第十稿 相談したい事があったらいつでも言ってよ
変装はもう必要ない。
傍から見れば本当に静かな、私にとって初めてとなる半日限定のキャンパスライフが始まった。
『ねえ、本当に入っちゃってもいいの? さすがにばれるんじゃ……』
『ここはいつも出席を取らないんです。だから、せんせぇ。くれぐれも堂々としててくださいね』
『まさか、大学がそんなゆるゆる判定なわけないよね……!?』
そうして私は内心怯えつつ、周りの学生さんと同じように講義を受けている。横目でチラチラと様子を窺うと、真剣に話を聞いている人もいれば寝ている人などもいたりと懐かしい気持ちになった。当然先生が喋っている内容なんてまったくわからないけど、ここまで心躍るのは高校の授業以来だ。
板書を写し終えた仕上げにピンク、青、黄、緑。何かに取り憑かれたようにノートをカラフルに彩る。ひとしきりそれを楽しみ顔を上げると、隣に座る夢子の口元が少しだけ動いたような、そんな気がした。
講義の時間が終わると周囲は次々と立ち上がった。ふと時計を見ればお昼近くになっていた。あくびとともに、両腕を真上に大きく伸ばしていると正面から誰かの気配を感じた。
「あの~。ちょっとお話いいですか?」
すると見覚えのない女の子が私に声を掛けてきていた。ゆるふわな
大学生の基準と言うものはよくわからないけど、もしかするとこのくらいが普通なのかもしれない。
じゃなくて、これって潜入してる事が早くもバレてる?
「えっーと、何か御用ですか……?」
「あの、何年生ですか? どこの美容室行かれてます? あとあと……。あーもう、聞きたい事が多すぎっ。とりあえずお昼ご一緒できませんか?」
やけに甲高い声が気になって内容に集中しにくい。これも標準なのだとすれば絶対に真似はしたくないレベルだ。
「え、私とですか?」
「ね、ね。行きましょうよ~」
すぐに彼女に手を取られ、目に入ったオレンジ色の可愛いネイルに思わず釘付けになった。
どう答えたものか戸惑っていると夢子に反対側の手を引っ張られる。私はその勢いのままに講義室を飛び出した。
『さっきの女、明らかにせんせぇを狙ってましたよ。まったく油断も隙もないですね』
『ないない。ただ一緒にご飯しましょってだけでしょ?』
『いいえ、夢子には邪な波動を察知できますから』
『怖いって。それゆめちゃんが言うとマジっぽく聞こえる』
そうして夢子に連れられ学食のテーブル席に向かい合い座っている。
ここは学生じゃなくても比較的自由に出入りができるようで、講義室にいた時よりは安心していられそう。
学食のメニューは思っていたよりラインナップも量も豊富でなおかつ安い。コスパ◎。おまけに、コンビニ弁当やカップラーメンで済ませる日が少なくない私にとっては栄養面でも優れていると言ってもいい。
『お味の方はどうですか?』
『美味しいよー。一人でもいいんだけど一緒に食べると倍は美味しく感じる!』
『それはよかったです。夢子、お茶のお代わりを取ってきますね。にじり寄ってくる先ほどのような女には気をつけてください』
夢子以上にマークすべき人間はそうそういないだろうと思いつつ、辺りを見渡す。大体は誰かしらとテーブルを囲みながら賑やかに各々の時間を過ごしているようだ。もしも私がこの空間で一人きりだったら耐え切れる自信なんてない。
彼女がそれをどう思っているのか聞いてみたいところだけど、今はそうすべきじゃない。今日は聞くなと言われている事から考えれば、彼女にも彼女なりの理由があるのは確かなのだけど。
夢子がテーブルに戻ってきてからも、私は場の雰囲気を感じ取りながら相変わらずの静かな時間を過ごしお昼を終えた。
『今日がずっと続けばいいのにって思っちゃった。あーあ私、馬鹿みたいだよね。でもゆめちゃんのおかげでいい夢が見れたよ』
『馬鹿だなんて、そんな事はありませんよ。楽しそうなせんせぇの姿を見られて夢子も嬉しいです。あと、学食程度ならお付き合いできますのでいつでも言ってください』
私達は正門前へと戻ってきた。長い茶色の髪を翻して夢子は立ち去ろうとしている。
呆れるほど不器用で、心の優しい彼女の事を誰かが知ってくれればきっと何かが変わる。
あの時私にはまりもがいてくれたけど、今この子の側には誰がいるんだろう。
「待って!」
それを思えば彼女の背中にどうしても声を掛けずにはいられない。
すると夢子の動きが止まった。
『ごめん、余計なお節介なのはわかってる。でもね。相談したい事があったらいつでも言ってよ。自分勝手な話で悪いけど、私もうゆめちゃんを友達だと思ってるから』
俯いているのだけはよくわかる。
しばらくして、ようやく振り向いた彼女に向けて私はウィンクをする。
『今は打ち明けるのが怖いんです。夢子はどうしようもないくらいの臆病者です。だからすぐにはできないと思います。それでも、せんせぇは待っててくれると言うんですか?』
夢子は泣いているようで笑っているような微妙な顔をしていた。私の知る限りでは彼女が表で感情を表現するのは初めてだ。
『もちろん! 一人じゃどうしようもなくなった時は、誰よりも先に私が力になってあげる。今度は私がゆめちゃんのお役に立つ番なんだからね?』
メッセージへの返事が来ないまま、すぐに振り返りたい気持ちを抑える。けれど、ありのままの言葉が伝わったと信じて駅への道を下っていく。
*
自宅へ戻ってくるとすぐに、特別な着信を知らせるメロディが流れた。即座にスマホを取り出す。
『こんにちは、れなさん。お仕事中でしょうか?』
第一声が名前呼び。プライベートモードに手のひらを軽く握る。
『いえ、今帰ってきたところです。どうかしたんですか?』
『あの、すみません急にこのような。特に用があるわけではなく、申し訳ないのですがれなさんの声を聞きたくなってしまいました。れなさんにとって、こういった用件はご迷惑でしょうか?』
『全然そんな事ないですよ。いつでもこういうの歓迎です!』
ソファーに腰掛けてしばらく遠坂さんと世間話をする。やっぱり彼女と話していると心が暖かくなっていく。そして、会いたくもなってしまう。
『それでは仕事に戻りますので……これにて失礼します』
『頑張ってください! それから、今度は私から掛けちゃいますね』
そうして彼女とのひとときを終える。次会う約束も取り付けて、私は浮かれ気分に乗せられたまま今日の作業に取り掛かった。
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