第2章
後宮から逃げるという選択肢
いやあ、危ないところだった。
もう一度、高所からの飛び降りを経験するのかと冷や汗が出た。
(おい、
返事がない。
また心の奥に戻ってしまったのだろう。まあ、いい、魅婉。おまえは休息が必要なんだろう。俺の中で眠っていな。
それにしても身分制度でがんじがらめになった封建社会で、逃げるためには死ぬことしか選択肢がなかったのか。頼りになるはずの親類縁者は全員が死罪か、奴婢として追放された。
魅婉が皇太子の側室として後宮に迎えいれられたのは、思いがけない幸運だと誰もが思っている。
皇太子は
太華は皇太子の乳母だった女官で、心を閉ざした魅婉を温かい人柄で癒してくれる。
『魅婉さま、
温情で側室になった罪人の娘。
それが魅婉の立場だ。
そんな女が後宮から逃げたとなると、その後の悲惨な未来は想像するまでもない。頼るべくもない女の行く末など、男に身体を売るしか道は残っていないだろう。
現状、ここから逃げるのは論外だ。
少なくとも金目のものを持ち出さねば、食うにも困り話にもならん。
まったく、この女は何を考えている。
死にたいのか。
生きていたくないだけなのか。
この二つの選択肢は似ているようで違う。どっちなんだ。
返事はない。
ふう……。
城壁から下をのぞくと、門が見え警護人が立っている。門の大きさからして、ここは正門ではないようだ。
宮殿の北側に位置する玄武門という意識がうかんだ。
(なるほど。魅婉、いちおうは意識してくれているんだな)
階段の暗がりに身を潜め、俺は着ていた服をすべて脱いで身体をあらためた。瑞々しいほど清らかな肌に、白い乳房はDカップというところか、弾力があって……。
心の奥から悲鳴のような感情がわき上がってきた。
おや、恥ずかしいのか。
自分が自分の身体を見ているだけだぞ。
まあ、いずれにしろ今はだめだ。若い女の身体にクラクラしている場合じゃない。それも自分の身体だ。
変態か、俺は。
もうちょっとだけ……。
いや、すまん、すぐ止める。
脱いだ服をあらためて、金目のものを探した。
見事なほど何もない。
せめて、豪華な飾りとか、売れそうなものはないか調べたが何もない。この衣服だけは価値があるが、これ売ったら裸で歩くことになる。
まったく
脱いだ服を再び身に着けた。
魅婉は姫らしく自分で衣を着付けたことがない。現代の洋服と違って、紐で結んだりと、ややこしい事といったら。まあ、いい。
裸じゃなきゃ問題ないだろう。
さて、魅婉よ。
部屋に戻るぞ。
どう、戻ったらいい……。
返事がない。
心の奥に沈んだまま、意識を完全に閉ざしてしまった。怒っているのか?
仕方ない。
裏門に近い城壁ということは、東宮(皇太子の住む宮殿)から、さほど遠くない位置にいるのだろう。誰にも発見されずに、そっと部屋に戻ればいいだけだ。
幸いなことに、まだ夜も深い。
と、騒がしい音が聞こえてきた。
東側から聞こえてくるところを考えると東宮側からだ。
多くの灯りが見える。後宮の兵士たちが
まさか、俺の脱走がバレて探しているのだろうか。
刑事として、犯罪者を捕まえることには慣れているが、自分が逃げる立場になったことはない。
城壁上の見晴らしの良い吹きさらしにいては、早晩、発見されるだろう。
階段を降りて、すぐ左側の壁沿いに走った。
階段を降りると、声が聞こえてきた。
「探せ。遠くにはいっていないはずだ!」
やはり、俺を探しているのか。
まずいと思った瞬間、誰かに口を塞がれて壁のへこみに押し込まれた。
その手を捻って、柔道の技をかけようとしたとき、優雅な匂いが鼻をくすぐった。ほんのりとした清々しい香りで、これは
「静かになさってください」
耳もとで囁き声がする。
まったく未練がましい男だ。
あっ!
ま、まさか、服を脱いだときも見ていたのか?
許してくれ、魅婉。
しかしな、
壁に押し込まれじっとしていると、再び灯りが見え、数名の兵士たちが走り去っていく。
彼らが消えると、口を押さえていた手が離れた。
「魅婉さま、後宮で大変なことが起きています。兵士たちが騒がしいのは、そのためです」
「俺が逃げたからじゃないのか」
「俺?」
「ああもう、気にするな。何があった」
「後宮で女官が亡くなりました」
「まさか殺人事件か」
彼は俺の顔をまじまじと見つめた。
「今日は気圧が低い、こういう日に、人はよく狂うものなんだよ」
「今は、この騒ぎを利用して、誰にも知られずにお部屋に戻られることです。もし、発見されれば、あらぬ疑いを持たれるでしょう」
「まったく、次から次へと刺激的で、飽きるということのない場所だ」
俺の話し方に戸惑ったろうが、何も言わなかった。
「よい、殺人現場につれていけ。俺が見てやる」
「
彼の視線を追って、自分の格好を見た。
ま、確かに乱れているな。いや、かなり酷いかもしれない。だが、この緊迫した状況で、そこは気にする点ではないだろう。
──気にして!
心の奥から悲鳴のような声が聞こえた。
(つづく)
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