幼馴染で初恋の相手だった宦官




 漆黒の髪が顔をなぶり前が見えないほど、風が強く吹いていた。

 ここは、どこだ。

 俺はどこにいるんだ?


 城郭の上にいるのは間違いない。最上部から地平線を眺めることができる。


 ──思い出したくない、もう忘れたい……。


 女の意識が鮮明に聞こえる。


 冷たい風が吹き荒れ、長い髪が乱れた。


 ちょっと待て!

 俺は何をしている。意識が消えている間に、わけのわからん場所にいるぞ。


(おい! 魅婉。ここはどこだ……。チッ、どうしたんだ)


 後宮の女は基本的に外部に出ることは禁止されている。

 後宮の、ここは城郭だ。

 どうして、俺はここにいる。なぜ抜け出してきたか、まったくわからない。


 女は城壁の凹凸に足をかけ、外へと身体を乗り出している。月明かりの下、風が強く吹いている。

 危険だ。

 いや、この女は決意したのだ。自らの意思で、ここまで抜け出してきたのだ。


「これで、すべてが終わる」


(うわあああ、止めろ! こら、待て! 待たんか。ここへきて、俺はまた飛び降りに巻き込まれるのか。いや、俺、数日で駐車場の屋上と、城壁の上からと二度も飛び降りるつもりはないぞ。やめろ、痛いぞ。ものすごく痛い。こら、やめとけ)


「あなたが悪いのです。思い出したくもないことでしたのに。感情が心を切り裂くんです。死にたい、死にたいと言うのです。もう終わりにしたい」


(悪いのは、俺か? いやいや、それは置いとくぞ。ともかく、ここは早まるな。俺が悪かったんだ。いや悪いのは、おまえの親世代たちだ。勝てば官軍、負ければ賊軍ってやつだ。歴史じゃあ繰り返されてきたことだ)


 身体の自由がまだ奪われている。


 いや、違うな。持ち主は魅婉ミウァンだから、取り戻されたってことだ。

 それが大事か?

 こんなとこで、理知的な分析を披露している場合じゃない。俺の意識が女の身体を動かせたのは、彼女が放棄したからなのだ。


(ああ、もう。そんなことはどうでもいい。おじさんに話してみろ。いいか。ここから落ちたら、悲惨な姿を世に晒すことになるぞ。俺はな、理解できんかもしれんが、刑事として、さまざまな死体を検分してきた。投身はやめとけ、溺死よりはマシだが、縊死よりむごい。むちゃくちゃ痛いぞ。なんなら経験済みだ)


「風の音が奇妙で。あなたが現れる前も、こんなふうに風に混って何かが語りかけてきました」


(おう、それは俺だ。俺が語りかけているんだ。神の啓示でもなんでもない)


 ──死にたい。


(だから、それは、やめてくれ。もう一回、教えておくぞ、ここは大事なことだからな。投身なんてのは死に方として、まったく綺麗なもんじゃない。ランキングで言えば最下層なるぞ……、あれは?)


「……?」


(あの音……、聞こえるか?)


 なんとも美しい笛の音が聞こえた。


 哀愁に満ちた音色は泣いてるようで、どうにも心が萎える。

 自殺願望の娘に、こんな音を聴かせたら、背中を押しているようなもんだろうが。


 暗く寂しく風の鳴る夜に、その音色は優しく彼女の心を包み込むように溶けていく。

 城壁に乗り出していた彼女は、ゆっくりと背後を振り返った。


 城壁の階段口。

 月明かりに男の姿が浮かびあがる。色白で細面、頬が痩けているが、一般的に言っても眉目秀麗な顔つきだろう。


 青年と少年との間のような、男と女の間のような。


 男は飾りけのない黒い宦官帽子を被り、黒色の着衣を身につけていた。

 宦官だ……。宦官は、ぶよぶよと太るイメージがあるが、彼は痩せおり佇まいに品があった。

 地味な姿が、かえって彼の容姿を際立たせている。

 

「……暁明シァミン


(暁明って、あの幼馴染か。宮刑を受けて男じゃなくなった、哀れな奴のことか。しまった、悪気はない。忘れてくれ)


 男は静かに笛を吹いている。


(心が冷えても、それでも、あなたの笛は優しい)


 鼻がつんとして、涙が頬を伝い流れていく。

 悲しいとは、こういう感情なのだろう。胸の奥に涙の塊ができている、この女は、どれだけ涙を耐えてきたのか。


 哀れな子だ。

 相手の男もな。


 いったい、どちらが辛いだろうか。

 去勢され宦官となってまで恋する女の側に仕える事と、誰も見向きもしない謀反人の娘として、後宮の奥部屋で飼い殺しにされる事と。


 女は城壁から降り、一歩、彼に近づくと、暁明シァミンは優しく横に首をふる。


「暁明」と、彼女は小さく呟いた。


 男の奏でる曲は、嫋々と夜に響く。

 優しく心を癒すように、どこまでも遠く、深淵を見つめるように。


「暁明」


 笛の音がやんだ。

 男は、やわらかくほほ笑むと、「どうか」と深い声で言った。


「耐えてください」


 喉もとに涙の塊が登ってくる。

 暁明シァミンは静かに頭を下げると、すぅっと滑らかな動作で階段を降りていき、その姿は闇に消えた。


「暁明……」




(第1章完結:つづく)

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