悪魔の手を取ってはいけない
ダメだ! 魅婉、その手を取るな。
「
奴の声に俺の身体が動く。
魅婉が俺から身体を取り戻したのだ。彼女の白く柔らかい手が、傷の多い大きな手に重なる。
(頼む、魅婉。本当にまずいんだ。正気になってくれ!)
俺の声は心の奥で虚しく木霊して、沈んでいくばかり……。
真っ暗な闇のなか、なにもできなくなった。両手両足をもぎ取られたようにおぼつかない。
映像を見る観客の立場になって、魅婉の行動を眺めるしかないのか。
なんと無力なんだ。
主体である魅婉が最悪のタイミングで俺から主導権を取り戻してしまったようだ。よほど強い感情なのだろう。
これが、俗にいう愛の力か。
言葉にする自分が、こそばゆくなってくる。
だから、三十八歳で恋人がいなかったんだ。いや、いま、そこ反省するところじゃないっ。
愛の力などという形のない、あやふやな感情に負けるのか、獅子王。おまえの思いは、その程度なのか!
(うぉぉおおお!)
(うおおおおおおおおお!)
(うおおおっと、と、と、とっ……)
──だ、だめだ。
どうも、その程度のようだった……。
俺の葛藤なんて完無視して、ふたりは言葉をかわしている。
「さあ、
「わたくしたちに生きていける場所などないのに」
「いや、ひとつだけ、君の生きる場所があるんだよ、小婉」
身体がかってに動き、暁明についていく。
こうなったら、他の誰かが俺を助けるしかない。
そうだ、麗孝よ、いつまで寝ている。
魅婉が行っちまうぞ、それでいいのか?
そんなとこで無邪気な顔をして、すやすや眠っている場合かっ!
おまえの思いはその程度なのか。
愛する女だろう。
なんとか、起きろ。起き上がって、止めろ! この場合、俺の最高の味方はおまえしかいないぞ!
「&△@……、むにゃむにゃ……?」
ありえん。森上がこんな無邪気に策にはまって眠りこけるのか?
奴の行動様式は常人とは別にある。
魅婉を愛して酒に酔っ払うなど、それはあまりに人間的すぎる。人としての愚かさや愛らしさとは無縁の……、薄気味悪い男が森上だ。
起きろ!
おい、皇太子!
この世界の絶対権力者らしく行動しろ。
「さあ、行こうか、魅婉。外は寒い、上衣を着るといい」
そういえば、あの時も、この男は外壁で自らの命を断とうとした魅婉を救った。常に魅婉を守っているようだ。
(魅婉、魅婉。なあ、魅婉ちゃん、魅婉さま。頼む、俺の声を聞いてくれ!)
障子戸の向こう側で太華と、皇太子の警護たちが眠りこけていた。魅婉が思わず太華の鼻先に手をかざした。
「生きていますよね」と、不安そうに魅婉が聞いた。
「大丈夫です。眠っているだけです」
「でも、外にも皇太子の従者たちがいるでしょう?」
「こちらの裏口から出ましょう」
(麗孝! 起きろ。これはまずい! もう、おまえしか俺を救えない。必死に起きろ! 今が最後のチャンスだ)
俺の悲痛な叫びは虚しく心の奥に消えていく。
俺の身体は、つまり魅婉は難なく部屋から外へと脱出した。
そのまま王宮の北側にある玄武門に向かっているようだ。
(魅婉、まずいぞ、本当にまずい。俺が悪かった。おまえに隠していることがあるんだ!)
(どうか、黙ってください)
(聞こえているなら、聞け)
星のない夜だった。
厚くたちこめた雲が空低く垂れ込めている。冷たい雨か、それとも雪が降るかもしれない。
「どこへ行くの、
「あなたさまの行かれたいところに」
「わたくしの行きたいところ? そんなところがあるのでしょうか」
「死にたいのでしょう」
「それは……、息をするのさえも苦痛な日々です。あなたは違うのですか?」
「こんな身体にされて、わたしも、ずっと生きているのが苦痛でした」
「今はちがうのね。……あっ、雪、美しい」
夜をおおう厚い雲からチラチラと雪が舞いおりてきた。
「雪は氷からできる結晶にすぎない。どこが美しいのですか?」
「暁明?」
魅婉が立ち止まった。
(魅婉、やっと気づいたのか?)
(獅子王さま、彼は何を言っているの?)
(いいか。顔色を変えずに聞け。奴は暁明でもあるが、殺人者でもある。仙月たちを殺したのは、奴だ)
(それは、麗孝さまだと)
(違う、麗孝でないのは明白だ。森上は、あんなふうに無防備な姿を俺のまえに晒すような奴ではない)
(でも、彼は、あなたにしかわからない言葉……、『僕の愛する人』と呟いた)
(それこそが奴の手段なんだよ。どこかで麗孝に吹き込んだにちがいない。俺もまさかと思った。しかし、本当に奴なら酔い潰れるなど、ありえんのだ。そして、もう一つ、暁明は俺の言葉を理解する。最初からそうだった。この世界で使わない言葉をすんなり受け入れている。最初は無口だからかと思ったが、違ったようだ。『雪の結晶』などという科学的な言葉など知らないだろう?)
奴は下手な芝居までして、俺が何者か確認したこともあったが、それこそが奴の方法だ。常に演技をして本音を明かさない。
(そ、それは……)
(もう一つの理由がある。麗孝でない理由だ。皇太子は自己肯定感が強い男だ。そんな男に憑依しても、先ほど、おまえが俺の自由を奪ったように、意志の強さで自分を取り戻す。おまえたちのように心が弱っていないのだ。おまえに力を奪われて確信した。この後宮を自由に動け、殺人を犯せる者は、それほど多くはない。こいつが森上だ)
魅婉は深く息を吸い込むと、その場に倒れそうに身体をぐらつかせた。
「
(俺と変われ。このままでは殺される)
(でも……、その何が悪いのでしょう)
(いいか。裸で外に晒されて、後宮の女たちの目に晒されたいのか。太華が卒倒するぞ。死ぬにしても、誇りというものがあるだろう)
「それほどまでに、怨念にとりつかれている……」
泣きたくなるほど悲痛な声で魅婉はつぶやいた。
(つづく)
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