第40話 魂の解放

 凪は廊下の奥へと少しずつ歩みを進めた。まずは慎重に。


 ———その頃


 源信の運転する車の中は大変なことになっていた。

「源相さん!!リリィが真っ青な顔で倒れました!!」

 雄二は掌にリリィを乗せて必死に叫んだ。雄二のポケットの中に入っていたリリィが突然呻き声を出して倒れてしまったのだ。一体何がどうしたというのだろうか?

「雄二くん。彼女の魂は『犬』の元にある。我々の動きを察知して『犬』が何かを仕掛けた可能性がありますね。一刻も早く奴らの施設に行ってリリィを救い出さなければいけません」

 流石の源相の声にも焦りを感じる。まだ現地まで二時間ほどかかるかもしれない。

「リリィ。頑張って。絶対に何とかするから!!」

 すると、弱々しくもリリィの拳が少し上がって、親指を突き出した。


 ———凪は廊下を三歩ほど進んだが、吐き気がするような重圧が凪に覆い被さる。


 たった数歩前に行くだけで、超存在という気が強くなってくる。相当な怪異がこの奥にいるのは間違いない。

 人一人いない廊下は静かだが、その静けさが故にヒリヒリとした緊張感が醸造される。否が応でも凪の心拍数は上がっていく。霊体なのに心臓がバクバクするのは、生きていた時の名残りなのだろうが、不思議な気分だ。

 特に息を吸う必要なないのだが、凪は大きく深呼吸して自分を落ち着かせる。周りを固める強力な式神たちも、同質の気を感じ取っているようで、いつもより凪の近くにいる。彼らなりに凪を守ろうとしてくれているのだ。

 うう。式神ちゃんたちありがとう。全部終わったらたらふく霊気食べさせてあげるからね。


 凪はそんな三体の式神たちに、指で指示を出した。

 式神たちは凪の指示通りに陣形を組んだ。

 これで怪異が後ろからきても前からきても対応できる。彼らが察知した怪異は、新たに仲間に加わった番の龍が迎撃してくれる手筈だ。その番の龍は、二人とも私の懐に入っていて、その時を待っている。


 凪はまた半歩進んだ。


 とうとう、ねっとりとした気が纏わりついてきた。何だか蜘蛛の巣に絡み取られたような感覚だ。しかし、私は負けない。私だって鬼をも恐れさせた陰陽師だ。そう簡単にやられはしない。

 そうして数歩進んだところで、凪は足を止めた。


 嗚呼、とんでもない存在感がそこにある。


 ここまで大きな気を感じてしまうと、さすがの凪の頭にも嫌な想像が去来する。

 ヒメウツギも源相も『犬』は呪い返しでまともには動けないと言っている。しかし、実際に呪いを発動させたのが『犬』なのかは誰にも分からない。確かなのは、日本書紀にも載っているような両面宿儺という極大の呪いを差し向けられるのは『犬』のような力のある怪異だけだ。しかし、そのような大きな力を持つ怪異は『犬』だけとは限らないのも事実だ。

 凪は迷った。

 これ以上進むのは危険ではないのか?

 いくら自分が霊体で察知されにくいとはいえ、『犬』に察知された時のリスクはかなりのものだ。おまけに、『犬』と同じ力量の怪異が複数いる可能性すらある。

 そこまで考えて、凪はハッと我に返った。


 ふう。だめよ私。弱気になっちゃだめ。


 そう。今は一刻も早くリリィを救い出さなくてはならない。

 この先にいる怪異のあまりの存在感に、持ち前の勢いが消されてしまっていた。これではいけない。凪ちゃんは何としてでもリリィちゃんの魂を解放しなければならないのだ。考えてみれば、私を守ってくれている式神たちだって元々は巨大な怨霊だった。その強さは、眼前の強大な怪異に匹敵するか、それ以上だった。


 うーん。そう考えれば、敵だって私たちの気を感じて怖がっているかも。


 凪はそれぞれの式神の当初の姿を思い出した。

 そうそう、みんな大きな街を丸ごと潰せるくらいのとんでもない怨霊だったんだ。今は小さくなって可愛く見えるが、原初の彼らの姿はそれは恐ろしい姿だった。

 自分はそんな彼らを調伏してきた陰陽師ではなかったか?いや、そんな陰陽師だった。

 凪は数百年ぶりに、真の強敵との戦いに心を昂らせた。あまりにも長い間彷徨っていたせいですっかり忘れてしまっていた闘争心というものを一気に呼び覚まされたようだ。

 凪の目に戦いの炎が灯った。

 そんな凪を見た式神たちも、数百年ぶりの本気の戦いに心を震わせる。


 みんな。いくよ!!


 主人の檄に、式神たちも応えようと各々の力を解放していく。

 凪の周りに大きな力の渦ができた。傍にあるドアが式神たちの放つ気で震えてカタカタと音がする。ヒメウツギは怪異にトドメをさすには私の力が足りないと言っていたが、そんな事はない。

 真なる陰陽術は、どんなに大きな魔でも祓えるのだ。

 力を解放した式神たちの強大な気を感じながら、凪は当時の服装になってみた。真っ黒な狩衣(かりぎぬ)を纏い、真っ赤な袴を履く。当時もその色の組み合わせは何だと言われたが、これがしっくりくる。ああ、これでこそ調伏者だ。凪は久しく忘れていた自分の力を思い出したような気がした。

 その昔は、私を見た怪異や霊が裸足で逃げだしたものだ。

 自分が霊になってからは、同じような存在だからか怪異にそこまで警戒された事はない。雄二くんと会えたおかげで、あの時の感覚が少し戻ったのかもしれない。


 凪はその巨大な気の発生源へと歩みを進めた。その足取りにもう迷いはない。


 肌を焦しそうな巨大な気は、最奥の部屋から漏れ出ている。さて、鬼が出るか蛇が出るか。

 凪はそのドアをすり抜けて中へと入った。部屋の中はここまで見てきた全ての部屋と全く同じ造りだったが、照明が違った。天井に埋め込まれた紅い灯りの電球で、部屋は薄く照らされていた。ベッドは撤去されていて奥までよく見える。

 その最奥には祭壇があった。

 祭壇はこの組織が使っているものだった物だろうが、邪の者が使う祭壇のように改造され、禍々しさが半端ではない。

 横長の直方体の祭壇には、黒い布がかけられ、見たことのない呪文が赤字で書き込まれたお札が所狭しと貼られている。お札のほとんどは真っ黒な紙なのが気持ち悪い。その四隅には細い柱が建てられ、それぞれの柱を一本の紐が四角形になるように貼られている。まるで怨霊をそこから出さないように作られた禁足地のようだが、凪にはそうではないと分かる。禁足地をつくるには大きな力を持った寺院や聖地を使った結界も必須だからだ。この地にピンポイントで禁足地をつくれる神社仏閣があるとは思えない。

 物部の組織も『犬』が動けなくなってはメリットがない。

 これは恐らく、結界とは逆の装置だ。『犬』の呪いをこの祭壇へと収めているのだ。かなりどぎつい呪いを受けた『犬』は早期の復活を願ってこの祭壇に呪いを溜めて二度と自分に降りかからないようにしているのだ。


 そして、凪は今の状況を理解した。


 全てを理解した瞬間、凪はこの『犬』をどうしてやろうかと、はらわたが煮えくり返った。

 無意識に拳がギュッと握られる。

 正直、凪は雄二と一緒にいられれば、白い九尾の狐とかどうでも良かったのだが、これ見たらそうも言っていられない。

 何しろ、『犬』は自ら受けたその呪いを、こともあろうかリリィの魂に移そうとしていたのだ。これは物部の組織への裏切りであると同時に、『犬』は自らの保身のために簡単に裏切る奴だという証拠だ。


 となれば、『犬』はこの祭壇にはいない。この部屋のどこかで身を潜めて私がさ去るのを待っている。


 部屋の空気はいつの間にか黒く澱んでいる。『犬』が私を警戒している証左だ。ねっとりとした陰湿な黒い気を私の身体の周りに貼り付けて、少しでも私の動きを鈍くしようとしている。でも、『犬』は私の本当の力を知らないのだ。この程度の気の妨害などあってないようなものだと教えてあげないといけない。躾の悪い『犬』はきちんとした躾が必要なのだ。

 問題は呪いの強度だ。リリィにどれだけの呪いが降りかかっているのかが気になる。

 あの両面宿儺の呪いは、この『犬』だからこそ単独で発せられたが、人間ならその時代の最も優れた術師を十人は揃えないと呼び出せもしない極大の呪いだ。そんな呪いを一身に浴びればどうなるかなど、誰が考えても答えは一致する。

 大丈夫。リリィは強い娘だ。それに、この呪いの移魂はまだ始まったばかりだ。

 私のやることは一つ。この祭壇を破壊すること。祭壇が使い物にならなくなれば呪いは再び『犬』の元へと還る。まあ、実際にやろうとすれば、『犬』からとんでもない反撃が来るのは間違いない。


 でも、私たちならできる。さあ、いくよ。


 凪は人差し指を立てた右手を、天に向かって突き上げた。同時に式神たちが臨戦体制に入る。

 凪の式神は、人形(ヒトガタ)に悪行罰示神を宿らせたものだ。擬人式神(人形に霊力を込めた式神)と悪行罰示神(陰陽師が調伏した怨霊や怪異を改心させて使役したもの)のハイブリッドで、ほぼ凪のオリジナルと言っていい式神だ。こうすれば、能力を持たせた人形に悪行罰示神が憑依し、途轍もない能力を持った式神となるのだ。

 そして、この凪ちゃんには、飛び抜けて強い三体の悪行罰示神が付いてきてくれている。

 この人形に重なってホログラムのように薄く見えている、鳥、犬、蛇はそれぞれに強力な怨霊だった。それを凪が調伏し、今は頼もしい味方として戦ってくれているのだ。それぞれ、鳥は陽百雷喜(ようもらき)、犬は牙之疾風(きばのはやて)、蛇は素腹倍美(すばらへみ)と名付けられている。

 陽百雷喜はカミナリノトリなので、高速で飛べて雷を落とすことができ、攻撃力で言えばこの三体の中で一番だ。素腹倍美は蛇の式神で何と言っても大喰らいで何でも食べる。装備も術式も食べるので相手を無力化させるにはもってこいだ。


 そして、今回の肝は、犬の式神である牙之疾風だ。


 この式神の鼻はどんな匂いでも嗅ぎ分ける。凪もこの犬の怨霊と戦った時、自分の位置を完全に把握されてしまうので、悉く先手を取られて苦戦した記憶がある。今こそ、その鼻の威力を発揮してもらう時だ。

「牙之疾風ちゃん。ここにいる『犬』を嗅ぎ分けて!!」

 牙之疾風はスッと凪の前へと出た。そして、この巨大な怪異の存在を明るみに出そうと静かに目を閉じた。それを見た凪は人形の式神を三体取り出し、牙之疾風の周りへと飛ばした。これで、何かあっても守備は人形に任せられる。

 人形に安心したのか、牙之疾風は、動きを完全に止めて『犬』の居場所を探すのに集中する。

 持ち前の霊力を引き上げて五感を鋭くし、牙之疾風は匂い、空気の流れ、気の濃淡を総合して、『犬』の居場所の特定を急ぐ。凪の慌てようからも時間がないのは牙之疾風にも分かっている。

 たった数秒が数分にも感じられる中、牙之疾風は目を開け、視線を部屋の奥へと向けた。

 あの辺りが怪しいのだろうか?しかし、牙之疾風はまだ動かない。潜伏している敵を数えきれないほど見つけてきた牙之疾風は、相手の性格、能力も鑑みて潜伏場所を特定する。相手によっては、わざとそこにいるように見せかけて罠を仕掛けてくる。それに引っかかる訳にはいかない。


 凪に分からないが、牙之疾風の様子からすると、この部屋にはいくつも敵が潜んでいそうな場所があり、それ相応の罠が仕込まれているようだ。やはり、この『犬』という怪異は一筋縄ではいかない相手だ。


 牙之疾風の気がどんどん上がっていく。戦闘に使う分の気を全て敵の探索へ回しているのかもしれない。

 現役の怪異と悪行罰示神の違いはあれど、同じ犬の対決に牙之疾風は燃えていた。凪に祓われるまで、敵という敵の先手をとって罠に填めて勝利してきたプライドがあるのだ。因みに凪は規格外に強く、罠などお構いなしに力で押し負けたのでそこにカウントはされない。


 『犬』の探索を始めてから一分が過ぎようかという時、突如、牙之疾風は咆哮を上げた。


 『犬』を見つけたのかも!!


 凪が攻撃に入れるように身構えると同時に、牙之疾風は、自身の霊力をたっぷり溜めた火の玉を吐き出した。どうやら、攻撃力も上げていたようだ。数百年を経て牙之疾風は強くなっている。

 紅蓮の炎は何もないように見える虚空へ飛んでいった。

 凪は身構えながら炎の成り行きを見守った。部屋を明るく照らしながら、牙之疾風の火の玉は祭壇のかなり手前の左手の壁へと飛んでいき、派手に壁に当たった。

 瞬間、壁から大きな火が上がった。炎は本物の火かと思えるほど派手に燃えた。何かに引火したように見える。

 炎で燃えた何かが壁から離れ、床へと移動した。いや、真下に落下したと言った方がしっくりくる。

 すると、何かが落下した丁度その床に仕掛けられていた罠が作動した。

 毒毒しい『呪』が辺りに撒き散らされる。陽百雷喜と素腹倍美は各々気を放って、飛んできた『呪』の飛沫を粉砕し、凪は人形の式神の光の気でその『呪』を撥ね返した。

「ぐえ!!」

 カエルでも踏み潰したような声が聞こえ、『呪』の毒が付着した炎の塊がさらに床を転がった。すると、次の罠が作動する。数えるのも面倒な数の真っ黒な矢が次々と炎に刺さる。炎の塊は真っ黒なハリセンボンのようになった。


 うーん。あれは相当痛いよね…


 燃える炎はもんどり打つように床をゴロゴロと転がるように移動した。移動する度に次々に罠が作動する。酸の粘液のような『呪』を浴びて何かが解ける音を加えた炎は、最終的に小規模な爆発に巻き込まれた。爆風に飛ばされて天井にぶつかると、派手に床に落ちて動きを止めた。

 自分で仕掛けた罠にこれだけ引っかかる奴は見たことがないが、一つ一つの罠の威力はかなりのものだと思う。

「うぅぅ…お前ら許さんぞー!!」

 絞り出すような声で恨みがましい言葉が聞こえた。見れば、すでに炎は収まり、真っ黒なハリセンボンが黒い煙をあげながらフルフルと揺れている。

「それはこっちの台詞よ!!リリィにこんな酷いことして!!」

「うるせー!!霊体が偉そうに!!こっち側の奴なら、人間なんてどうなったって構わねーだろ!!」

 酷い言われようだ。霊体が怪異と同じなんて誰が決めたのだろうか?

「何よ!!偉そうにしているのはそっちでしょ!!雄二くんに負けて呪い返し受けているような奴に言われたくないわよ!!」

「うぐ!!」

 痛いところをつかれたようで、真っ黒なハリセンボンは押し黙った。


 この隙を見逃さない凪ではなかった。


 日本には言霊というものがある。こうした言い合いも相手の先手を取るための術式に入るのだ。

 凪は、牙之疾風を守っていた人形の式神に移動を命じ、祭壇へと飛ばした。

 『犬』は自分が攻撃されると思ったのか、人形を避ける為、凄まじい速さで横に転がった。しかし、凪は呪い返しを食らった『犬』の気の感じから、こいつは後回しでも問題ないことを察知していた。


 最優先は、この祭壇の破壊。


 三体の式神が、呪いを吸い込み続ける祭壇に張り付くと、凪は両手で印を結び、五印の鎮めを素早くとり行った。

 祭壇の呪が封じられていき、祭壇の呪の力が急激に弱まっていく。


 さあ、ここからが陰陽師の腕の見せ所だよ。


 凪は、かつての自分と今の自分を重ね合わせ、禹歩をしながら神言を唱えた。

「東海の神、名は阿明、西海の神、名は祝良、南海の神、名は巨乗、北海の神、名は禺強、四海の大神、百鬼を退け、凶災を祓う。救急如律令」

 何百年と使っていなかったが、昨日覚えたかのようにすらすらと神言が出てくる。

 陰陽師は穢れや災厄を祓うプロフェッショナル。呪詛の除去の作法は、何万回と繰り返したので身体に染み込んでいるのだ。

 禹歩を続けて唱え続けると、じわじわと神言が効いてきた。祭壇を覆っていた黒い呪が抜け落ちていく。見た感じ、あの毒々しい感じは完全に減退した。


 待ってて、リリィ。あと少しだから。


 凪はトドメとばかりに人形の式神に仕込んでおいた膨大な正の気を解放した。この日のために、凪が人形に少しずつ溜めていたものだ。祭壇全体に凪の気が広がっていく。


「待てい!!」


 祭壇が浄化されかかっていることに慌てたのか、壁の方から『犬』の悲痛な声を上げた。

 しかし、そんなのは無視だ。待てるわけがない。

 祭壇にかかった呪のほとんどが抜け落ちた事で、祭壇の至る所に張り付いていた真っ黒なお札が一斉に剥がれ落ちた。落ち際にそれぞれの呪が発動するも、凪が心を込めて人形に入れた巨大な正の気の前にその効力を発揮するまでもなく消滅していく。あれだけ貼られていた黒いお札は、一瞬で消滅した。


 ここで、真っ黒なハリセンボンが祭壇の前に戻ってきた。術式に当たりたくないからと逃げたのに殊勝なことだ。

「やらせんぞ!!」

 ハリセンボンは勇猛な声を吐き出すと、突き刺さっていた黒い針を全て弾き飛ばした。すると、ようやく隠れていた本体が見えてきた。

 

 うーん、こいつが『犬』の正体か…

 

「陽百雷喜!!こいつをお願い!!」と凪が言い終わらないうちにカミナリノトリの式神は、『犬』に雷を落としていた。

 鳥の式神は、羽のあたりにまだ雷の名残りを残しつつ優雅に凪の上を飛んだ。あの雷をまともに喰らってはしばらくは動けないだろう。

 『犬』は電流で痺れた上、極度の痛みで床を転げ回った。

 ああ…またこんなことして…

 この『犬』の怪異は反省がないようだ。転がるたび、残った罠が作動し、そのたびに無駄なダメージを負っていく。あれをマッチポンプと言っていいのかは分からないが、まあ、そんなようなものだろう。

「痛えぇぇ!1」

 断末魔のような叫びを上げた直後、牙之疾風が炎を吐いた。

 しばらく大人しくしているかと思えば、牙之疾風はこの炎の玉を練っていたようだ。さすがは戦闘犬。どうすれば相手の心が折れるのかを熟知している。

 炎は『犬』を直撃した。

 攻撃という攻撃をくらい、罠という罠を作動させ、最早『犬』は虫の息だ。しかし、まだ倒れない。呪詛返しで弱っている上、この攻撃で倒れないのは、元々の強さはかなりのものなのだろう。流石は白き九尾の狐の眷属だ。


 でも、凪ちゃんは容赦しない。

 リリィにこんな仕打ちをした奴に情けは無用なのだ。


 最後の足掻きで、『犬』はぶつぶつ何かの呪文を唱えた。

 瞬間、恐ろしく禍々しいドロドロの液体が私たちを覆うように飛来した。しかし、今更だ。おまけにこちらには、毒という毒に耐性を持つ頼もしい蛇がいる。

 後ろで出番を待っていた素腹倍美がいつの間にか凪の足元に来ていた。そして、大きな口を開けると、私たちにかかる寸前で液体を全て吸い込み、美味しそうに舌なめずりした。


 うう…何百年経ってもこの子の偏食は治らないなあ…


 本当にあんなもの飲み込んで大丈夫かといつも思うが、本人は満足そうな顔をしている。

「あれを飲み込んだ…だと??」

 『犬』としては相当に自信のある毒だったのだろうが、この蛇ちゃんにかかれば、あらゆる毒が美食に変わってしまう。そして、素腹倍美は、この後に待つ『呪い』という最高のご馳走を心待ちにしている感すらある。

 凪は、素腹倍美の頭を撫でてお礼を言うと、一歩前に出た。


 目の前にはなす術なしで固まる『犬』の姿がある。


「ここまでよくにもやってくれたわねえ!!」

 凪は、雄二には絶対に見せられない極大の怒り顔を『犬』に向け、拳に対魔の印を貼り付けた。

「ま、待て、あの娘の魂がどうなってもいいのか?」

 出た。最後の最後にこの台詞。私を陰陽師だと知って尚、これを言うとは…

「うふふぅ。私がねえ、今までどれだけの呪いを祓ってきたか分かる?」

 『犬』はまずいという表情をした。どうやら、『犬』は、凪が優秀な陰陽師だと忘れていたか思ってもいなかったようだ。後者だとすれば、もうこいつは本当に許せない。


 凪は腕を振りかぶると、怒りの右ストレートを『犬』の顔面に放った。ビンタにするつもりだったが、拳で痛みを刻んでやった方がいいだろう。


 渾身の右ストレートをくった『犬』は吹っ飛び、盛大に壁に頭を打ちつけて倒れた。

「リリィの痛みはそんなものじゃないよ」

 凪は倒れてピクリとも動かない『犬』の元へ行くと、暫く動けないように頭のてっぺんに呪符を貼って、清められた紐で手足を縛った。これでもう邪魔をする奴はいない。

 

 それにしても『犬』の正体が本当に柴犬だったとは…


 ふと祭壇を見れば、呪が解けたことで、今度は祭壇の封印が不安定になっている。一秒でも速くリリィの魂を保護し、魂から呪を完全に取り除かなければならない。

 凪は作戦の最終確認のために、祭壇の前に式神たちを集めた。

「みんな聞いて。もう時間がないよ。これからリリィの魂を救い出すからね。牙之疾風はこの『犬』が悪さしないか見ていて。私と龍ちゃんで祭壇を壊すから、素腹倍美は魂の呪いを食べて。最後に浄化された魂を陽百雷喜がリリィの部屋まで運んで。いい?」

 式神たちは自分の役割を理解し、頷いた。

「よし!!行くよ!!」


 あのバカ『犬』のおかげでリリィの命は風前の灯だ。祭壇からリリィの魂の力を感じないのが、凪の心配を助長する。


 祭壇の上段には物理的ではない穴が空いており、その中にリリィの魂が放り込まれていた。恐らく穴の先は黄泉平坂なのだろう。許された話しではない。

 凪はセーマンとドーマンが描かれた護符を祭壇に貼り付け、「朱雀、玄武、白虎、匂陣、南斗、北斗、三台、玉女、青龍」と唱えた。効果は覿面で、常世に繋がる穴から呪が剥がれ始めた。更に護符で穴の周りを固めた凪は、穴を命の気でコーティングした。

 これで祭壇を物理的に破壊すれば、リリィの魂を取り出せる。

 凪の術式で穴が正の気で包まれたのを確認した番の龍は、持てる力の全てを使って衝撃波を繰り出した。流石は龍の式神?だ。その力は本物で、祭壇は粉々に砕かれ、灰のように崩れ去った。

 宙空にはトンネルのような穴が残った。

 穴の中が透けて見える。よく見れば、穴の浅いところに人間の魂がある。『犬』の呪いに包まれて黒くなっているが、まだ、その魂の形をとどめている。リリィは凪が助けてくれるのを信じてここまで頑張ってくれたのだ。

 凪の目から大粒の涙がこぼれ落ちる。


「リリィぢゃん!!聞″こえる!!今すぐ助けるよ!!」


 凪が金切り声のように叫んだのと同時に、素腹倍美が蛇の身体を生かして穴の中へとするりと入る。そして、リリィの魂を一気に飲み込んだ。蛇とは思えない機敏な動きで穴から出ると、大きく膨れた腹の中で魂の周りに救う呪いを消化し始めた。口元がもぐもぐと動いているので、ほんの少し残した呪いを味わっているのだろう。本当に酷い偏食だ。


 その間に、凪は黄泉平坂に通じる穴を封印した。


 人間が間違ってこれに触れたら大変なことになる。呪は人間が思っている以上に危険で、触れてはいけないものなのだ。

 すると、素腹倍美が大きな口を開けた。

「終わった?」

 素腹倍美は小さく頷いた。すると、口の中から人間の魂が見える。魂を覆っていた呪いは見事に食い尽くされ、魂は黄色く輝いている。小さく弱々しくなってはいたが、この魂には力を感じる。リリィは頑張ったのだ。

 凪はもう涙腺が崩壊して前が見えない。

「リリィじゃん。あど少″しだから、頑張ってね!!」

 一刻も早く引き離された身体にこの魂を戻さなければならない。

「陽百雷喜!!今すぐあの部屋に!!」

 カミナリノトリの中でも最速と誉高い陽百雷喜は、素腹倍美から嘴でリリィの魂を受け取った瞬間、凄まじい速さで部屋を出て行った。目にも止まらぬ速さとはこのことだろう。

「よし!!みんな行くよ!!」

 凪と素腹倍美、番の龍はこの部屋を出て、上階へと急いだ。

 階段を上がる度に心臓がバクバクする。やれることはやった。あとはリリィの命の輝きが戻ることを祈るしかない。


 凪は再びリリィの部屋の前に戻った。


 部屋の前には、相変わらずやる気なさそうな人間たちが何をすることもなくたむろしていた。この様子だと、部屋の中で今起こっている事は分かっていないのだろう。

 凪は素早く部屋の中に入った。

 部屋の中では陽百雷喜が心配そうにリリィのベッドの上を飛んでいた。どうやらリリィの魂はすでに本人の身体の中へと戻ったようだ。


 医師と看護師はもう何するでもなく、じっとリリィを見ている。要するにお手上げなのだ。


 すると、床ずれをしないようにリリィの体を動かしていた女性が「あ!!」と言って勢いよく立ち上がった。あまりに唐突に立ち上がったので、横にいた医師にぶつかって医師はよろけて尻餅をついてしまった。

「おい。都築くん。いきなりなんだよ。とうとう人柱にお迎えが来たのか?」

 尻をさすりながら立ち上がる医師に向かって女性は「しししししん…」と言葉にならない言葉で言う。

「何を言っているか分からないよ。どうしたの?」

「心音が回復していきます!!」

「何だって!!」

 看護師を突き飛ばすようにどかすと、医師は慌てて機器を見た。

 驚いたことにほとんど横棒になりかけていたオシロスコープの波形が、小さくではあるが動き始めていた。本当にそんな事があるのかと考えている間に、リリィの心音は徐々に大きくなっていき、脳波も同じように回復していく。

 医者は思った。多くの患者を見てきたが、こんな事例は見た事がないと。そして、今回は怪異が絡んでいることで専門外なのだが、ここはこの少女の回復に注力しようと決めた。

 医師はいつになく上気して言う。

「なんだ?奇跡が起きたか?これで、我々の計画が予定通りできるようになるかもしれないぞ。よし。都筑くん、3号輸液を用意してくれたまえ」

「もうここにありますよ!!でも、流石にこれは早いですよ」

「そうだけどさあ、これだけ回復してくれば用意しておいてもいいと思うよ。ほら、体温とか測って測って」

 女性はいきなりスイッチの入った医師に口を尖らせた。

「じゃあ、先生、ちょっと下がっていてください!!」

 そう言って、看護師は医師をお尻で突き飛ばした。

 医者はぶつくさ言いながら少し下がってリリィの様子を見た。驚いたことに顔色も良くなっている。これは本当に回復しているのかもしれない。何故回復したのかと言われれば、全く分からないが、これが奇跡というやつだろう。

「天は我々に味方したってところかな」

 医師がそんなことを口走るので、凪は「ふん!!これはリリィちゃんが頑張った結果で奇跡でもなんでもないもん!!」と憤った。

「リリィちゃん!!無理したらダメよ!!今は回復に努めて!!」

 凪がそう言うと、驚いたことにリリィの左手がグッと上がり、親指突き上げた。魂がリリィの中へと戻ったことで、リリィの身体は完全に元に戻ったようだ。


 凪は、なんとか笑顔を作ると、「おかえり。リリィちゃん」と言った。

  • Xで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る