気を失うなどあり得ないのだ。

「いい?いますぐ起きないとあと三秒であなたに大惨事が降りかかるよ。さーん、にー、いーち…」

 それでも『犬』は気絶したフリをやめない。


 警告はした。陰陽師を怒らせるとどうなるか教えてやらないといけない。

 

 凪は特製のお札を懐から五枚取り出し、それを次々に貼り付けていく。最初の一枚をを貼ったとき、『犬』はピクッと動いた。私の作った特製のお札から発せられる強烈な気を感じ、流石にやばいと気づいたようだ。素直に言うことを聞いて入れば、このお札で痛い目に合うこともなかった。バカなやつだ。

「最後にチャンスをあげる。ここで起きないと、今後半世紀は起き上がれない身体になるよ」

 この脅しは誇張ではない。

 いかに九尾の狐の眷属と言えども、陰陽師が時間をかけて作り上げた術式をまともに食らえば、致命的な損傷を受ける。それは、仏式の呪術でも同じなのだが、陰陽道は呪いに特化した術式を多く持つ。呪いからの回復は容易ではない。

 凪は五枚のお札を『犬』の貼った。

「………」

 それでも、『犬』は沈黙を続けた。

 自分の失敗で状況が悪くなったことで、白き九尾の狐に顔向けできなくなったのかもしれないし、霊体ではあっても人間には屈せないと思っているのかもしれない。

「じゃあ、まずは呪文なし」

 いきなり全開でやってしまうと、『犬が』本当に次元の彼方(恐らくは黄泉平坂)に行ってしまい、二度と帰ってこない可能性もあるので、まずは気を少しだけ解放することにした。

 両面宿儺の呪いでコーティングされた祭壇の呪をも解除した凪の気が、『犬』へと浸透していく。

 鎮めた怨霊から聞いた話しでは、人間の気は神経毒のように身体中に痛みをもたらすと言っていた。さて、どこまで耐えられるか。

「うごああああ!!」

 流石に悲鳴が上がった。

 どれだけ我慢強くても、痛みには勝てない。まあ、リリィの恐怖と痛みを考えれば、これしきの気で参ってもらっては困るのだが。

「ふん。早く話さないともっと強い気を解放するよ!!」

「ま、待ってくれ!!」

 『犬』は身を起こすと、あぐらをかいて床に座った。


 筋骨隆々な柴犬のあぐら姿はどこかコミカルに感じてしまうが、こうして油断を誘い、幾人もの人間を葬ってきたのだろう。

 

 怪異は人間と精神構造そのものが違う。本気で反省することがないのは、凪もよく分かっている。怨霊であれば、手厚く祀ることで人間に靡いてくれることもあるが、怪異が我々に靡くことはほとんどない。黒き九尾の狐やメウツギ、蝉丸は奇跡的な例だ。

「最初から言うこと聞いていりゃいいのよ」

「俺様が、そんな簡単に敵に屈せるか!!」

「そんなこと言うと、今すぐ磐田のしっぺい太郎が祀られている神社に放り込むよ!!」

 『犬』は一瞬動きを止めた。そして、「はい。何なりとお聞きください」と言うとあぐらを解き、姿勢を正して凪に向かい合った。いつ終わるとも分からないしっぺい太郎に見張られる生活は、『犬』の怪異にとっては地獄みたいなものだろう。

「よろしい。じゃあ、まずここの奴らと、あんたはどんな約束を交わしたのよ?」

「物部の奴らとか?そんなの簡単さ。物部が黒い九尾の狐の弱体化を手伝う代わりに、俺が物部の狙う東京壊滅に手を貸す。それだけだ」 

 このニヤついた悪い顔で悪いことを平然と話す柴犬は見ていてきつい。やはり柴犬は可愛くなくてはならない。

「で、物部はあんたに何をしてくれたのよ?」

「あの女の誘拐を成功させた対価に、俺の居場所の提供と黒の九尾の狐さま退治用の機械の提供、その他工作の人員提供だ」

「それなのに、あんたはあっさりと物部を裏切って、リリィの魂に呪いを被せようとしたの?」

「まあ、仕方なかったんだよ。まさか両面宿儺が完全ではないなんて思わなかったし、お前らにやられるとも思ってなかった。あの呪いが跳ね返ってきて、己に張り付いた時、これは数百年単位で動けないと分かったんだ。そうしたら、丁度いいところに呪いを移せそうな魂があるんだ。誰だってやるだろ?」

 今すぐにでもぶん殴って吹っ飛ばしてやりたいが、話しは最後まで聞かなければならない。人間の心の分からないこいつらは、人間を逆撫でる言葉を吐いているとも思っていないのだ。

「そんな事をするのはあんただけよ。約束は信用があって成り立つの。それを反故するような奴は最悪よ」

「そんな事言ったって、あいつらだって東京を壊滅させてあの女に怨霊を憑依させたら、片棒担いだ俺を処分するぜ。同じこったろ」

「まだそうなっていないのに、どうしてそう言えるのよ?利害が一致していれば、その後も関係が続くかもしれないでしょ」

 はあとため息を付いて『犬』は話しを続ける。

「いつの時代も権力者はそんな風に考えないぞ。お前らの歴史がそれを証明しているだろう。権力者はな、利用できる奴を確保した時からそいつが裏切ったり、最悪な展開の事を考えて行動するもんだ。お前みたいな小物には分からないかもしれないが、ここの奴らだってそれを分かっていて行動しているはずだぞ」

  

 この怒りどうしてくれようか…

 凪は大きく深呼吸して怒りを心の奥に沈めた。しかし、完全に怒りは沈みきらず、心の中で『私が小物???そんな小物にやられているお前は何のよ!!』と叫んだ。

 余程怖い顔をしていたのか、『犬』が押し黙った。

 この顔は雄二くんの前では完全封印しなければならないと、凪は本日何度目かの反省をした。


「こほん。で、こいつらはどうするつもりだったのよ?」


 凪は上を指さして聞いた。

「ああ?志田雄二を殺し損なったのは俺の責任だが、そのために使った機械を使ってお前らがここに来たってことは、俺の安全の確保を履行できなかった責任はあいつらにある。だったら、もう俺がこいつらを切ったって問題ないってことだ。皆殺しにしたっていい」

「そんなの、あなたがが失敗をこいつらに着せているだけでしょ。リリィの誘拐と明治天皇の怨霊の解放。その怨霊をリリィへ憑依させるまでがあんたの役割だったんじゃないの?」

「うるせえなあ。こいつらがそんなことしなくても、我が主人が復活すれば、すぐさま東京は壊滅だ。俺の作戦が失敗した時点で、こいつらのことなんてもうどうでもいいんだよ」


 こんな屑は現世にいなくていい。凪はそう強く思った。今なら怒りを通り越して、悟りを開けるかもしれない。


 凪は手印を作った。『犬』に張り付いているお札の気を一気に高める。

「あんたの言い分は分かったよ。全人類を敵に回した罪をあの世で詫びなさい」

 凪の氷のように冷たい顔を見て、『犬』も焦ったようで、「ちょっと待てよ!!ちゃんと答えただろ!!」と弁明を始めた。

「答えたから助けるなんてこっちは言ってないわよ」

「何だと!!卑怯だぞ!!グワァ!!いてててて」

 お札の気で締め上げられた『犬』は、正座を崩して床で体を回した。

「あんたに卑怯なんて言われたくないわよ。散々卑怯な手で私たちを攻撃してきたくせに」

「お前なあ、相手は我が主人の片割れだぞ。まともにやって勝てると思う方が間違ってるだろ。そっちには裏切り者のヒメウツギもいるから尚更正面から攻撃なんてできるはずがねえ」

 納得できるようなできないような言い分だが、『犬』はこれを正論だと思っているようだ。

 凪は心を落ち着かせて考えてみた。

 まあ、白い九尾の狐と繋がっていることも判明したし、たった今呪い返しに失敗した事でまともに動けない。こいつをどうするかは雄二くんに委ねることにしよう。まず出てくる事はないが、『犬』を目の前にすれば、黒い九尾の狐がお出ましになるかもしれない。

「あんたの言い分は聞いたわ。この凪ちゃんは割と優しいので、黄泉平坂に吹っ飛ばすのはやめてあげる。だからここに大人しく封印されなさい」

 凪は雄二が創ってくれた龍吉と龍子を入れている想具を出した。『犬』という巨大な怪異と言えど、この箱の中なら確実に封印できる。しかも、こちらの都合の良い時に『犬』出すことができる。ただ、暫くは龍吉と龍子は暫く私の側にいてもらうことになる。

「封印」

「ち、ちょっと待———」

 箱に吸い込まれる寸前、『犬』は凪を見ながら思った。敵の中でもこいつは最も要注意だったかもしれないと。この時代において、あれだけの式神を擁し、これ程の陰陽術を操れる人間はいない。しかも霊体で人間の味方だ。

 そして、これが一番の問題だと思った。この女は、巫女であり陰陽師の可能性がある。だとすると————…


 こうして『犬』は想具に封印された。


 凪はリリィの命を救うと共に『犬』の封印にも成功した———が、何か納得がいかない。

 本当にこの柴犬が『犬』なのだろうか?これほどあっさり封印されるような奴とは思えないのだ。それに、あの両面宿儺の呪いの跳ね返りを受けて、まともに話しができるものだろうか?


 しばし、凪は考えた。


 リリィの魂という餌を撒いて、この部屋に私を誘い込んで終幕を測った可能性はないか?そして、本物の『犬』はまた違うところに潜んでいないか?『犬』の兵隊が一人もいないのも少し納得がいかない。九尾の狐の眷属ともなれば、相当な強さの部下を多数擁している方が普通だろう。その強い部下が主人のピンチに一体も出てこないのは不自然ではないか?

 そう考えると、雄二がここにくるまでこれ以上のことをしない方がいいとも思える。

「ねえ、龍吉」

「なんだ?」

「あなた、存在感を消した怪異を見つけられる?」

「それは無理だろう。人間だって音を出さずに潜んでいれば見つけるのは難しい。怪異だって同じことだ。ひたすら静かに身を隠していれば見つけるのは難しいぞ」

「そうよねえ…」

 では、どうすれば…

 凪は考えた。そして考えた。いつもの数倍考えた。そして、ついに閃いた。

 うお!!凪ちゃん天才!!

 凪はやっぱり雄二が到着するまで大人しくしていようと決めた。封印の箱を胸の辺りにしまうと、凪は式神たちを連れてリリィの部屋へと向かった。今はリリィの容態を確認しながら待つことが大事だ。


 ———街並みが少し変わってきたかもしれない。


 雄二は車の外を見て思った。何度か思ったことだが、茨城県と埼玉県で風景が変わる。同じような住宅地に日本人が住んでいるというのに、これほど街の見た目が変わるのは何故なのだろうか?

 頭の片隅でそんな事を考えながら、再びタブレット端末に目を落とす。

 想具から出る光の指し示す方向と想具色の変化からして、車はかなり敵のアジトに近づいている。もうあと三十分もすれば着くだろう。いや、この車のスピードからすれば、半分の時間で着くかもしれない。

 当該地に近づいた時は、素早く場所を絞り込まなくてはならない。そこに手間取っては救える命も救えない。

 手のひらの上のリリィは、完全に動かなくなってしまった。

 リリィは生命体ではないので体温は感じないが、霊体としてのエナジーもほとんど感じないのが怖い。魂が消えてはいないので、かろうじて命は繋いでいるのだろうが、危機的な状況だ。

 後ろにいるヒメウツギと蝉丸も今は言葉を交わさない。

 源相も何も言わないが、この危機的状況は痛いほど理解している。源相の運転している手が若干震える時がある。もっと早く行きたいが、物理的にこれ以上は早く行けないのが源相も心苦しいのだろう。

 凪が大丈夫なのかも気になって仕方がない。

 ここで、リリィも凪も失っては僕が保たない。

 これだけ長く一緒にいると、凪がいるのが普通になっていて、あの騒がしさなしではもう僕は成立しないとさえ思う。それだけ、彼女が僕の中で大きな存在になってきている。彼女の向かった先はリリィの敵の本拠地。となれば、『犬』と組んで怪異や罠が数多く用意されていてもおかしくはない。いくら強力な式神がいるとはいえ、単身で行かせたのはまずかったと今になって後悔の念が襲ってくる。

 僕は下を向いて目を瞑った。

 真っ暗な中、凪の無事を祈る。車のエンジン音だけが耳に入ってくる———が、その時だった。

「何を辛気臭い顔している?顔をあげろ」

 突然、手のひらで声がした。

 いきなりの事に、頭がこんがらがって脳がフリーズしてしまった。

「顔をあげろと言ってる」

 夢を見ているのかと思うが、とりあえず目を開けて現実を見る事にした。


 そこには元気を取り戻したリリィが立っていた。節目がちだが上目遣いという一般人にはできない目線を僕に向けて腕を組みながら立っている。


 信じられない光景だ。

 今の今まで瀕死だった魂が、これだけのエナジーを伴って手のひらの上で僕に呼びかけているのだ。しかもこの声は想具を通じてしか聞けない。という事は間違いなくリリィの声だということだ。

「リリィ…無事でよかった…」

 あまりにも心配だったので、涙ながらにそう言うと、リリィは顔を真っ赤にして下を向き、「問題ない」とぼそっと言った。

 男性にまともに心配されたことのなかったリリィは、凪に遠慮しつつも、雄二に心配されたことが純粋に嬉しかったのだ。むず痒い心をなんとか抑えると、雄二に現状を報告する。

「いいか。かいつまんで言うぞ。私たちの予想通り『犬』は呪い返しでかなりのダメージを負っていた。『犬』は自身の回復を模索したようだが、私たちが攻めてくるという不測の事態が起こった。『犬』はこちらの行動を察知していたのか、凪が乗り込んでくる小一時間前に、両面宿儺の呪いを私の魂に移す計画を実行した。しかし、私の魂が呪いに乗っ取られる寸前で、凪が『犬』を倒して私の魂を救ってくれた。今、『犬』は凪に封印されている。そして、私の魂は、キミの目の前にいる私を除いて、既に私の身体に戻っている。私が意識を取り戻せば、ようやくキミたちに貢献できる。だから、できる限り早く私の身体を解放してくれ」

 最後は声が掠れかかったが、なんとか言い切れた。リリィは、人と話すことが極端に少なく、これだけ長い言葉を紡いだ経験がない。すっかり喉が疲れてしまったリリィだが、霊体で喉が疲れるなら現実ではもっと疲れるかもしれない。

 早急にコミュ障を治さなければいけないなと、リリィは皆に聞こえないようにため息をついた。

「源相さん、聞こえましたか?」

「ああ。聞こえた」

 想具を通じてリリィの言葉を聞いた源相は、声を震わせて答えた。源相も相当なプレッシャーの中運転してくれていたのだ。それは声も震えるというものだ。

「リリィ。僕たちはあと三十分ほどで現地に到着する。それまで頑張って」

「もう、充分頑張った。あとはお前たちに頑張ってもらう」

 リリィは顔を明後日の方に向けて背筋をピンと伸ばした。

 本当は、もう少し素直に「私も頑張る」と言いたいところだったが、もうこれが限界だ。それに、雄二に助けてもらって文句を言うシチュにはなんだか燃えるものを感じてしまう。私はやばい奴なのだろうか…


 車の中はプラスの空気に変わった。一分前までのお通夜のような空気が嘘のようだ。

 早速後ろの座席で声がする。

「いいか、敵はあの『犬』だ。不測の事態も想定される。その時はまず雄二さまを第一に守ってくれ。それから修行の成果を見せてくれ」

「おう!!まかしとき!!」

 どうやら、ヒメウツギも蝉丸も、いい感じに気合いが入ったようだ。


 雄二は、地図と凪のいる場所を示してくれる想具を交互に見ながら慎重に場所を絞っていった。想具から発せられる光の方向からすると、埼玉県の三郷市か八潮市、東京都の葛飾区か足立区辺りなのは確実だ。

「源相さん。奴らのアジトは埼玉県の八潮市か三郷市の南部か東京都の葛飾区か足立区の北部で間違いありません」

「ありがとう。やはり、高速に乗りやすく逃げるのにも都合のいい場所を選んでいますね」

「逃げやすい?」

「当然ですが、警察には管轄があります。警視庁と埼玉県警の端境では、お互いに連携が取りにくいのです。ですから、逃走する際、県境にいれば逃げ切れる可能性が高いのです」

「ふーん。悪い人も頭使って捕まらないようにしているんだね」

「そうですね」

 源相は薄く笑みを作った。


 源相は快調に車を飛ばす。間も無く柏インターだ。ここまで来れば目的地がかなり絞れる。


 僕は地図と想具との睨めっこを続ける。何も言わず僕の胸ポケットに潜り込んだリリィも分かっているのかいないのか地図をじっと見ている。

「ん…」

「どうした?」

「これ見て」

 地図の縮尺と光の指し示す方向がシンクロしてきた。これで一気に場所が絞れる。

「さっきと変わらないが…」

「リリィ、よく見てよ。この光の方向と地図が大体一致してきたように感じない?」

「光も地図も同じに見えるぞ」

「そ、そう…か?」

 どういう訳か方向に疎い女子がいるのは分かっている。自信を持って反対方向へと歩き出せるから凄い。鳥丸さんもそのタイプで、小学校の時に遠足で行った山で遭難しかけた記憶がある。

 さて、これでほとんど場所は分かった。あとは建物を絞るだけだ。

「源相さん。大凡の場所がわかりました。足立区の加平ランプを降りたあたりです」

「なるほどな。東西に環七が走っていて、南北に高速がある。アジトにはもってこいの土地だ。では、まず加平の出口を目指すよ」

「お願いします」

 すると、リリィが不思議そうに聞いてきた。

「なあ、その、足立区にはお金が落ちていて光る場所でもあるのか?」

「お金?———ああ、加平は地名で貨幣のことじゃないよ。あ、あと、ランプは立体交差する道路のことだよ」

「何!!ふふ。そんなこと分かっていたさ。冗談だよ冗談。ふふふ」

「そ、そう…」

 もしかすると、口数が少ないだけでリリィも凪と同じ人種なのかもしれない。やる時はやるが基本はポンコツ。そうでないと願いたい。


 目的地が定まり、源相は最後のスパートとばかりに車のスピードを少し上げた。


 ものの15分で車は、加平ランプの出口をぐるぐる回りながら降りた。

「環七を左に曲がって北方向に進みます。地下鉄の車庫を過ぎて川にぶつかったら右に曲がってください」

「了解。凄いね、雄二くんの想具はそこまで絞れるのですか?」

「はい。最後の最後で迷わないように細かく色が変わるようにしましたし、練習で何どか想具探しもしました」

「なんだか工作員みたいだね」と言って源相は笑った。

 褒め言葉なのかはかなり微妙なところだが、自分でもそっち方面に向いているとは何となく思う。


 車は綾瀬川と中川を繋ぐ運河のような川を超えた。

「この周辺です。ねえリリィ、何か建物について知っていることある?」

「そうだな…私は車から降りて建物に入ったあと階段で三階か四階まで歩かされた。だから、少なくとも複数階ある建物だ」

「ありがとう。その情報すごく助かるよ」

「そ、そうか、まあ、なんだ、そのだな、まあ、大したことはない」

 リリィは耳まで真っ赤にしている。

 相変わらず褒められ慣れていないリリィだが、素直に返事をしてくれるのは仲間と認識してくれたからだろう。

「雄二くん。より細かい場所は分かるかい?」

「はい。ここは基本的に住宅地なので高い建物は限られています。で…うん、この薬局を過ぎて真っ直ぐ行ったところに有料の駐車場があります。まずは車をそこに停めましょう」

 二車線ではあるが、やたらと狭く感じる道を車は進む。先に大手駐車場の看板が見えてくると、源相がハンドルを強く握ったのが見えた。いよいよだと僕も大きく息を吸った。

「そこからすぐなのかい?」

「はい。もう目と鼻の先です。グー◯ルマップで確認したら、大きな建物は一軒しかありませんでした。ほぼ間違いなくこの建物だと思います。この辺りの地名も神明ですし、何だかそういう建物があっても不思議じゃないですよね」

「ふむ。神明という地名だと天照大神を祀っているはずなので、彼らの思想的には逆な感じもするけど、まあ、県境で建物から周りがよく見えるし、アジトとしてはいい場所と言えるね」

 なるほど。神が付いているからそれらしいという単純な話しでもないようだ。地名と歴史は難しい。


 とうとう車は有料駐車場に入った。まだ朝の早い時間帯なのと、繁華街から遠いのとで、車は一台も停まっていない。

 この駐車場の周りを固める街路樹の隙間から、灰色のビルが見える。


「雄二くん、あれだね?」

 源相は少し先の無機質なビルを見上げて雄二に聞いた。

「はい。そうです。想具の光もあの建物に向かっています。そして、あそこからは僅かながら怪異の気配も感じます」

 いきなり襲われてもまずいので、雄二は加平を降りた時点で尻尾を出し、辺りの観測を行っていた。尻尾で感じる限りでは、駐車場の周りに怪異の気配はなく、お札で作られた結界も見られない。

 当該の建物はコンクリートの打ちっぱなしで、全体が灰色の五階建てのビルで、建物の感じから見ても宗教色を極力出さないようにしているように見える。これでは、近隣住民もどういう団体の人間が使っているのか分からないだろう。ただ、建物から漂ってくる生々しい妖気は隠しようがない。


 リリィの話しでは、凪がうまく立ち回ってくれたおかげで、建物の中は落ちついた状態になっているようだ。ただ、リリィの話の中で、今日、明日にも明治神宮の計画を実行するような事を言っていたので、ここは素早くリリィを奪還する必要がある。


 建物の中の人間に気づかれないよう、なるべく塀や木の影に紛れながら近づく。そうして僕、リリィ、源相、ヒメウツギ、蝉丸は建物のすぐ側までやってきた。

「ふむ。この気は『犬』のもので間違いないと思います。雄二さま。凪殿が『犬』を無力化したと言っておりますが、慎重に進んでください」

「まあ、この小僧なら大丈夫だろうて」

 豪快に笑いながら蝉丸が言う。そんな蝉丸にヒメウツギは、その余裕を何とかしろという目を向けたが、この性格は治しようがないと思ったのか何も言わなかった。

「よし。じゃあ、行こう」

 

 予めグー◯ルマップの航空写真で確認しているので、屋上から建物内に入れるのは確認済みだ。屋上の扉の施錠は壊してしまって問題ないだろう。何しろ誘拐する方が悪いのだ。法律は不法侵入者を罰するのかもしれないが、リリィという動かぬ証拠がいれば向こうも強くは出られない。


 ヒメウツギと蝉丸は、普通の人間には見ることができないので問題ないが、僕と源相さんは物理的に見えてしまうので、屋上から侵入するのがベストだ。頭の上まで伸びる黒い尻尾にヒメウツギと蝉丸を捕まらせ、その尻尾で源相さんを巻くと、僕は一気に屋上へとジャンプした。『犬』との戦闘に備え、呪術の勉強に重きをおいてはいたが、尻尾を鍛えることもちゃんとやっていた成果だ。今の僕は、自分の身体能力を上回る動きをごく普通にできるようになっている。

 屋上に降り立ち、源相さんを尻尾から解放すると、源相さんは青い顔をして、「このジャンプはもう一生味わいたくないですね…」と小さな声で言った。フリーフォールの逆バージョンが相当怖かったようだ。


 幸いにして、屋上には怪異はいなかった。油断はしていないが、助かったと思う。リリィ解放のその時まで消耗は避けたい。

 僕は階段へと続く屋上のドアのノブを回した。鍵はかかっておらず、ドアはゆっくりと開いた。

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