側室として皇太子妃と話してしまった
午後、俺は
空気が澄んだ美しい日で、肌寒さもやわらいでいる。
ときどき、ヒラヒラと枯れ葉が舞うのにも風情があった。
……んん? 風情とは。
この感覚、俺は大丈夫なのか?
警視正で仕事に追われていたとき、いや、子どもの頃から数学のカリキュラムに夢中になっても風情なんて考えたこともなかった。
こんなふうに、ゆっくり空を見上げたこともない。
空って、こんなにも雄大で、雲の形もそれぞれに興味深く風情が……。
いやいやいや、これは、いったいどういう感情なんだ。まったく俺らしくない。
「どう、なされたのですか」
「いや、空が綺麗だと思ってな。天佑、行こうか」
砂利道をせかせかと歩く足音が軽い。
俺が小柄だからだろう。それで、いやおうなく女であることを自覚してしまう。
ふと、不安に思った。
このか弱い身体で敵を撃退するには、どうすればいいのか。自分より大きな相手に対峙したとき、柔道の技をかけられるだろうか。
(なあ、魅婉。おまえも困るだろう?)
やはり返事はない。
「はっ!」と丹田に気合いを入れ、試しに柔道の技を繰り出してみることにした。
腰を落とす。
両手を交互に出す。
すり足で前に進んで、大外刈りの技をかける。
「魅婉さま」
可能な限り無理したような冷静な声色で天佑がたずねた。
「なんだ、天佑、……ハア、ハア」
「空が綺麗なことと、そのような奇妙な動きをなさる関連性がわからないのですが」
「ハア、ハア。ちょっと、人を投げ飛ばす練習をだな、している」
息があがってしまう。
魅婉よ、おまえ、何度も言うが相当に運動不足だぞ。
俺は次の技を繰り出す。
隣で砂利を踏み締める足音が止まった。
視線をあげると、呆れたような天佑の顔がすぐ近くにある。柔道の技を見たことがないのだろうか。
「桜徽殿に向かう途中で、何をなさっているんでしょうか。それは、誰かを呪うための舞いではありますまいな」
天佑、渾身のジョークか?
呪術的な世界と、現実的で堅物な天佑は相入れないと思うが。
そんな堅物が呪いという言葉を使うとは、この時代の文化には柔術より呪術が根付いているのかもしれない。
俺は目を丸くしてしまった。
どうやら俺たちは、まったく真逆の意味で同じ表情を浮かべたようだ。
「いったい俺をなんだと思っているんだ。呪いじゃない。身体を鍛えたんだ。時間は待ってくれんからな。襲われたとき、どう対応すればいいか、この身体に聞いている」
「身体に聞く? 面白い発想です。わたしは仕事に関わらなければ、他人にそれほど興味を持たないのですが。あなたさまには興味がつきません。いったい何者なんですか?」
何者か、とは。
実は、それは俺も知りたい問いだ。
「魅婉以外の何者だというのだ」
天佑は何も言わなかった。右眉を上にあげ皮肉な表情を浮かべただけだ。
「魅婉さま、この階段の先が桜徽殿です。皇太子妃にお取次ぎを願いましょう」
皇太子の私室である東明殿の向かい側に桜徽殿は位置しており、その二つは渡り廊下で繋がっている。
俺たちは渡り廊下を使わずに庭を歩いてきた。
「ところで、先に申し上げますが、魅婉さま、その話し方ですが。なんとかなりませんか」
「ダメか?」
「いえ、かわいいのは否定いたしませんが……、皇太子妃の御前でなさるには敬意に欠けるかと存じます」
天佑は、うっかり本音を言ったのか、耳が真っ赤になっている。
まったく、魅婉よ。おまえの容姿は罪深いようだな。こんな仕事に命をかけてる宦官でさえ、とりこにしそうだぞ。
「わかった。俺にも良識はある」
「いくぶん疑わしくはありますが」
桜徽殿は東宮で、もっとも華やいだ殿舎であるはずだ。しかし、どこか地味に感じる。
働く下級女官や、かしずく高位女官も多いのだが。それでも、寂れた感じがするのは、ここに子どもがいないからだろう。
その鬱屈からか、屋敷を含め下級女官から上級女官まで、みな生真面目な顔をして取り澄ましている。これでは、皇太子も足が遠のくのじゃないか。
今年、二十三歳になる、皇太子より三歳年上だ。
そのことが気持ちの上で足枷になっているかもしれない。
宦官からの情報によれば、
父である丞相や義理の母である皇后から、懐妊の兆候を聞かれ続け、その圧力は相当なものだろう。巫女による願掛けや、懐妊に良いという薬を取り寄せていると聞いた。
そんな子作り臨戦体制の殿舎から濃い香の匂いが漂ってくる。
「皇太子妃にお取り継ぎを」
「お待ちくださいまし」
かなり長い時間を待たされた。
お付きの宦官から、来訪を先に聞いていたはずで、
本来なら、早急に会おうと思うはずなのだが。
殿舎は、ひっそりとして、みな息を詰めているようだった。
(つづく)
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