後宮のシリアルキラー
「お、恐ろしいことにございますわ」
「何が起きてますの」
暗闇のなか、風にのって囁き声が耳に届く。
誰が誰に話しかけているのか。
几帳の裏で、障子の影で、門に隠れて、木陰で……、サラサラサラサラと、彼女たちの声は風に乗るよりも早く東宮を駆け巡る。
「殺されたの? 桜徽殿の高位の方らしいわよ」
「では、皇太子妃さまのところの」
「そうよ、ほら、桜徽殿の女官のなかでも、ひときわ目立って派手な方よ。ほら、もうお一人、
「では、あのお方?
「しっ! 大きな声で言わないで」
「皇太子妃さまが……」
「黙ったほうがいいわ」
後宮に閉じ込められた世間は狭い。女たちは変わり映えのしない日々に退屈している。
いかに下級の使用人だろうと、めったに外部には出られない。上級女官は、生涯を後宮に閉じ込められて生きていくしかないのだ。後宮の女たちは帝と皇太子の所有物であり、間違っても外の男の種を宿すわけにはいかないからだ。
そんな女たちにとって、噂話や事件は格好の暇つぶしになる。
彼女たちは娯楽に飢えている。形ばかりの同情さえすれば、すべての免罪符になると単純に考え容赦なく噂する。
「お気の毒なことね」
「誰が見つけたの?」
「下働きの洗濯女よ」
声を拾いながら、俺は中庭を突っ切り、人びとが遠巻きに見ている現場に到着した。
現場は規制線を張るという知恵もなかった。
その代わりに、帝直属の
彼らは一般の宦官とは衣装が違う。
全身を黒く染めた衣装に、鉄の胸当て。頭には折烏帽子。普通の宦官がつけるものとは違い、頭部の形がひしゃげている。
全員が鍛えられた肉体をしており、態度は居丈高だ。
普通の宦官は小太りになる者が多いが、彼らは武芸を極め、体つきも筋肉質だ。その長である提督東廠、
「太華よ、あの背の高いのが提督東廠か」
「は、はい、天佑さまにございます。姫さま、どうかお近づきになりませんように、彼に睨まれて、この後宮で無事に生き残ることはできません」
宦官たちの中央にひときわ背が高い美丈夫が立っており、いかにも厳しそうな顔つきをしている。
「
俺が宦官の輪をくぐり抜けて近づくと、しゃがれ声で冷たく命じられた。
幼い頃に宦官になると声変わりをしないため、女のような声になると聞いた。
どんな罰で彼は宦官になったのだろうか。
袖を引いて止めようとしていた太華が、その声に腰を抜かしてしまった。
天佑は、よほど恐ろしい存在なのだろう。
しかし、そんなことに構っている場合じゃなかった。
遺体をひと目見て、その異様な状態に気づいた。
外壁にもたれた女は、衣服を剥ぎ取られ、手を十字に不自然に曲げ、左手が血に染まっている。
まさか……
「
一応、世間体を整えて聞いたのだ。太華もほっとしたことだろう。ちらっと彼女の顔を見たが、仰天したまま大きく口を開け、アワアワしている。
なんだ、ぜんぜん安心していないじゃないか。
「なぜ、そのようなことを聞かれる」
「左手が血に染まっています」
まさか……。
いや、ありうるかもしれない。俺がここにいるのだ。
「見てもよろしいでしょうか」
「この女官は知り合いなのですか」
「いえ、ただ、ちょっと確認したいことがあるのです」
「理由は?」
警官というより、公安のようなものだと思う。
身に覚えがあるものは誰も近づかない。そして、後宮で後ろめたいことが何もない女官などいないに等しいだろう。
「この者は、ここで殺されたわけですね」
「そうです。心当たりのある者ですか?」
「少し、確かめさせてください」
小指が鋭利な刃物で切り取られている。
「小指がありませんが、ここで、その指を発見しましたか?」
「
「わたしの名前を知っているのか」
「この後宮で、あなたを知らない者はいません。謀反人の娘で、本来なら奴婢に落とされるところを、皇太子さまの温情で側室として安穏と暮らされている」
しゃがれ声に憎悪が混じっていた。
思わず、彼の顔を真正面からみつめた。高い頬骨に細い目、薄い唇。神経質そうな顔は能面のようだ。
確かに普通の女なら、この男に睨まれて平静ではいられないだろうな。
ちっ、これは昔の俺だ。
こいつは俺に似ているのかもしれん。
「それで、質問に答えてもらってませんが。切り取られた小指はありましたか?」
「ありません」
嫌な汗が背中を伝って流れた。
衣服を剥ぎ取られ、腕を十字に不自然な形に曲げ、左の小指が切り取られている。膝を曲げ壁にもたれた姿。
この女官の姿は、現代で俺が追い詰めたシリアルキラー
今、眼前にいる女は、小柄で美しい女だ。森上は、どちらかといえば、色白よりも浅黒い肌の女を好んだ。肉感的で色っぽいタイプだ。
まさに、今、俺が目にしている女官だ。
後宮の女官は色白であることが多い。太陽の当たる場所にあまりいないことも理由だが、色白の女が好まれるという理由もある。
俺は遺体の顎関節や手や足に触れてみた。
「いったい、何をしておる」
「この者の硬さを調べているのです。死後硬直がまだ顎までしかきていない。ここを見てください。この女官は亡くなってから、すぐこの形に手を曲げられている。上肢はまだ柔らかい。おおよそだが、二時間ほど前に殺されたようだ。上肢まで硬直していれば、五時間はすぎているはずだが」
「二時間とは?」
「おおよそ一刻のことだ」
「なぜ、そのような事がわかるのです」
「え? そっちに興味を持つのか。それより問題は、彼女の死後から何刻すぎたかってことだろう。ともかくな、俺、じゃなかったぁあ……、ちゃう、わたしは医官のもとで学んだからわかるのです」と、嘘をついた。
そうでも言わねば信用しないだろう。
太華が目をまんまるにして、俺の顔を見ている。余分なことを言うなと、にらんでおいた。
視線を戻すと
(つづく)
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