ここはどこだ?




 ベッドから起きあがろうとしたが、身体が思うように動かない。

 ベッドが硬すぎるからか……。

 右手をシーツに這わせた。


 んん?


 ツルツルした質感で端に届かなかった。この材質はシルクだろう。


 俺のベッドはシングルサイズで、まっすぐに寝ると足が飛び出し、以前から狭く感じていた。

 身長一八七センチ、体重七十六キロ、体脂肪率十パーセント。

 腹筋は見事に割れている。いや、誤解はするな、俺は頭脳派だ。けっして肉体派ではない。


 その俺が横になったベッドが驚いたことに広い。試しに両手を広げても端にも届かない。

 どうなっている。

 頭を振ると、ズキっと傷んだ。右側頭部が特にひどい痛みだ。手でふれると包帯が巻いてある。


 思い出してきたぞ。

 あのシリアルキラーを追い詰めたとき、俺はビルの屋上から落ちるという下手ヘタを打った。


 まあ、所轄でカツを入れるために先頭にたった結果でもあるが、頭脳明晰で理論ずくの俺は煙たい存在なのは承知している。


 ああ、また、ぼうっとして記憶が曖昧あいまいになる。

 俺の、俺の名前を、名前はなんだった。


 そうだ、ししおう……だ。


 俺の名前は獅子王朔ししおう・さく


「姫さま」という声が再び聞こえた。


 警視庁捜査一課から警察署に配属された警視正は、どれほど天地がひっくり返っても『姫』などと呼ばれない。


 ジョークにしても、俺をそう呼ぶ部下はいない。

 今後の出世を棒に振って、生涯を地下で書類整理するつもりなら話は別だが。声をかけた女は、なかなかに根性がすわっているのか、あるいは、単なるアホなのか。


「姫さま、お加減は?」


 俺は、ゆっくりと威嚇するように身体の向きを変える。


「なりませぬ、姫さま。まだ、お傷が治っておりません。どうぞ、お休みくださいませ」と、品は良いが断定口調で女が言っている。


 言葉の最後、毎回、確認するようにウンウンとうなずく。

 この女の癖だろう。おそらく言葉に出してから、それが妥当かどうか、無意識に確認しているのだ。

 性格分析をすれば、生真面目に職務を全うするタイプだ。看護師としては向いている性質だろう。


 しかし、看護師なのか?


 すべてが異様だ。


 女の髪は、びんづけ油できっちりと後ろにまとめられ、服装は……、これは襦裙じゅくんではないか。歴史上では中華系の女官が身につけていたものだ。色はグレイで使用人にはちがいない。


 しかし、姫だと?


 警察大学校の時代から、俺は骨の髄まで警官として、自らを律してきた。

『自らを律し、自らを修める』と叩き込まれてきたのだ。


 しかし、姫だと?


 いや、まずは冷静に初動捜査の基本からだ。一に観察、二に観察、三も四も観察。


 ゆっくりと周囲を見渡した。

 質素な部屋ではない。むしろ金がかかっている。


 見える範囲に四人の人間。女三人、若いのが二人と、先ほどから無礼にも俺を姫と呼ぶ年配が一人、そして、男は一人。男は白いエプロンのようなもので前後をおおって、ヒモを腰でゆわえた姿だ。


 年配の女以外は、みな頭を下げ床をこれでもかと見つめている。


 逃亡するなら、最初に年嵩の女を人質にして、男の首に手刀を入れる。動線を確保するためには、ふいをついて右に飛び出すほうがいいだろう。


 まず目の前の女からだ。


 女は四十代ってところか。

 髪に白いものが混じっている。これは年齢からではなく、おそらく神経症的なもの。気苦労が絶えないための白髪か。目線はあきらかに俺を気遣っている。悪意はないようだ。


「姫さま、どうか、お休みくださいませ。お身体に触ります」

「姫とは誰だ」


 怒鳴った瞬間、その声に自分が一番驚いた。声が裏返ったのか、奇妙に細く高い。


 年嵩の女が目を見開き、それから背後の男に問いかけるように振り返った。


「畏れながら、姫君さまは頭をお打ちになりました。それゆえに混乱なされているのやもしれません」

「脈をみよ」

「かしこまりました」


 男が目を伏せたまま、うやうやしく膝でにじり寄ってくる。そして、顔をあげ、俺の手首に布を当て脈を取ろうとした。


「ええい、我慢の限界だ。なにしやがる。こんにゃろうが!」


『自らを律し、自らを修める』態度ではなかったが、怒鳴るしかなかった。


 しかし、耳に届く声が余りにかわいすぎて、実に滑稽で怒鳴った自分でさえ、これは違うと思ったほどだ。


 捜査上の経緯から、被疑者との対面で録音することが多い。

 録音を確認する時、自分の声に違和感を覚えるのは普通のことだ。

 理由はわかっている。人間はその身体の構造上、声帯の振動を通した『骨導音』で自分の声を聞いているからだ。


 しかし、いくら骨を振動させたとしても、女の声にはならない。それも、むちゃくちゃ可愛い声で、高く細く幼い。


 その上、男が平伏しながら取ろうとした、その手首の華奢なこと。折れそうなほど細い。


 こ、これが自分の手首か?

 時間があれば、スポーツジムで鍛えに鍛え抜いた、これが自分の腕か?


 ま、まさか違うだろう。いや、冷静になれ、自分。

 これは、この手首は俺じゃないが、……しかし、あるいは、もしかして……、俺かもしれない。


 医官が左手首に触れた瞬間、妙に柔らかい指の感触に、げっとなった。


 まちがいない。この医官の指を感じている。


 視界に入るのは、自慢の鍛え上げたごつい手首ではなく、薄白い袖から出るいかにも弱そうな筋肉のかけらもない、ポヤポヤの白い手首。


 ど、どうなっている。


 男の手を払いのけて叫んだ。


「鏡だ、鏡をよこせ!」

「お、お姫さま、どうぞ、どうぞ、お心をお鎮めくださいませ」

「鏡だ!」


 俺は飛び起きると、そのまま周囲の者を蹴散らして、部屋にある鏡前に陣取った。どうも着物の前がはだけたようだ。

 全員が、その場で平伏し、俺を見ないようにしている。


 少しガラスが歪んでいるような、不透明な鏡があった。

 何もかもが異様だが、一番異様なのは、鏡にうつる俺の顔だ。


「姫さま」

「姫さま、どうぞ、お静まりを」

「姫さま」


 驚くにも、いろんなバリエーションがある。この時の俺の気持ちは天地がひっくり返ったなんて、生やさしいものではなかった

 びっくり仰天、驚愕きょうがく、たまげた。


 入省して警察大学校で訓練を受けたとき、この感情を持つことを一番に禁止したのは自分のはずだった。


 俺の顔が……。

 お、おんな、女、オ・ン・ナ!

 女の顔が鏡にうつっている。




 しかも、かわいい……。




(つづく)

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