すべてを諦めた美しい人




 翌日も、俺は意気揚々と東廠とうしょうへ向かう準備をした。


「お姫さま、どうかご無理をなさいませんように。ずっと、塞ぎ込まれていたお姫さまが、そのようにお元気になられ、嬉しゅうございますような、……不安なような」

「太華。長生きしろ」

「え?」


 障子戸を元気に開放すると、雲ひとつない冬晴れの良い天気だった。


 ひゅーっと風が頬をなぶって去っていく。それが刺すように冷たく、思わず「寒い!」と文句を言ってみた。


 男のときは感じなかった、このおぼつかない感覚。女の素肌は、いろんな意味で繊細すぎて扱いづらい。

 白くきめ細かい肌は傷つきやすく、ちょっと爪でひっかいただけでも赤くみみず腫れができる。


 まったく、魅婉ミウァン

 おまえ、よくここまで生きてこれたな。ある意味、尊敬するぞ。


「じゃあ、行ってくる」


 障子戸の外へと勢いをつけて飛び出すのと、つむじ風が吹き込んだのが同時で、ふらっと身体がぐらついた。

 チッと思った瞬間、誰かにそっと肘を支えられた。


 振り返るとそこに暁明シァミンが立っていた。


「なんだ?」と言った声が、相変わらず可愛らしい声でうんざりする。


 声もだが、自分の身長が低いってことを、こんなとき妙に自覚する。

 以前は一八三センチあって人を見下ろしていた。それが、魅婉は一六〇センチもない。

 女として、それほど低身長ではなさそうだが、どうしても一八三センチの感覚が抜けきれない。

 暁明シァミンが巨人のように見えた。


 彼の容貌は殷麗孝イン・リキョウに比べると中性的で、左目の下にある泣きぼくろが色っぽく、こういうのを白皙の貴公子というのだろうか。

 俺さまタイプのムンムンした男ぽい殷麗孝イン・リキョウとは対照的で、彼に恋した魅婉は、おそらく、この中性的な優しさに惹かれたのだろう。


 暁明シァミンはしばらく俺の肘を握ったまま離さない。

 なぜか胸がドキドキしてきた。

 肘をささえる手を振り払ったのは照れたからだ。暁明シァミンの表情は変わらず、静かに佇んでいる。彼の心を推しはかるのが難しい。

 これが麗孝なら、何か冗談を言ったり、反発したりするだろうが、彼はしない。


 その態度に胸がさらに高鳴ってしまう。

 かああぁ、魅婉ミウァン

 おまえの感情に踊らされるのは、これっきりにしたいぞ。


「お供いたします。魅婉さま」

「どうしてだ」


 さすがに、このそっけない態度に暁明は傷ついたように見えた。肘から手を振り払ったときも動じなかったのに。


「魅婉さまを守るようにと命じられました。危険があるとのことで、しかし、天佑さまはお忙しく、常に護衛なさることも難しいようですので」


 天佑から命じられたのか?

 本来の地位なら、宦官の天佑が従うべきは殿上人だった暁明の方だ。彼は、こうした身分に落ちた自分に屈辱を感じてないのだろうか。


 魅婉、おい、魅婉。

 こいつはロボットか。

 やはり、答えがない。しかし、感情の波だけは襲ってくる。


 ──狂おしいほど愛おしい方。お可哀想に、辛くて、辛くて、とてもお会いできない……


 げっ。

 わかった、魅婉。聞いた俺がバカだった。その心はしまって深く眠っておけ。


「俺を守る必要があるのか」

「天佑さまは、そうお考えです」

「ま、この身体はひ弱だ。それはわかった。行くぞ」

「どこへなりとも」


 俺を見つめる暁明シァミンは、どことなく悲しみを帯びた目をしている。耐えることに慣れた目をしている。

 哀れな奴だと思う。

 好きな女を敵である皇太子に寝取られ(いや、実質的にはまだだが)、それを表に出せないのだ。


 俺がこいつの立場だったら、どうするだろうか。


「ああ、やめた、やめた」

「どうなされました」

「ふん、解決のつかんことを考えてたんだが、無駄なことだった」


 彼はふっとほほ笑んだ。


「あなた様は変わられた」

「そりゃ、そうだ。だが、誰も信じちゃくれない」

「何をですか?」

「俺の存在そのものだ」


 かわいい声で、俺、俺と言う女は、案外と俺好みだと思う。周囲の者も、この声で乱暴な言葉使いをする俺をどう思っているのだろうか。

 魅婉はもと公主だ。

 大勢の使用人が仕えていただろうが、謀反によって散り散りになった。側室になってからは部屋にこもりきりで、太華とふたりの使用人以外には姿を見せていない。


 昔の彼女を知っているのは、皇太子と暁明しかいないだろう。


「本当に別人のようです」と、思わず暁明は呟いた。

「なあ、暁明。昔の俺を好きだったのか?」


 暁明は出会って以来、はじめて動揺したように、びくっと身体を震わせ、微かだが苦痛に満ちた表情を浮かべた。


「魅婉」と、彼は自覚もなく俺の名前を呟いた。おそらく、自分でも声を出したと気づいていない。


 俺は昨日と同じ宦官服を着ており、その姿のまま大きく胸を張った。


「ああ、俺は魅婉だが。魅婉じゃないぞ。だから、もう忘れろ」

「どういう意味でしょうか?」

「文字通りの意味だ。さあ、今は仙月殺害犯の逮捕が先だ。それが終わったら、ゆっくり話そう」


 暁明シァミンは穏やかな表情でほほ笑んだ。こういう顔を以前、見たことがある。すべてを諦めた男の顔だ。


 もしかすると、こいつは死に場所をさがしているのかもしれない……。




(つづく)

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