最終話:決着




 ふわふわと……、雪が降りはじめ、足もとにうっすらと積もっていく……。



 殷王宮の城壁は二重構造だ。

 外へと通じる玄武門に至るには、まず東宮を巡る見上げるように高い第一城壁から脱出しなければならない。


 しかし、東宮北門には警護のもの達が常駐しており、後宮の女が許可なく出るのは不可能だ。


 暁明は東宮北門を避けて、城壁にある階段を魅婉の手を引いて登っていく。登る階段はあっても、向こう側に降りる階段はない。


 どういうつもりなのか、それは明らかだ……。


(魅婉、このままでは殺されるぞ)

(この雪のように、なにもかも隠すことができるのなら、何も望むことはありません。わたくしは弱い女です)

(それでも魅婉、おまえの暁明を取り戻したくないのか?)

(暁明さまを)

(そうだ。彼は奴のなかにいる。それは、わかるだろう?)


 沈黙がつづく。

 魅婉の心には深く底なしの虚無がある。諦めにも似た、その底なしの虚無に俺自身も染まりそうになった。


(魅婉……)


 ふいに、なんの前触れもなく五感が戻ってきた。魅婉が身体を手放したのだ。


(魅婉、ありがとう)


 俺の目は実際に景色を見ており、俺の手は暁明の肌の感覚を知る。生温かい手……、くっそ気味が悪いぞ。

 

「待て、暁明シァミン


 途中、階段の踊り場で俺は奴の手を振り払った。


「どうしたのですか? 魅婉」

「暁明は、どうしているんだ」


 奴は不思議そうな顔つきで俺を眺め、ゆっくりと口を半開きに引き上げた。笑うというより泣く能面のような表情だった。


「やっと戻ってきたのですか。悲劇のヒロインを相手することには、そろそろ限界を感じてましたから。もう少しで首を絞めそうでした」

「血に飢えたおまえらしいな」


 俺は階段の踊り場で立ち止まり背後を観察した。しんしんと降り続く雪にまわりの音が吸収されていく。


「なあ、俺が魅婉ではないと、いつ知った?」


 ふふふと奴が声を出した。

 それは笑い声ではなく、大根役者が笑いを演じているような不自然なもので、森上はこんなふうに笑うのかと思うと背筋が凍る。


「最初からです……、あなたは後宮で目立ちすぎましたから。僕から先にご挨拶がてらプレゼントをお送りしたんです。さあ、相談です。それで、どうしましょうか?」

「どうするだと? 俺はおまえを捕まえて必ず裁きを受けさせてやるよ」

「おやおや」

「面白いじゃないか、森上。この奇妙な世界で、俺たちはあの駐車場の屋上のように向かいあっている。二度目の機会という訳だ」

「いえ、機会ではなく、これが運命だからです」

「かってに運命にするな。けったくそ悪くなる」


 カクカクっと奴の頭が痙攣するように動いた。

 奴は何を考えているのだろうか。目がぼうっとして俺を見ているようで、見ていない。

 それから自分に語るように、平板な口調で話しはじめた。


「どんな立派な人間だろうとも、自分のこととなると愚か者になるようですね。もっとも理解しがたい者が自分だとは気づきもしない。しかし、それも幸いだ。本来の自分とは暗澹たるものでしかないのだから」

「そこ、普遍の真理みたいに置き換えるな。おまえは、それほど偉いもんじゃない。単なる寂しがりなんだよ」

「つまらない、つまらないよ、獅子王さん。そんな可愛い顔が、あなただなんて、神は残酷なことをしますよね」

「神に例えるのが好きなやつだな。おまえの言う神とはなんなのだ」

「この混乱と混沌を作ったものです。神は残酷です。僕たちが、こうした別世界を巡ることで、なんの決着をつけようとしているのか理解できますか?」

「……」

「あの方々の暇つぶし。僕は殺し、あなたが追う。僕たちは盤上のコマにすぎないのです」


 雪が降っていた。

 だんだん激しさをます雪は奴の髪を白く染めていく。


「おまえの妄想話は聞き飽きた。そろそろ決着をつける時間になったようだ、森上」


 階段の踊り場──

 俺は、自分の身体をすっと低くして横にずらした。背後をうかがう。来てるよな。おまえなら、親友よ。俺の与えたヒントを正確に把握しているよな。


 階段の影になった部分を見て、俺はにやりと笑った。


 叫ぶ!


「天佑、いまだ!」

「斬!」


 踊り場の下、壁の影に身をひそめていた天佑が、……刹那、宙を舞った。


 ざっと、両足を空高く蹴りあげ、飛ぶように天佑は剣を払う。それは、一瞬の迷いもなく、目に見えるより早く、放たれた刃が森上を切り裂く。


 奴は避けなかった。


「チッ、あ〜〜ぁ……。やられちゃった」


 額から血を垂らしながら、冗談のように彼は言った。痛みを感じていないのか。口もとが醜くせりあがり、軽く笑みさえ浮かべている。

 その目が逝っていた。

 美しく繊細な顔立ちゆえ、逆に恐ろしい。


 その後の行動は止められなかった。いや、できなかったというのが正しい。


 奴は深い傷を負ったはずなのに、まったく動じもせず、俺を抱き抱えると階段を駆け上がり、そのまま城壁の外へと飛び出したのだ。

 避けられなかった。

 予想はしていたが、魅婉の身体は軽すぎる。


 あの瞬間が再びフラッシュバックした。

 駐車場から奴に押されて落下したとき、森上は俺の身体をクッションにして生き延びた。


「魅婉さま!」


 城壁の上から叫ぶ天佑の顔が、あの日、駐車場の屋上から叫ぶ佐久間に重なる。


 あの日も寒い日だった。

 雪は降っていなかったが……。


 スローモーションのように、ゆっくり景色が動き、俺は落ちていく。また、死ぬのか……。


「魅婉……、さま」


 森上の顔が激変した。


 これは、この悲痛な表情は……、暁明だ。


 暁明は俺を抱き寄せると、身体をくるりと回転させて胸のなかに守るように抱きしめた。その上、落ちていく城壁の壁を足で蹴り、そのまま近くの枯れ木に飛んだのだ。

 傷を負った身体で、なんという胆力だ。


 ドンという鈍い音で、俺たちは枯れ木に落ち、俺はそのまま彼の胸からころがり落ちる。

 その腕を暁明がつかんだ。

 地上と木の間で、俺は宙ぶらりんにぶら下がった。ずるずると腕をつかむ暁明の手がすべっていく。

 暁明から流れ落ちる血が彼の腕を伝い流れ、にぎった手を滑らせる。


 俺は地上を見た。

 目測では三メートルほどか。落ちて大怪我をしても死ぬような高さではない。魅婉の身体は弱いが、それでも骨が折れるくらいだ。


「離せ、暁明。おまえのほうが重症だ」

「魅婉さま……」


 ずるずると身体が落ちていく。

 その時、彼がふっとほほ笑んだ。


 木から転げ落ちる瞬間、暁明が渾身の力で俺を引き上げ、その胸に抱いた。そのまま地上に激突した。


「しぁ、暁明シァミン!」


 彼は苦しそうにゴホゴホと咳き込んだ。大量の血が口もとからあふれ出てくる。


「大丈夫か、暁明」

「お、お怪我はありませんか……」

「話すな。いま、助けてやる」

「魅婉と、話を……させてください」


(暁明、暁明、暁明!)


 魅婉が悲痛な声で泣き叫んでいる。しかし、表に現れたとき彼女は取り乱さなかった。優しげな表情で彼の頬をなで涙も見せない。


「……暁明シァミン。わたくしよ」

「わたしの小婉シャオウァン。よかったご無事で」

「あなたが守ってくれるから」


 暁明が唇をあげ微笑もうとして失敗した。


「小婉、……あの、秘密の庭を覚えていますか? わたしは、あの庭が好きでした。あの庭で誓ったように、お守りできたようだ。しかし、もう最後です……。魅婉、どうか麗孝リキョウを……」

「いやよ、暁明。わかっているでしょ。また、あの人には、ふたりで意地悪するのよ」

「どうか、約束……、してください。……麗孝を頼って幸せになると」


 悲しみに張り裂けそうな声で魅婉の心が叫んでいる……。

(暁明、暁明、暁明!)。

 しかし、彼女の声は冷静だった。


「ありがとう、暁明。もう休んでいいわ。わたくしは幸せになるから、心配しないのよ」

「よかった……」


 すまない、魅婉。

 こんなつもりじゃなかった。


 おまえたちに何の罪もない。もっと幸せであってよかったのだ。





「魅婉さま」


 頭上で声がした。俺は天佑の顔を見ることができなかった。


「天佑、間に合ってくれたな」

「なんとか」


 立ち上がろうとすると、天佑が手を差し出した。生まれてはじめて俺は人の手を借りたいと思った。


「暁明の身体を大切に弔ってくれ。あいつが悪いわけじゃない。これは呪いだ。呪いをかけられただけなのだ。この男に罪はない」

「あなたが、そうおっしゃるなら、そういうことに致しましょう」


 その夜、雪は本降りになった。

 血にそまった暁明シァミンの身体を、まるで弔うように白く染めていった。



(エピローグにつづく)

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