第33話 リリィの敵

 リリィは唇を噛んで一瞬上を向く。


 これまでの嫌な記憶が次々と浮かんでくる。自分はずっとこの記憶に苦しめられてきた。しかし、リリィはこの記憶を、心に宿った希望の灯りで打ち消した。

 頭の中を空にしたリリィは思う。この記憶を断ち切るチャンスが来たのだと。

 脳裏にこびりついて離れないものは、自らが封じる悪霊のようなもので、決して消える事はない。しかし、それらの記憶を過去のものにする事はできる。良い記憶で上書きしていけば、それは更に過去のものとなる———はずだ。


 まずは、みんなに現状を説明しなくてはならない。


 ————ただ、この事実を他の人間に話すという事は、私の周りの人間に口を酸っぱくして言われてきた秘密の保持に違反する。

 でも、でもだ。考えてみれば、今となってはそんな掟を守る必要もないと思う。守ることによって得られる安寧はもうないからだ。それなのに今の今までこれに囚われてきた自分は何なのだろうと思う。


 いや、これが呪なのだろう。


 そう。自分を縛っていたのも実は呪なのだ。

 その呪をここで解き、それを過去のものとする。そして、目の前にいる仲間たちと共に戦い、完全に上書きをする。ここで自由を獲得し、自分の守っていたものよりももっと大きなものと戦うのだ。


 リリィは、ゆっくりと話し始めた。


「さっきの話しをもう少し詳しく話す。東京大空襲で明治神宮から抜け出た明治天皇の怨霊は、神宮の内苑から外苑を一瞬で灰にし、国会議事堂へと向かった。国会議事堂と総理官邸は明治天皇にしてみれば自分を苦しめた総本山。まずはそこを焼き尽くそうとした。しかし、それを想定してか、皇居と国会の周りには厳重な結界が貼られていた。国会の周辺は、アメリカ軍の焼夷弾と怨霊の地獄の業火で焼かれたが、結界のおかげで皇居と国会議事堂だけは焼かれずに済んだ。目の前の国会議事堂を焼き尽くせない怨霊は怒り狂い、国会を守る結界を弱めようと、東京を守る結界の破壊にかかった。

 アメリカの爆撃機から落とされる焼夷弾で焼かれた東京は、怨霊の手で更に焼かれた。当たり前だが、怨霊の通った場所は、焼夷弾の被害が更に大きくなった。

 怨霊は手始めに近くの日枝神社を破壊すると、すぐさま東京を守る結界の一つを担う増上寺を破壊した。そして、東京の鬼門を封じていた上野の寛永寺へと向かい、すでに上野戦争で半壊していた寛永寺を徳川家の墓ごと完全に燃やした。怨霊はその勢いで、浅草寺の本堂を焼くと、増上寺や寛永寺に加えて皇居を守る結界を形成する五色不動の破壊へと移った。まずは文京区の目赤不動を焼き、次いで同じく文京区にあった目白不動を焼いた。その頃、明治神宮の神職たちはご本尊を封印することに注力を注いでいた。ご本尊を封印されては流石の怨霊も力を振るえない。明治神宮の本殿は空襲で完全に焼かれた為、ご本尊は宝物殿に運ばれ、儀式はそこで執り行われた。神職の霊力は数百年前よりもかなり落ちていたが、ある特殊な儀式により儀式は奇跡的に成功した。明治天皇の怨霊は、五色不動の目青不動を焼き、最後の目黒不動へと向かっている途中で封印された」


 まさか東京大空襲の中でこんなことが起きていたとは思いもしなかった。


 アメリカの焼夷弾で東京の殆どが焼かれたのは事実だが、その中で明治天皇の怨霊も抜け出ていたなんて…大凡、十一万人が死亡したとされる東京大空襲。アメリカのした事は許されるものではないが、怨霊がもたらした被害も凄まじいものがあったようだ。


「その後、明治神宮は再建され、ご本尊も人の目に触れない場所に移動し、今現在まで怨霊は外に出ではいない」


 なるほど。ここまでは分かった。ただ、気になる事はある。リリィは、怨霊を封印するのにある特別な儀式をしたのだと言った。その特別な儀式とはどんなものだったのだろうか?


 僕の疑問を受け取ったかのようにリリィは話しを進めた。


「さて、先ほど怨霊を、『特別な儀式』で封印したと言った。それが私を縛るものであり、今回の騒動の遠因でもある。あの東京大空襲で明治神宮が焼かれた日、明治神宮の神職たちが話し合って出した結論は、怨霊を一時的にでも封印して何とかその場を凌ぐと言うことだった。そうしなければ東京は完全に壊滅し、生きている人間を探すのも難しい状況になっていたはずだ。ただ、その方法をどうするのかは意見が分かれた。最も簡単な方法は、怨霊が出てしまった時の備えとして伊勢にいた斎王を明治神宮で再現し、その役割を全うしてもらうことだった」

「斎王って、天皇の代わりに伊勢で天照大神に仕えた女性のこと?」

「そう。その斉王だ」


 怨霊を封印する話しに、どうして斉王が出てくるのか?常識を遥かに超えてくるリリィの話しのレベルに僕の頭を合わせるのが大変だ。いや、待てよ…確か源信さんもリリィの事を斎王だと言っていた。と言うことは怨霊と斎王はセットなのかもしれない。


 リリィは、そんな僕にわかるように斎王について説明してくれた。


「一般的に認知されている斎王は、結婚も許されず伊勢神宮の斎宮で天照大神に一生を捧げる女性だが、それは斎王の役割の一面でしかない。さっきも言ったが天照大神は日本で最も大きな怨霊だ。だからこそ天皇家の氏神として祀り、伊勢神宮の結界で何とか封じている。内宮の結界はこれ以上ないほどに凄いが、更に外宮の結界で守りを固めている。そして斎王だ。斎王は本当に最後の守りだ。内宮と外宮の結界を以てしても怨霊が出てしまった時に、最後の要として斎王がいるのだ」


 いや、まさかそんな事があるのか?天照大神に祈りを捧げるのが斎王の役目ではないのか?


「斎王にそんな役目があったの?」

 ここで、凪が話しを補足してくれた。

「うーんとね、斎王は誰でもよかった訳じゃないの。天皇家の娘とはなっていたけど、それなりに陰陽道の才能がなければ選ばれなかったよ。占いもできないといけないし、何より歴が分かっていないと駄目だからね。女性は巫女にはなれても陰陽師にはなれないから、勉強は色々大変だったと思うよ。あ、斎王は天照大神を祀る仕事のほかに、その陰陽術を駆使して外から来る悪霊を追い払うこともしていたんだよ。悪い奴が内宮に侵入しないように近くの村から始まって街道まで様々な結界を張っていたんだよ」


 なるほど。その時代に生きていた凪の話しならば確かだろう。


 僕の知識が浅いので、斎王は可哀想な女性というイメージしかない。でも、リリィや凪の言うような役割を担っていたとなれば、皆、涙を飲んでその職を全うしたのだろう。何だかやるせない。

「具体的には斎王はどうやって怨霊を封じ込むの?」と僕が聞くと、リリィは一回大きく息を吸い、ゆっくりと語り始めた。


「まず一つ覚えていてもらいたいのは、斎王の行う封印には命をかける必要があるということだ。ただし人身御供や人柱といったものとは根本的に違う」

「あ、あの…そ人身御供と人柱の違いもよく分からないのですが…」


 リリィは仕方ないなあという顔をして、その違いを説明してくれた。なんだかんだで優しい性格なのだ。


「中世よりも前の時代は、災害は神がもたらすものと考えられていた。その神の怒りを鎮めるには、神に近い存在である女性———できれば巫女を犠牲にして災害を治めたい考えがあった。だから人身御供はなるべく神に近い存在の者を犠牲にする傾向にあった。それから多くの時代が過ぎると人々の考え方も変わってくる。災害は神が起こすものという理念が薄れてきたんだ。すると、人々は、災害の多い川などの堤を作る時の土台に人柱を入れ込むなどして、人柱に堤そのものを守ってもらおうと考えるようになった。人柱は男性でも女性でも誰でもよく、その場所に関係ない人を連れてきて人柱にすることも多かった。結局のところ、人身御供も人柱も犠牲になった人を手厚く祀らなければ、祟られて却って被害が大きくなるんだけどな」


「な、なるほど。分かりました」

 これほど歴史に詳しい人は初めて見た。リリィがものすごく勉強しているのが分かる。などと思っていると、「そこ!!さっきから丁寧語になってる!!」とリリィの人差し指が僕を指した。

 

 リリィの顔が怖いのでこれは本気で怒っている。仲間なんだから言葉もフランクにということだろう。切り替え、切り替え。


「そ、そこまでは分かったよ」

「ふむ。よろしい」


 リリィはうまく言えないのを気にしてか、一旦下を向いてゴニョゴニョと何かを呟いた。このあたりの仕草は可愛い。


「分かりやすく言うと、人身御供は、災害そのものを治めるために人を犠牲にする。それに対して怨霊を鎮める為にいる斎王は、本当に神に近しい者が、自らを犠牲にして怨霊を取り込むのだ。中世の頃の巫女は、神を鎮めるために巫(かんなぎ)の儀式で、神降ろしや神懸りをし、自らの体に神を降ろして神の望みを聞いたり、神のために踊りもした。卑弥呼の鬼道は、政治を言い換えた単語とも言われているが、私はこの神降ろしの原型だと思っている。東京大空襲の際、神を降ろせる巫女が明治天皇の霊を自らに降ろし、その霊を取り込んだまま封印された。こうして怨霊は再び封印され、東京が完全に破壊されるのを防いだのだ」

 

 今日、僕は何度驚いたか分からないが、もうとにかく驚いた。

 怨霊を取り込むという事は、当然斎王本人も無事ではすまないはずだ。東京大空襲があった時、被害を食い止める為、明治天皇の怨霊を自らに取り込んだ人物がいたのだ。


「何となくは分かったけど、その東京大空襲の時に明治天皇の怨霊を取り込んだ人はどうなったの?」

「平たく言えば、命を落とした。いや、その人ごと部屋に封印された」

「その人ごと封印?」

「神を降ろしたその女性をそのまま結界に封じたのだ。本当かは分からないが、彼女がそれしか方法がないと言い、当時の神職たちが泣く泣くそうしたと聞いている。そして、その女性こそ私の曽祖母だ」

「リリィのお婆さん…」


 ようやく僕の頭の中で色々なパーツが繋がってきた。東京大空襲の日、明治神宮から出て東京を火の海にした怨霊を、自らを犠牲にして封じた女性がリリィの親族。そして、リリィは、その繋がりで明治神宮に封印されている怨霊の封印に関わっているのだろう。


 リリィは拳をギュッと握った。そして僕をじっと見て言う。


「その後、怨霊の守り手として役割は、私のお婆さんが継ぎ、母が継ぎ、今は私が継いでいる」

「なるほど。リリィは明治神宮から怨霊が出ないようにしている一族の一人なんだね」

 きっとそれは僕が思うよりもずっと厳しい人生で、大変なことなのだろうと思う。今現在斎王という制度はない。その上、日本は制度上国民に主権があるので、法律さえ守っていれば基本自由である。そんな社会の中、代々これを継ぐのは本当にキツいと思う。


「よよよ…リリィちゃんそれは大変だねえ…ぐすっ」と凪が僕の膝の上で鼻をすすりながら泣き始めた。凪はどうやら斎王の辛さを知っているようだ。。


「泣かないで。今はもう大丈夫だから。私は昨日までの私じゃない」そう言ってリリィは凪の肩に手を置いた。

「ぼんどうに?」と言いながらリリィを見上げた凪に「ああ。本当だ」とリリィはにっこり微笑んだ。


 そんな顔ができるなら最初から笑ってほしいと思ったが、こんな状況ではそうもいかなかっただろう。

 ハンカチで涙を拭いた凪は、リリィに微笑んだ。


「私が普段明治神宮でしている仕事についてはこの後に話す。まずは今の状況についてだ」

「うん。お願い」


 リリィは一旦笑みを引っ込めた。そして腕を組んで渋い顔をして言う。


「現状は端的に言うと最悪の状況だ。私はある組織に攫われていて、意識を失った状態でどこかに閉じ込められている。普通に探したとしても、私の身体を見つけるのは厳しいと思う」

「捜索願いを出せば?東京には警視庁があるでしょ?」

「警視庁は慢性的な資金不足と人員不足で、余程じゃないとリソースを割かない。それに、明治神宮が警察に捜索届けを出していない可能性が高いし。相手の組織の人員が警視庁にも絶対にいるはずだ。この戦いは私たちにとって、考えられられないほど不利な戦いなのだ」

「それは不利なんてもんじゃ…」

「でも、最大の懸案だった『犬』はしばらく動けない。だから今は最大のチャンス。いくら不利と言っても可能性はゼロではない。少数だが明治神宮にも仲間はいる。彼らと連携が取れれば道筋は見えてくるかもしれない」

「うん、分かった。その仲間とはすぐに連絡取れるの?」

「それが、まあ、取れると言えば取れるのだが、まあ、取れる」


 何だか歯切れが悪い。


 リリィはかなり拗らせていて、コミュ障なきらいがある。素直にお願いする事ができないのかもしれない。ここを突っ込むと面倒なので話しを先に進めよう。

「分かった。まずは敵について説明して」

「ふむ。そうだな…」

 リリィは後ろを向くと、下を向いて何かを考え始めた。


 きっと説明が難しい組織なのだろう。僕が政治、経済や歴史など色々なことに詳しければ普通に話せるが、知らない事が多過ぎるので噛み砕いて話しをしなくてはいけないのもある。リリィには迷惑をかける。


「まずは日本には、千七百年前の神武東征以前から今へと繋がるいくつかの名家がある。その中には日本を支配できたかもしれない家すらある。そのような家の中には、再び日本で輝きたいと切望している人間もいるのだ」


 神武東征って…そんな時代から象徴天皇制となった現代にかけてそんなことを思い続けている人間などいるのだろうか?


「今、そん奴いないだろって思っただろ」

「う、何故それを…」

「君はよく顔に出る」

 僕は両手で顔を触って無表情を装ったが、無駄だと言いたげなリリィの目に圧殺された。これからはポーカーフェイスも練習しなくてはならない。

「ふん。まあ、そう思っても仕方ないが、世の中には過去の栄光をどうしても捨てきれない人間が少なからずいる。世が世ならばと次の世代に連綿と伝えられれば、そう思うようになっても仕方ないのかもしれない。勿論、その一族がどんなに切望しようと、そんな事は絵空事で思い通りになるはずがない。そうなると、後先考えずに一発逆転を狙ってとんでもない奴と手を組んだりする。その家が、後々禍根を残すのが確実な、白き九尾の狐の眷属の甘言に乗って行動を起こしたのを見れば、御多分に洩れずという事だ」

 リリィは呆れ顔を僕に向ける。それは呆れるだろう。


 そこまでして手に入れたい権力とは何なのであろうか?僕には理解できない。今の日本で独裁を築けるとも思えない。


「そう。今の日本では独裁は無理だ」

「え?声に出して言ってないよ、それ…」

「君の顔に書いてあるから、余計な事は言わなくていい」

「ええ!!」

 何も言わなくても分かるほど僕は顔に出るのだろうか?それとも、リリィは相貌心理学でも極めているというのだろうか?

「いえ、雄二さま。それはありません。顔だけで考えている事がわかる人間はいません」

「いや、僕は何も言っていないけど…」

「……」

 もう、面倒だから考えるのをやめよう。残念ながら僕は顔に出やすいのだ。


「では、彼らは何を欲して、どうして『犬』と手を組んだのかを話す」


 リリィの話しはいよいよ核心に入る。リリィは一重の目を鋭くした。


「まず、簡単に古事記や日本書紀の話しをするが、あれは天皇家の系譜について書かれてはいるが、継体天皇以前の話しはあくまでも天皇家の正当性を主張するためのもので、その時代に天皇家よりも大きな力を持っていた勢力がいても何ら不思議ではない。というよりも当然いたと言ってっもいい。しかし、最後に勝ったのが天皇家である以上、その正当性を覆す事はもうできない。もう天皇家が実権を握ってから千五百年は経っているのだ。いくら、自分の一族が当時一大権力を誇っていたと言っても、それを信じて、あなたを信奉しますとはならないのだ。にも関わらずそれでもそれを主張したい人間がいるのだ。その根拠がない訳ではない。それは先代旧事本紀を信じるかどうかにかかっている。あれを偽書という人間もいる。しかし、労力をかけて作られたものは必ず何か意図がある。完全に嘘とはならないと考えるのが普通だ。先代旧事本紀は九世紀から十世紀にかけて書かれた史書で神道の神典でもある。尾張氏と物部氏について詳しく書かれているのが特徴だ」

「尾張?物部?」


 そんな昔の一族の名前を言われても、聞いた事がなくて流石に分からない。


「そうだな。海人(あま)族で饒速日(にぎはやひ)に関係の深い一族と覚えていてくれ」

「わ、分かったよ」

 全然分かっていないが、ここはもう全て話してもらった後にそういう歴史があったと思うことにしよう。

「では、先ほどの話しに加え、海人族とは何か、饒速日とは何かについても少し説明する」


 もはやリリィによる歴史の授業だ。僕が勉強しなければと思っていた歴史は表層的なものに過ぎず、本来勉強しなければならないのはこうした日本という国の根幹をなす歴史なのだろう。これが分かって初めて源相さんやリリィが本当に言いたい事が分かるのだ。


 僕は両頬を叩いて気合を入れた。少しでも話を理解しなければいけない。


「まずは海人族だ。これほど単純ではないが、文字通り海で漁をし、貿易を担っていた一族だ。古くから天皇一族を補佐していて、イザナギから生まれた綿津見三神と住吉三神も海人族とされる。天孫瓊瓊杵尊(ににぎのみこと)と結婚したのも海人族の娘であるし、朝鮮への出兵の際、多くの海人族が活躍した。その後、海人族から越智氏や紀氏といった有力な氏族が出てくる。紀氏には五十猛(いたける)という素戔嗚の息子とされ、日本に多くの樹木を植え、日本を緑豊かな地にしたとされる人物がいる。古事記(古事記では大屋毘古神)や日本書紀にも出てくる神様だ。紀伊半島で盛んだった林業を基に船を造って、その近海に広範囲にわたって勢力を広げていた。その五十猛が今回の肝だ」

「えーと、その、天皇一族をサポートしていた海人族の中の五十猛が重要なんだね?」

「そう。五十猛が重要だ。彼は相当な人物で、饒速日(にぎはやひ)と同一視する人もいるくらいの大物だ」

「饒速日?」

「そうさっき言った饒速日だ」


 そう言えば、リリィは饒速日に関係が深い一族とか言っていた。その饒速日とは誰なのか?


「その饒速日がある意味で曲者で、神武天皇が大和に入る前に大和を統治していたとされる人間なのだ」

「え?そんなことあるの?」

「ああ。神武天皇は東征の際、紀伊半島から大和に入り、饒速日から大和を受け継いでいる。その饒速日も色々と伝説を持っている。高天原で天照大神から十種神宝(とくさのかんだから)を受け取り、天磐舟(あまのいわふね)で地上に降りてきたという。そしてこれが後の物部氏の祖神となる宇摩志麻遅命(うましまじのみこと)の父神だ」

「えーと、物部氏…」

「最初に先代旧事本紀が尾張氏と物部氏について詳しく書かれた歴史書だと言ったのを覚えているか?」


 僕は目を逸らして記憶を呼び起こすと、そう言えばそんなことを言ってたと思い出した。


「海人族である五十猛と饒速日は、紀伊国と大和国という隣接する国の関係を差し引いても関係が深い。そして、彼らは紀伊半島から大和の地までを統治していた可能性もある。かつてはとてつもなく大きな一族だったということだ。つまり、神武天皇が大和に入るまでは、その地で最も大きな勢力だったと考えても間違いではないということだ」

「なるほど」


 ようやく、リリィの言いたい事が分かってきた。


 要するに、その五十猛だか饒速日の一族が、一時期、畿内で天皇一族をも凌駕する勢力を持っていた。そして、大和の地はもともと自分たちが持っていたものだから、その正当性は自分たちにあると言いたいのだ。


「ふむ。理解が早くて助かる。その通りで、その一族の一部は今でもそう思っている」

 僕の顔を見ながら、リリィは満足そうに頷いた。

 何も言っていないのに、僕の考えている事がダダ漏れすぎる。顔に文字でも書いてあるのかと疑いたくなる。

「加えて、当時隆盛を誇った海人族はその後没落し、今に至っている。そのあたりも今回のことに関係しているように思える」


「その物部氏の末裔の人はどうして明治天皇の怨霊を使おうとしているの?」


 リリィは顔を僕の顔にグッと近づけた。

「明治天皇の怨霊が出てきて、悪さをすれば国民はどう思う?そして、物部氏の末裔が怨霊を食い止めたとすれば人々はどう思う?」

「で、でもみんな怨霊なんて見えないよ」

「いや、みんなではない。昔から霊感が強いと言われる人間はいるだろう?そういう人間の中には一定の確率で霊が見える人間がいるのだ。東京には千四百万人住んでいる。それだけ住んでいれば、見える人間も相当数いる。その中には人々に影響力のある人間も少なくない。才覚があれば映像を通じて見られる人もいるかもしれない。そうやって全国の人間が、彼らの功績を讃えれば、少なからずそれを信じる人間も出てくるのだ」

「そんなことのために『犬』と手を組んでリリィを誘拐したの?」

「そうだ。そんなことの為だ」


 何というか、人間の願望というものは際限がないらしい。人類の最大の敵となる九尾の狐と手を組んで、虚栄心のために明治天皇の怨霊を使う。これは絶対に食い止めなければならない災厄だ。


「酷い連中だね。でも、その組織は東京を焼け野原にした怨霊を本当に封印できるの?」

「ああ。おそらくできる」

「え、そうなの?」


「ああ。そのために私を拉致したのだからな」と言うと、リリィは遠くを恨めしそうに見た。

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