第三十五稿 それでも私は一緒にいたいの ★

 駅への道を行く最中、降り出した雨に向けてフードを深く被る。

 薄着のせいか体が冷えてきた。おまけに慌てて穿いたスニーカーは片方が少しだけぶかぶかで、走り方がぎこちなくなってしまっている。

 でも、そんな事今はどうだっていい。


『ねえ、日向。何か言ってよ。ねえ!』


 通話状態のままのスマホに向かって何度も呼びかける。すれ違い様に振り向く通行人に目もくれず走り続けるものの、一向に返事は聞こえてこない。


「ご乗車ありがとうございます。次は――」


 電車に飛び乗ってすぐに近くの席に腰掛ける。そのまま視線を床に落としていると聞きなれたアナウンスや周囲のざめわきが耳に入ってきた。心臓の音は当然落ち着くはずもない。


 最寄駅から8分の距離を全力疾走して、ようやく彼女の住むマンションへと到着した。

 息も絶え絶えになりながら、一気に階段を駆け上がって彼女の部屋のドアを何度か叩くけれど何の応答もない。

 浮かんだ最悪の事態を頭から追いやって、受け取っていた合鍵をバッグから取り出す。

 開いたドアの先には、スマホを握り締めたままフローリングに伏せて倒れている遠坂さんがいた。


「なにこれ、ひどい熱……」


 彼女は額に大粒の汗を浮かべて苦しそうに呼吸をしていた。

 ベッドへ運んだあと濡らしたタオルを絞っては何度も取り替える。

 一晩中手を握りながら、彼女の様子を見ていると私の意識はいつの間にか途絶えていた。


「あれ、れな……?」


 その声とともに私は目が覚めて、外がすっかり明るくなっているのに気付いた。


「日向、大丈夫?」

「え……。れなはどうしてここに?」

「うそ、昨日の事何も覚えてないの? 日向は私に電話したんだよ。急いで駆けつけたら倒れてて……本当心配したんだから!」


 そのまま抱きしめると彼女の鼓動と体温が伝わってきた。


「まだ熱もあるし頭だって痛いから……。れなはもう帰って」


 直後首を振った彼女から引き離れる。


「だめだよ。私そんな状態で放っておけない」

「でも、うつしちゃうと仕事に影響する事くらいわかるでしょ」

「別に構わないよ。それでも私は一緒にいたいの。でも、日向が迷惑だって言うなら帰るからはっきり言って」


 私がそう口にすると、彼女は私の名前を呟いたあとすぐにすうすうと眠ってしまった。

 顔を覗き込めば目元には涙の跡が浮かんでいた。私はそれがただ愛おしくて、その跡を指先で優しくなぞる。それからは手を繋いだまま穏やかな寝顔を見つめていた。



「まだ食欲はないだろうけどとにかく今は食べなくちゃ。はい、あーんして」


 熱が少し引き始めた遠坂さんは、差し出したスプーンにかぶりつくようにおかゆを口にする。もぐもぐと咀嚼しているけれど、今のところはいつものような目の輝きを感じられない。

 そうして、彼女がすべて食べきるまで火傷をしないように冷ましつつ食事を終わらせた。


「それじゃ、次は……。汗かいたままなのもいけないし、ちょっとだけ体起こせる?」


 私は暖めたタオルで背中を優しく拭く。いつも見上げるばかりの大きな彼女だけれど、今日だけは不思議と小さく感じる。


「はやく一緒になってたら、れなにここまで心配させなくて済んだのかな」


 と言って遠坂さんは申し訳なさそうに私を見つめている。


「あの電話がなかったらと思うとぞっとするよ……。倒れるまで無理するのはもうやめてね」

「うん、本当にごめん。れなが危険な時は私が必ず守る……約束する」

「じゃあ日向は私の王子様だ~。これからもよろしくね?」

「もちろんです。わたくしめにお任せください、お姫様」


 笑い合ったあと、私達はそのまま眠ってしまっていた。



「れなのおかげですっかり元気になったよ。ありがとうね」


 翌日、朝からコンビニの惣菜パン3個を平らげた遠坂さんはコーヒーを啜る。その言葉どおり絶好調に他ならない。


「よかったー。引越しはなんとかなりそうだね」

「うん。荷造りもおかげで早く終わったし……明後日からはれなの家で新しい生活が始まって」

「2倍以上楽しくなる!」

「あ、そういえば体調はどう? 昨日はずっと看病してくれてたじゃない」


 と言って、彼女は私のおでこに手のひらを当てる。


「ぜーんぜんなんともなし! 実は私、昔から風邪って引いた事ないんだよね」

「ああ、れなは。なるほど……」

「ちょっと! 今のってどういう意味かなー?」


 何気ない会話ができる幸せを噛み締める。

 昼過ぎまで彼女と一緒に過ごしたあと、ふと片付けし終えてない部屋がある事を思い出すと急いで家へと戻った。

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