皇太子妃の嫉妬



 殷麗孝イン・リキョウは罪な男だ。

 立ち姿や所作に気品があふれ、スタイルも良い。

 鼻筋が通った切長の細い目、すっとした和風人形のような端正な顔立ちで、奴を見ていると、こちらまで妙な気分になってくる。

 この感情は度し難い。

 俺であって俺ではないような……。

 魅婉ミウァンの意識にどこまで影響されているのか。それを自覚するのが難しいから困るのだ。まるで自分の感情のように彼女の意識が混じっている。


 麗孝リキョウは、ちらりと俺を確認して、というか魅婉を確認した。


「こんなところで、何をしておる」


 強い口調で発せられた言葉は語尾が冷たくかき消える。

 俺と天佑以外は全員が凍りついた。

 俺にとって麗孝はウザい奴だ。

 なぜか、いや、そんなことを考えるだけでも苛立つが、天佑と同様にこの男からも俺と同じ匂いを感じるからだ。ということは、俺は警察の同僚たちのあいだで、かなりウザい存在だと思われていたのか。

 いや、違う!

 違うはずだ……。

 きっと、違うぞ。


「こんなところと言われてもな」

「その上に、その格好はどうしたのだ。おなごが宦官にでもなるつもりか」


 その場にいた全員が麗孝リキョウの顔色を伺っている。

 彼の気分を損ねるのが恐ろしいのだろう。

 しかし、天佑だけは怯えていないようだ。機嫌が悪そうな麗孝に、頭をさげてうやうやしく拝手はいしゅしたが、言うことは言うのだ。


「魅婉さまに捜査をお手伝いいただくのは、先日、ご許可をいただきました」

「余は宦官の姿までさせよとは言っておらん。天佑よ、どういうつもりだ」


 まったく、根っからの俺さま気質だな。


「俺が頼んだ……、あれ?」


 天佑の背後に控えていた俺は、なんとも可愛い声で抗議して、自分の声に呆れて、つい、「あれ?」と言ってしまった。


 水を打ったような静けさのなか、全員の視線を集めている。


 そういえば、佐久間から、『獅子王さんは、周囲にどう思われようが、我が道をいく方ですよね』とか言われていたが。


 ともかく魅婉の声は、可愛すぎてまずい。

 透明感があり、一オクターブ高いトーンで鼻にかかっている。

 男心をくすぐるだろうが、俺からすれば滑稽だ。

 だから、オクターブ低く声を落とすために、「あ〜、あ〜、あ〜」と、発声音を下げてみた。

 一番、低い「あ"〜〜」は、まるで吐いてるような「ゲェ〜」という音に近く喉を痛めそうだが、これで妥協するしかないだろう。


「何をしているのだ、魅婉」

「声を低くする練習をしてみた」

「今、ここですることなのか」


 麗孝リキョウが呆れたように聞くから、すべての視線が俺に集まってしまう。まったく困った男だ。


「昔から、おっちょこちょいだったが、それとも違う。なんとなくだが、天佑」と、麗孝は俺から視線をはずした。

「なんでございましょうか。殿下」

「魅婉は、どこか変……、いや、今はいい。余計なことだ。紅花よ」

「はい、殿下」


 紅花の声が、これまでより一オクターブ高い。


仙月シェンユについて、東廠とうしょうの捜査に全面的に協力してもらいたい。頼めるか」

「もちろんにございます、殿下」


 彼が来たのは、仙月の捜査にテコ入れしたいという訳だったのか。確かに、天佑は東廠とうしょうの長とはいえ、相手は皇太子妃で彼女の父親は丞相。宦官という最下層の身分で手におえる相手ではない。


 とにかく、麗孝が来てから、生真面目で陰気だった部屋の空気が一変して華やいだものになった。

 改めて感心したが、ここはハーレムなのだ。

 たった一人の男のために作られた世界。不自然この上ないシステムだが、それこそが後宮というものだろう。


「では、後で報告に参れ、天佑」

「かしこまりました」


 麗孝は、おざなりに紅花に目で挨拶をすると、くるりと背を向けた。彼が紅花を見る視線は俺に対するときと、あからさまに違った。


 この場で、それに気づいた者は俺と紅花だけだろうか?

 彼女は必死に耐えている。毅然とした麗孝リキョウの背中を冷静に見送ってはいたが、目に重苦しいほどの妬みが宿っていた。


 というのも、麗孝が去り際に俺をじっと見つめたからだ。それは、かなり長い時間で、紅花の視線に殺気さえも感じた。


 彼が魅婉を妹のようにしか思っていないというのは周知の事実だったはずだ。側室として迎えたのも、慈善事業に近い。

 これは魅婉の記憶であって、実際は、この女の勘違いかもしれない。


 紅花は疑ったにちがいない。いや、俺も怪しいと感じた。


 孤独な部屋に正式な妻を置き去りにしたまま、障子戸は残酷に閉じた。


 麗孝は未練もなく去っていく。そこに愛情の欠片もない。俺が感じるくらいだから、気位の高い紅花も内心では悟っているだろう。


 皇太子は定期的にこの部屋を訪れていると聞くが、今年に入ってからは、それも疎遠になっているらしい。


 なぜ知っているかって、それは太華が仕入れてきた情報だからだ。

 後宮は広いようで狭い。

 正妻と三人の側室、彼女たちに仕える高位女官の狭い世間では、すべての情報は筒抜けだ。


『紅花妃さまはお子に恵まれません。石女という噂で、皇太子さまのお渡りも、ずいぶんと減ったようにございます』と、太華は言っていた。


 麗孝が去り部屋の温度がすっと冷えたと思うのは気のせいだろうか。

 天佑の声が響いた。


「妃殿下、仙月シェンユ殿の部屋を拝見したいのですが」

「そうか」と言った紅花の声は冷たい。「秀鈴シューリンを連れて行くが良い。彼女と仙月は隣部屋であった」

「ご配慮、いたみいります。では、魅婉さま、参りましょう」


 天佑がうながされて立ち上がると、側に控えていた女官のひとりが立ち上がった。背が高く、どことなく剽軽ひょうきんな顔つきをしている。この女も美しいが、紅花とは違い他人が警戒しにくい愛らしい女だった。


唐秀鈴タン・シューリンにございます。ご案内させていただきます。どうぞ、こちらに」


 女官は目を埋没させるほど細めて、にっこりと微笑むと、仙月シェンユの居室へと案内した。




(つづく)

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