残酷な姫の記憶





 これは俺にとって見知らぬ女の記憶だ……。


 彼女は絶望という負の感情から抜けるつもりがなかった。

 うつ病を患い感情が失せている。喜びも悲しみもなく、ただ、生きるのを確かめるために呼吸をしている。


 吸って、吐いて、吸って、吐いて……。


 女の記憶に王宮が見えた。


 外観は新疆ウイグル自治区にあるヤルカンド王宮に似ている。中華というよりイスラム様式が色濃い建築物で、俺が今、なんとか状況に慣れようとしている場所とは趣きが違っている。


(おまえは誰なんだ)

魅婉ミウァン、……孔魅婉コウ・ミウァン。帝の弟の娘で、謀反人を父にもつ罪人。皇太子の側室)


 細く可愛らしい声だが、地獄から轟いてくるような黒い感情がうごめいている。


(おい)と、心に呼びかけたが、石のような沈黙が戻ってきた。

(名前を言えば事足るなんて、甘いぞ)


 返事はなかったが、ふたたび映像が浮かぶ。


 女は吹きさらしの階段を登っているようだ。

 衣装は豪華だが、その心は絶望と悲しみに満ちていた。


 風が強く砂埃を運んでくる。

 口を閉じても入りこむ砂が不快なはずなのに、女は気にも留めない。


(いったい、これはなんだ)

(絶望のはじまりよ……)


 心に響く声が千切れて、すぅっと空気にかき消えていく。


 魅婉ミウァンは、城壁への階段を一歩一歩、踏みしめるように登っていた。ハタハタと風に舞いあがる羽衣はごろものような繊細な上衣が、階段を踏み締める足もとに絡まり邪魔をする。


 城壁の外から、戦いの喧騒が聞こえた。

 敵は、すでに城下内に入り、後は城攻めが残るだけという一方的な展開だった。


 戦いの雄叫び、剣戟による激しい音に怯えながら、彼女は足を止めようとしない。


 壁はタイルで飾られた瀟洒なあつらえで、階段は木製だった。

 一歩進むごとに、ギシギシと音を立てる。幼いころ、この階段を登り尖塔の上から地上を見渡したとき、このような未来が待っているとは想像さえしなかった。


 女は語る……。


 地上で起きていることがよく見えないのは、城下町に火が放たれ、白い煙が舞い上がっているからだ。


 戦う兵士、兵士、兵士。

 あの煙幕のなかに、あの人がいる。


 魅婉ミウァンの幼馴染のふたり、ずっと淡い恋心を抱いていた黄暁明ファン・シァミンと。それから、もうひとり敵方の皇子、殷麗孝イン・リキョウが敵味方になって剣を交じあわせている。


 黄暁明は丞相の息子であり、殷麗孝は現王朝の帝の次男だった。つまり、魅婉ミウァンにとっては従兄弟だ。


 幼い頃、三人は仲が良かった。


『僕たちのどっちと結婚する?』


 殷麗孝イン・リキョウは、そう聞いては魅婉ミウァンを困らせた。彼女が好きだったのは、丞相の息子である黄暁明ファン・シァミンだったからだ。



 前帝の崩御によって明るみになった、父と世継ぎの権力争い。


 新帝であるイン帝と父の間には深い確執があった。

 イン帝は庶子であり、前帝の弟である父とは、ことあるごとに対立した。時の丞相を味方につけた父は、正統な血脈は自分にあるという自負がある。

 

 どこの馬の骨とも知れぬ女の息子など、帝につく器ではない。

 しかし、戦いは圧倒的に新帝側にあった。敗戦の色が濃いなか、魅婉ミウァンは城壁に登った。


『お姫さま、こ、ここにいらしたのですか』


 階段から声がした。幼いころから彼女についていた女官だ。


『どうか、ここは危険です。お下がりください』

『どこにいても危険に変わりがないわ』


 ドンドンという城門を叩く破城槌はじょうついの音が響く。槌が門を破壊するたびに、床が激しく揺れた。


 政治のことはわからない。ただ、父は野心家だが人望が薄いということは知っていた。そもそも無謀な戦いだったのだ。


 戦い?

 相手からすれば、謀反だ。


 城壁から見下ろす間に、王宮はあっけなく陥落した。捉えられた父や家臣たち。逃げ遅れた女たちも同時に捕縛された。




 のちに『血に染まった孔綺の乱』と呼ばれた謀反は、圧倒的な帝側の勝利となった。


 多くのものが捕えられた。そのなかに魅婉ミウァンもいた。その後、彼女は白い麻のざらざらする囚人服に身を包み、ほかの女たちとともに牢に繋がれた。


 これまでの贅沢な生活から、薄汚い牢に収監された三日後。

 捕えられた身内や家臣たちとともに牢から引き出され、城下町を裁きの場まで追い立てられた。


『父上さまは? 母上さまは?』

『お姫さま、あちらに』


 そう言った女官の視線を追う。

 広場の真ん中に縄で仕切られた箇所があった。その場所に、父や主だった重鎮が血に染まった囚人服を着てうなだれていた。

 母と兄もそこにいた。

 母と目が合った。

 髪が乱れやつれた顔は狂気を帯び、見開いた目で周囲を睨みつけている。反対に父は呆けたような顔つきで肩を落としていた。


『母上さま、父上さま……』


 散々待たされた挙句に刑部尚書から上位の役人たちが入場してきた。彼らのひとりが、それぞれに刑を言い渡していく。


 その内容は、おおかた決まっていた。十六歳以上の身分のある男子は処刑。それ以下の男子は宮刑。男性器を切り取る刑罰で宦官にされるのだ。


 女たちや身分の低い男たちは奴婢に落とされ、地方へ配流と言い渡された。


『刑を執行する』


 朗々たる声が響くと同時に、父や兄、丞相らが中央舞台に、つぎつぎと引っ立てられた。彼らの誰もが拷問を受けたのか、歩くこともままならない様子だ。

 兄は刑場への階段を踏み外して転んだ。


『あっ』


 魅婉ミウァンが声を漏らした時、母が両腕を背後に縛られたまま、いきなり走りだして兄の身体をおおった。


『わたくしを、わたくしを殺しなさい』


 その声は無惨にも途切れた。

 刑史のひとりに殴りつけられ、気を失ったのだ。


 魅婉ミウァンには、明るい太陽のもと処刑人の大型の刃がきらめいたことだけしか、記憶にない。


 多くの男たちが死んだ。

 父と主だった者の首級は、そのまま刑場に晒さらされた。


 魅婉ミウァンの愛する黄暁明ファン・シァミンも例にもれない。彼は男性器を失い、残酷なことに宦官として後宮の下働きになった。


 高官の女たちなど、身分のあるものは島流し。身分の低いものは、奴婢として売られた。


 魅婉ミウァンは、屈辱的な白い麻のざらざらする囚人服を着せられながら、そのすべてを目に焼き付けた。


 綺英元年、枯葉の舞う秋の頃、『血に染まった孔綺の乱』。


 皇太弟による謀反は制圧された。

 一部には帝側による陰謀という説があった。後の禍いである皇太弟と、当時の丞相を封じ込めるための策略だったという噂は二年過ぎた今も絶えない。


 彼女は、幼いころ遊んだ皇太子である殷麗孝イン・リキョウの三人目の、打ち捨てられた側室になっていた。





(つづく)

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