第二十九稿 そんなもの窓の外へ放り投げてしまえばいいわ

 お昼すぎ。

 先日の軌道修正以降、遠坂さんとは時折ぶつかり合いながらも作業自体に滞りはない。ちょうど一息入れようと思っていたタイミングでスマホが鳴った。


『ハーイ、れな! 心配になるからちゃんと電話くらい出なさいよ?』

『ごめん、最近ちょっとそれどころじゃなくてさ』


 私はスピーカーモードにしてコーヒーを淹れながら応対する。

 疲労には糖分がいいらしい。

 そんなわけで普段を上回る6杯の砂糖を入れようとしていると、


『なるほどなるほど。仕事に恋にどちらも充実してるってワケね?』

『な、なんでそんな事言うのかなっ!?』


 私は動揺して砂糖ごとシュガースプーンを床に落としてしまった。


『いつも言ってるでしょ。れなの事なら何でもお見通しなの。それになにより、今声が弾んでるじゃない? 別に私じゃなくてもすぐに気付くはずよ』

『そんなにわかりやすかった……? まあ、そんなところではあるけどさ』


 何度か咳払いをして拾ったスプーンを流しに放り投げる。


『そうね~。また一時帰国した時にそのいい人に会わせなさい?』

『え、もしかして帰ってこれるの……?』

『滞在は2日くらいになるけど一応ね。まりもちゃんには直接、兼ねてからのお礼もしておきたいわ』

『まりもも絶対喜ぶと思うよ。でね、ちょっと聞いて欲しいんだけど』

『改まってなぁに?』


『えっと…………私の好きな人って、女の人なんだけど、それでも大丈夫? その、やっぱり……男の人じゃないといけない?』


 言葉にしながら鼓動が速くなる。

 いずれは打ち明けるつもりだった。どんな返答が来るのかだけは怖いけれど、唯一の家族に隠したままなのはよくないと思っていた。


『れなは変な事を聞くのね。あなたが好きになった人なら、男でも女でも何の問題もないしおかしいところもないわ。それは親であっても口出しなんてできないものよ。だけどもし、誰かが認めないと言ったならそんなもの窓の外へ放り投げてしまえばいいわ!』


 笑い声のあとそれが返ってくると、私はほっとして少しだけ目頭が熱くなった。


『ありがとう、ママ。大好きだよ。彼女は本当にいい人だからすぐにでも会ってほしいんだ』

『ええ、その日を待っているわ! だからお互い頑張って過ごしていきましょ?』


 母親との通話を終えて私は再び作業に取り掛かる。

 途中啜ったコーヒーは、そういえば砂糖を入れる途中だった。


「にっが……」


 砂糖を足せばいいのだけれど、遠坂さんが好きなブラックコーヒーを無下にするのもはばかられる。初めて彼女の家で迎えたあの朝を思い出しながら、甘くて苦い味を飲み干した。



 今日設定した目標を仕上げて最寄り駅から電車へ乗り込んだ。

 行き先は私の知らない街。

 気分転換というのか、私にはたまに知り合いのいないところへあてもなく旅立ちたくなる時がある。


 到着して駅の改札をくぐると、当然ながら私の見た事のない景色が広がっていてわくわくする。

 私はさながら冒険小説の主人公のように駆け出していった。


「すみません。これ、もらえますか?」


 商店街のお肉屋さんのコロッケを頬張りながら1人歩いている。

 すれ違う人達皆が幸せそうな表情をしているのを見て、今の私はどうなのだろうと思いながら進んでいく。


 何をするでも買うでもなく、あちこちのお店を巡っていった。

 彼女ならこんな事を言うだろう。そこで立ち止まるはず。あれを欲しがるに違いない。今だけはいないその姿を隣に感じながらゆっくりと。


 こんな日があってもいい。

 いつもいかなる時も一緒にいられるのが1番だけれど、現実問題としてすべてが思いどおりにはいかない。

 そう思いながら私は向かい風に吹かれていた。


 でも、やっぱり足りない。満たされない。

 彼女はもう私の半身なのだと思うし、私も彼女の半分でありたい。

 どんなに離れたところにいても、会えない状況にいてもすぐ側にいきたくて早足になる。

 それほどまでに私達の心は近づいてしまったのだ。


『もしもし、日向。今日はね――』


 どうしたのと、落ち着いた調子の声が私の鼓膜を響かせる。

 その声色だけで、もう今どんな表情をしているのかがわかる。

 今すぐに会いたい。触れたい。抱きしめたい。

 はやる気持ちを抑えきれず、私はいつのまにか駆け出していた。


 改札を軽やかに抜けて電車に飛び乗ると、窓の外は段々と私の知る風景へと戻っていく。

 もう不安はない。

 この先もずっと一緒にいられる。それだけを確信しながら、揺られる私は彼女の暮らすこの街へと到着した。

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