この世界にいる理由は、それも女として
ぼぅ〜とした感覚が、また戻ってきた……。
俺は、どこにいる。薄目を開けると先ほどと同じ、例の龍の天井が見えた。やはり状況は変わらないようだ。
「姫さま。お目覚めでしょうか」
最初の年配の女だ。
いったん、ここは譲って俺が落ち着こう。
「おまえの名前は、確か、タイコとかタイカとか言ったな」
「おいたわしゅうございます。姫さま、ずっとお仕えしております、この
「忘れた」
大仰に顔をしかめると、女は老いた目をうるませる。泣くんじゃない。泣きたいのはこっちなんだ。
「医官」
床にひれ伏していた医官と呼ばれた男は、数時間で一気に老けたような顔つきをしている。
「どうすれば良いのじゃ」
「も、申し訳ございません。お時間がご必要かと存じます」
「どれほどじゃ」
「そ、それは」
「
イライラしてきた俺が怒鳴り、太華が床に額をつけて平伏した。
「とっとと、答えよ。俺は記憶を失った。だから、おまえには教える義務がある」
「姫さま、お言葉遣いも、ずいぶんとご乱暴になられまして、まるで貧民窟のオノコのような。あ、失言を……失礼をば。太華、万死に値します」
「太華、ここは万死しても、泣いても解決はせんぞ」
「も、申し訳ございません。取り乱してしまいました。それでは、何から申し上げましたらよろしいのでしょうか」
人が良さそうに見えるのは、目と目の間が広がった平板な顔つきだからで、外見とは違い
「ここはどこだ」
「皇太子さまの後宮にございます」
「皇太子のということは、帝もいるのか」
「お、畏れ多いことにございます……」
偉そうに聞く俺の声が、一番の違和感になっていた。
優しくかわいげのある声が、『俺、俺』と言ってる姿を想像すると身体の力がぬけていく。
「さらに質問だ。完結に答えよ」
「は、はい。あの、簡潔と申しますと」
「十文字以内に言葉を凝縮するんだ。いいな。最初の質問だ、俺の名前は?」
「
「年は?」
「十七歳におなりです」
「よし、いいぞ、太華。次にこの国の名前は」
「商王朝にございます」
建物の雰囲気や、全員が黒髪で黄色系の顔つきから、ここはアジア社会だろう。
アジアの国をさらりと辿った。
台湾、中国、東南アジア、モンゴル、韓国、インド、アラブ、あらゆる国をさっとおさらいしたが、この国を知らない。
よほどの小国か、あるいは現実世界ではないのか。
「今は何年だ」
「綺英二年にございます」
聞いた俺がバカだった。西暦や和暦で答えるはずがない。しかし、言葉がわかるのは奇妙だ。ここが外国なら、言葉などわかるはずがない。
どういうことだ?
「つまり、今の帝になって二年ということか」
「さようにございます」
「俺の身分は?」
「姫さま、悲しゅうございます」
「
立膝で起き上がる俺の姿を見ると、
聞きたいことが多いが、まずは頭の傷だ。これはただ事とは思えない、刑事の勘として事件の匂いがする。緊急対応が必要かどうか。
「なぜ、俺は頭を打った」
「それは」
俺は強いて冷酷な顔を作り、命令口調で言った。
「皆、おお、そうだ。おまえたちだ。医官に、女たち、全員が部屋を出ろ」
「姫さま」
「いいか。もう俺は逃げん。出てけ! さあ、さあ、さっさと出ていけ!」
俺の命令に太華がうなづくと、全員が後ろ向きにすり足で部屋から出ていく。
「さあ、太華。話せ」
「昨夜のことにございます。姫さまにとってはお辛い夜でありますこと、太華はよく存じています」
「俺にとって辛い?」
「この話を宮中でいたしますのは、御法度にございますが。ご記憶の一助となりますなら……。昨日は謀反により、ご一族が処刑された日にございました」
「ほお、俺の家族が謀反とな。どういう地位だった」
「おいたわしい、姫さま。それさえも……、お父上は現帝の叔父上さまにあたります」
「簡単に言えば、前帝の世継ぎと前帝の弟が皇族同士で権力争いをして、俺は負けたほうの一族ということか。で、なんで俺が敵側の側室になっている」
太華はまたモゴモゴと唇を動かした。
「聞こえん!」
「は、はい。姫さまは、もともと皇太子殿下とはお仲がよく一緒にお育ちでした。殿下によって、奴婢に落とされるところを助けられたのにございます」
助けられて側室ってことか。そこ、まったく喜べないが。
「で、なぜ頭に怪我をしている」
「姫さまは、いきなり花瓶で頭を叩きました……」
なんともはや、外見は華奢で可愛いが、やることは突拍子もないな。要するに、俺は自殺をはかったということか。
「しばらく、ひとりにしてくれないか。大丈夫だ。俺は死ぬ気は全くない。それこそ、この狂った状況でも生きる気満々だ」
太華は頷くと部屋の外へ出ていった。
部屋が異様に静かになった。
自分の呼吸音だけが大きく感じ、追い出した人への罪悪感さえ覚える。
なんだ、これは?
こんな気持ちを抱くなんて、俺の感情とは思えない。
この部屋が静かすぎるからか。
かつてのオンボロ官舎なら、壊れかけたエアコンの空調音が常に聞こえていたし。ビールしか入っていない冷蔵庫も音がうるさくて。遠くから電車の音も聞こえた。
真の静寂だ。
何も聞こえない?
そうでもないか。
俺の問いに応じるかのように、カ〜ンカ〜ンカ〜ンと、間延びした
「火の用心、なっしゃりま〜〜せ」
女の声がして、砂利を踏む足音が聞こえる。一人ではない。数人がグループになって回っているのだろう。
「火の用心、なっしゃりま〜〜せ」
なんとも、のんびりした世界だ。
寒くもないし、暑くもない。体感でいえば春ではなく秋だろう。「暖かくなった」というより、「寒くなった」と肌が感じている。
冷静になれ、獅子王。
現実世界で俺は死んだのだ。しかし、ここが死後の世界というわけではなさそうだ。
深く、深く、心を探れ。
おまえは何者なんだ。
燭台の揺れる炎を見つめて心を落ち着かせていると、まったく覚えのない記憶が大量に流れこんできた。
(つづく)
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