恋する女は、相手の男がいるとき態度が変わる



 魅婉ミウァンの記憶に残る紅花ホンファと、実際に俺が会った彼女は印象が違う。

 これだから目撃情報ってのは信じられない。

 ある意味、記憶ってのは、あやふやなものなんだ。


 紅花は自分より六歳年上で、美しくたおやかな大人の女性。なにもかも完璧で欠点がないと魅婉は思っている。

 悲運な過去にもかかわらず、魅婉には人を悪意でみる感覚がない。悪いことがあれば自分が至らないと考えるのだ。

 彼女が見る現実離れした世界は、まったくお花畑でしかない。

 この血生臭く、嫉妬と謀略に満ちた後宮で、よくもまあ、これほど世間知らずに育ってこられたものだ。


 もし、皇太弟であった父親が謀反で倒されなければ、自分が公主という立場であり、紅花より身分が高いとはつゆも思わない。

 その場合、殷麗孝イン・リキョウの側室ではなく、正妻であったろう。


 素直で純粋だが……、しかし、愚か者でもある。


 桜徽殿の母屋に通され、直接に相対した紅花は、お人好しでも愚か者でもなさそうだった。


 天佑が胸の前に手を合わせ頭を下げる揖礼ゆうれいという挨拶を、気怠げに脇息きょうそくにもたれて眺めている。

 その高慢な態度。

 彼女が強い意思をもった女であることは、疲れたような態度とは裏腹に、その目の油断なさにあらわれている。


「お時間をいただき、ありがたく存じます。皇太子妃さま」

「わらわは有名無実の妃です。かしこまる必要はありません」


 冷ややかな声で言い切る姿は凛として美しかった。

 少しやつれの見える顔は、それゆえに色っぽい。妖艶な女で、その妖艶さを無駄に消費してしまった女特有の悲しみをまとっていた。


「美しいな……」


 俺は思わず呟いた。

 それほど圧倒的な存在感がある。寂し気なのは単に子どもが生まれないためだろうか。それとも、別の理由があるのだろうか。


「こちらの女官であった仙月シェンユ殿のことはお聞きおよびとは思います」


 天佑は言葉を止めて顔をあげたが、紅花は何も言わない。


「過去に後宮で起きました事件からかんがみましても、凄惨なものにございました」

「哀れなことです。噂では、身体がちぎれておったとか、顔がなかったとか、とんでもないことまで聞き及んでおります」

「それは、さすがにございません」

「そうですか、安堵しました。仙月シェンユは朋友です。しかと犯人を捕らえてください」

「かしこまりました。つきましては、お願いがあって参りました」


 会話のあいだ、俺は紅花ホンファを観察した。被害者を朋友といった言葉に嘘はなさそうだが、朋友が亡くなったというのに表情も変えない。


 王族は他人に感情を悟られないよう、幼い頃から訓練を受けている。

 紅花は王族出身ではないが、おそらく野心家の父のもと、はじめから次期帝の妻になるよう訓練を受けていたにちがいない。


 そういう意味でも、魅婉はふにゃふにゃな女だ。

 丞相の息子に恋をして、幼馴染で仲のよかった皇太子を従兄弟としか見ていない。

 魅婉はすべてを持って生まれた。

 地位も名誉も、なにもかも。

 そのすべてを失ったとき、彼女は失意のどん底に落ちたが、もともとの純真さは傷つかなかったようだ。

 両親を殺された悲しみに浸るだけで、誰かを恨んではいない。

 やはり、お人好しだ。


「質問とは?」

仙月シェンユ殿は、いつからいなかったのでしょうか?」


 仙月シェンユは、皇太子妃の近くに侍って世話をする高位女官だ。主な仕事は、紅花の話し相手となることであり、宮中で行われる行事を主人のために手配したり、衣服を選んだりという仕事もある。


「いつからか。昨日は朝から挨拶にも参らなかった。ただ仙月シェンユに限っては珍しいことではありませんが」

「珍しいことではないと」

「あの者は父が見繕ってきた者ではない。ここに嫁いできたとき、皇后さまから賜った女官です。ですから、時に皇后さまに呼ばれて外出することがありました」


 皇后から下賜された高位女官ということは、現代的にいえば、しゅうとめのスパイってところだ。

 紅花は入内して二年を過ぎた。

 皇子を産まない嫁と皇后との関係がうまくいっているとは思えない。仙月は懐妊していた。男のいない後宮で懐妊となれば父親は皇太子である。


 状況証拠から客観的に考えれば、このツンとすました皇太子妃は最重要容疑者のひとりになる。


「彼女が寝起きしていた部屋を見せていただけますか」


 紅花は軽く目を上げただけで返事をしない。

 拒否するつもりだろうか?


 下級女官とちがい、高位女官は皇太子妃と同様に、桜徽殿から出ることはあまりないはずで、人に知られず誘拐するのは難しい。

 

 後宮は広大な場所を占有しており、あちこちに人目を忍ぶ窪みもあり迷路のような造りである。

 女は後宮から外へ出ることは難しく、一方、男は後宮に入るのは難しい。

 親兄弟でも一応の制限はある。ただ、それなりに抜け道はあるようだ。


 仙月シェンユが皇后の殿舎へ報告に出かけたとすれば、その途中で拉致することは、案外と容易いかもしれない。


 しかし、いったい誰が。

 それが問題だった。

 あれこれ考えていると、障子戸の向こう側から、女官の声がした。


「皇太子さまがいらっしゃいました」


 通路から声が聞こえ、同時に両開きの扉が開いた。


 部屋に入るのになど必要もない人物。それが殷麗孝イン・リキョウだ。

 彼が紅花のもとに訪れるのは数ヶ月に一度くらいと聞いている。

 俺は冷たい関係の夫婦だと思っていたので、奴が現れたのに驚いた。

 俺より、さらに驚き動揺した表情を浮かべたのは紅花だった。能面のようだった彼女の耳が朱に染まったのだ。


 確かに殷麗孝イン・リキョウは女にモテそうだ。

 細おもての顔は鼻筋が通り端正で男らしく、危険な香りさえする。魅婉ミウァンが恋した暁明シァミンとは違い、ムンムンとした男性ぽさと頼り甲斐のありそうな堂々とした態度で……。


「ありゃりゃ」と、俺は意識せずに声をもらした。


 紅花が彼に恋していると気づいたからだ。本命の男に対する女のサインってのをすべて出しきっている。ま、このサインについては心理学で学んだものだが、けっこう役に立つ。


 彼から視線が外せない。

 頬が染まる。

 表情が柔らかくなり、無意識に口角があがる。

 さりげなく上目遣いをしているようだが、それ、あまりにも露骨すぎるぞ。


 これは、まったく、ほんとに何てこった!

 すべての証拠が、仙月シェンユ殺害犯として紅花を指しているじゃないか。




(つづく)

  • Twitterで共有
  • Facebookで共有
  • はてなブックマークでブックマーク

作者を応援しよう!

ハートをクリックで、簡単に応援の気持ちを伝えられます。(ログインが必要です)

応援したユーザー

応援すると応援コメントも書けます

新規登録で充実の読書を

マイページ
読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
フォローしたユーザーの活動を追える
通知
小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
閲覧履歴
以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
新規ユーザー登録無料

アカウントをお持ちの方はログイン

カクヨムで可能な読書体験をくわしく知る