男に抱かれる存在




 鏡のなかの女は二十歳前、おそらく十八歳前後だろう。

 乱れた長い髪に、額に白い包帯を大袈裟に巻いている。取ろうとすると、男の声が引きとめた。


「ひ、姫さま。どうぞ、どうぞ、お手をふれては、御傷に触ります」


 声が震えている。

 この女の身分が姫だとすれば、この世界では最高権力者の娘という意味だ。


 顔は、かわいい系だが目が切れ長で、どことなく知的な印象もある。

 好みのタイプだ。

 恐る恐る手で頬を撫でてみた。


 手にも顔にも、触れた感触がリアルにある。

 うぶ毛が薄く完璧なツルツルの素肌。化粧気はなく、目の下にはクマがあり、顔は青ざめているが、美しさと可愛さが同居して魅惑的なのは間違いない。


 頬を強く擦ってみた。次に両手で叩くと、パンッと音がした。


 顔を歪ませて変顔にしてみる。

 まちがいない。これは俺の顔なのだ。


「お姫さま、ど、どうか、お休みくださいませ」


 年かさの女が眉間にシワを寄せ、命令口調で言っている。


「なにがあった!」

「な、なにがと仰いますと?」


 平伏して震えている男の横で、年かさの女に聞いた。


「おまえ、名は?」

「お姫さま、この太華をお忘れにございましょうか」

「知らん。俺の名前は?」

魅婉ミウァンさまにございます」

魅婉ミウァンだと? 何者なんだ」

「皇太子さまのご側室にございます」


 ご、ご、ご、ご側室?


 生まれて三十八年、これほど聞き間違いであって欲しいと願った単語はなかった。


 側室ってのは、側にある部屋なのか? いや、違う。待て、冷静になれ、側室ってのは……、つまり、俺は男の女なのか。いや、違う。

 愛人。そうだ。側室とは愛人のことだ。


 つまりだ、理論的に考えれば、考えなくても。

 俺は男に抱かれる存在?


 だ、だ、だ、だめだ!

 ありえん、ぜったいにありえん。


「これは、どういうことにございますか、ナンフォン医官」

「お、畏れながら、太華さま。姫さまは頭をひどくお打ちになられました。ご記憶を失っているのではないかと推察いたします」

「お治りになりませぬのか」

「力及ばず、このナンフォン、万死に値します」


 俺は威厳をもって立ち上がると──自分では、そのつもりだったが──平衡感覚が危うく、かなり左右に揺れた。

 どうにも使い勝手が悪い身体だ。体調管理が全くなっていない。


「お姫さま」という怯えた声を聞き流し入り口を見た。


 障子でできた両開きの戸がある。ふいをついてダッシュした。障子戸を力強く叩き開ける。


 通路には女がふたりいた。上部は白い着物で下に袴に似た下穿き。神社にいる巫女のような格好だが、赤い袴ではなく濃い灰色の袴姿だった。


 俺は床にはいつくばった彼女たちをおしのけ、走った。


「お待ちくださいませ。姫さま、お待ちくださいませ」


 無謀な奴らが俺を止めようとしたが、脱兎のごとく逃げた。


 気の遠くなるほど長く続く廊下は板敷で、その上を裸足で走る。左側は部屋で右側は庭になっており壁がない。

 自分の下半身を見ると、白い太腿ふともももあらわに……。


 お、おい、パンツが、パンツがない。


 走れば走るほど、前面がはだけ、半裸で、そのふくよかな肉体が、おおお、触れたい! 自分の身体に触れてみたい。


 いや、今はそこじゃない。

 振り返ると追ってくる者が増えている。よほど、この女は重要人物なのだ。


 長い渡り廊下を途中で曲がったが、それでも通路は続く。

 どれほど広い建物なのか想像がつかなかった。女の歩幅は60センチほどだろう。それで百歩走っても、まだ、廊下が終わらない。


 警視庁でも切れ者として鳴らした、この頭脳をもってしても解決不能の状況だ。それに半裸に近いが、なんて白くマシュマロみたいに美しい肌なんだろう。


 顔が火照る。おい、自分に興奮して、どうするんだ!


「お待ちくださいませ、お姫さま」

「姫さま、お止まりください。姫さま」


 振り返ると、血相を変えた女官たちが必死に追ってくる。

 追ってくる人数は多いが足音が聞こえない、よほど訓練された集団にちがいない。妙なところで感心してしまう。



 回廊の先、さらに障子戸があった。

 扉を開けると、そこも廊下。木製の赤い欄干があり、同じように右側が外部に通じている。

 目の前には典雅な庭が広がっていた。

 庭から外へ逃げるしかないか!


 赤い欄干を飛び越えようとしたが、身体がいつものように動かなかった。

 

 おまけに身につけている服は、そもそも運動に向いていない。

 俺は足を欄干にかけ、ジャンプしようとして裾を踏んづけ、思いっきりつんのめった。


「おお、おおおおおお」

「誰ぞ! 姫を支えよ!」


 背後から声がする。

 その声に、欄干下で警護していた人がスライディングしてきた。


「こらあ! 姫さまに触れるでない!」


 助けよと、触れるな、真逆の命令に警護の男は混乱した。


 その時だった。いきなり目の前に別の男が現れた。

 かなり印象的な容姿をしており、体躯も堂々として、全体的に気品にあふれている。


 ちょうどクッションにするには、おあつらえ向きだった。俺はその男にむかってダイブすると、男は恐れもせず抱き止めようとする。


 ハッハッハァ、エリート警視正を甘く見るな。


 俺を抱き止めようなど、厚かましいぞ。


 俺は身体を丸め、次に両足を前に突き出して、男の胸板を蹴った。

 軽く触れただけだが、外見よりも筋肉質で、しっかりとした胸板がある。かなり鍛えた身体のようだ。


 男は大きく目を見開き驚いた表情を浮かべている。


「悪いな!」

「あなたは……」


 地面に裸足で降り立った俺は、そのまま突っ走ろうとした。

 目に端に、これまで追いかけてきた者たちが平伏するのが見える。


「皇太子殿下」


 皇太子殿下? 俺が突き飛ばした男は皇太子殿下と呼ばれている。

 これらの情報を集約すると、ま、いい。今は考察は後だ。


「イテッ!」


 思わず悲鳴をあげたのは、足裏に激痛が走ったからだ。

 砂利の敷かれた道は健康温泉などにある、石の上を歩くコーナーを思い出させる。


 この身体、あまりに弱すぎる。

 素肌が脆弱すぎて、すぐ怪我をする。おそらく、自分の足で歩くことなどほとんどない。そんな身体にちがいない。


魅婉ミウァン


 深い声が聞こえた。

 先ほど、皇太子殿下と呼ばれた男だ。彼の背後にもお付きのものがいる。武芸に秀でていそうだ。


 戦えるのか。

 前の身体なら、互角だが、今は……。

 それにしても、足が痛い。足裏の皮膚がやわすぎる。

 いや、今は痛みを忘れろ、獅子王。

 どうも無謀な行動に出てしまったようだが、ここは冷静になるべきだ。


 周囲を見渡した。

 この場合の最適解は? 自分の身体を見た。胸に触れる。柔らかく、ふくよかな乳房。


 俺は女の身体のなかにいる。


 ということは──


 このような解決不能の事態に陥ったとき、奥の手がひとつしか思い浮かばないのは悲しい。


 ええい、ままよ!


 大勢の人間が注視するなか、俺は、その場で気を失った。いや、そのふりだったが、実際に意識を失ってしまった。この身体にとって、逃亡劇はかなりの負担だったのだろう。




(つづく)

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