第九稿 初恋みたいな表情してたじゃないですか

 その日の夜の10時頃、スマホが鳴る。着信音はデフォルトのものだから遠坂さんではないのは明らか。


『モーニン! 今日もいい日になりそうね。れな、そっちの調子はどうかしら?』

『こっちはもう寝ようかなってところなんですけど~。何か用?』

『ううん、つれないわねぇ。昔みたいにもっと甘えてきてくれてもいいのよ?』

『私はもう子供じゃありませーん。それじゃ切るね?』


 そう言ってベッドに飛び込む。やり取りを無理矢理終わらせようとしていたのに、私は今日も耳を澄ませ次の言葉を待ってしまう。


『親にとって子供はいくつになっても子供のままなの。いつかれなにもわかるわ。ま、それはおいといて今月分も振り込んでおいたからね。それじゃ、頑張りなさいな我が最愛の娘よっ!』

『だから、そういうのいいって言ってるじゃん。私はもうじゅうぶん!』

『私こそ言ってるでしょ? 子供は変に気を使わなくていいの。ちゃあんと美味しいもの、まりもちゃんと一緒に食べなさいね』


 電話はその言葉を最後に向こうから切られていた。


 中学の頃父が他界して以来、母はいわゆるシングルマザーとして私をずっと育ててくれた。帰宅は暗くなってから。それでもお弁当を欠かさない。学校行事には必ず顔を見せる。私は一番近くで元気なその姿だけを見てきた。


 私が高校にあがると彼女から、生前研究者だった父の遣り残した夢を叶えたいと打ち明けられた。彼女の人生を子育てだけで終わらせていいはずがない。それに新しい恋をするくらい許されるべきだと、当時の私は思った。


 まりもの協力のもと、生活していける事を証明してその後押しをすると母は安心したように単身アメリカへと旅立った。


 私の母親――蓮見涼子はすみりょうこは慌しくもバリバリ仕事をこなす元気の塊のような人だ。


 今私の住んでいるこの家は、かつて家族三人で過ごしていた思い入れのある場所だ。家賃を考えれば安いところはいくらでもあった。それでも私はここを守り抜いていつかお帰りと言いたい。

 彼女への不満が一つあるとすれば、毎月口座にそれなりの額を入れてくれる事。何度いらないと言っても聞いてはくれない。


 だから私は人知れず画策する。いつか彼女が困った時にこの通帳と印鑑をと差し出し泣かせてやるのだ。言うならば私は、これまでほとんどできてない親孝行を貯めに貯めている。


「ママ。いつも、ありがとね」


 誰もいなくなって、それが日常となってしまったこの家でそう呟く。

 それでもいずれ来るだろう出番を思い浮かべれば笑みがこぼれる。私だけの秘密を抱き締め机の引き出しにしまうと鍵を掛けた。



 翌日、私は鏡の前にいる。普段着に加えて今日はピンクのサングラスと白い麦藁帽子を装着して出発。


 対象人物がこの時間に家を出て電車に乗るのは事前に掴んでいる。イヤホンからお気に入りの曲が繰り返して流れる中、電柱の影に潜みつつ家の前で張っているとほどなくして出てきた。私は気付かれないように後をつけ一つ後ろの車両へ乗り込んだ。


 電車内には私と同じか少し下くらいの学生と思われる姿がひしめいた。駅に着いてからはイヤホンを通じて何も聞こえていない。私は少しだけとしながら目を閉じて、周囲の話し声に耳を傾けこの空間の雰囲気を感じている。

 そうして揺られる事15分。対象の降車を確認するとそれに続く。


 改札を出ると勾配のある一本道。

 ここからは人通りも多い事もあり普通に歩いていても大丈夫だろう。対象を見失わない程度の速度で歩く。周囲を見渡せば、けっして知る事のなかった焦がれた風景が広がっている。キャンパスへの入り口が見えてくると私は立ち止まった。


 高校時代の同級生のほとんどは大学へと進学。その話を聞くたびに私の心はもやもやとしたものだ。家庭の事情だから仕方がない。だけど本当はここに行ってみたかった。


 唐突に震えたスマホを取り出し画面を確認する。それと同時に目の前に誰かがいるのがわかった。


『せんせぇ、さっきから何してるんですか?』


 対象者であるはずの四条夢子よじょうゆめこが少し屈むようにして私の顔を覗き込んでいた。

 それを視界に入れながらメッセージを打ち込む。


『え、いつから気付いてたの?』

『家を出たところからです』

『嘘、最初から!? 完璧な変装だと思ったのに……』

『そんなピンクのグラスしてたら逆に目立ちますよ。せんせぇには尾行の才能はないと思います。それよりも夢子に何か用があったんですか?』


 じいっと見つめる彼女からは、普段と比べてこちらを警戒しているような険しさを感じる。


『あとをつけるような事してごめん。でもゆめちゃんがいつもどう過ごしてるのかなって……』

『それで夢子がいつも一人なの笑いに来たんですか? やめてくださいよ。そんなの、せんせぇには関係ないじゃないですか…………?』

『笑うわけないし、関係なくなんてない。私はゆめちゃんの事が心配なんだよ』


 その返事が来る様子はなかった。

 どれだけ綺麗事を並べ立てても、余な詮索をしようとしていた事実に変わりはないし結局のところただの自己満足だ。そのせいで私は彼女を傷つけてしまった。


「本当ごめん。帰るね」


 正面から近づいてくる楽しげな姿を見てしまわないよう帽子を深く被る。名残惜しい気持ちはここにすべて置いていこう。私はもと来た道を引き返していく。


『せんせぇは、それでいいんですか?』


 震えたそのメッセージに胸が押しつぶされそうになったけど、もうこの足は止められそうにない。


『夢子だってずっと見てたんですよ』


『電車の中での落ち着かない様子とか』


『ここに来てから嬉しそうに辺りをきょろきょろしたりして』


『こっちが恥ずかしくなるくらいに』


『初恋みたいな表情かおしてたじゃないですか』


『このまま帰ってしまって本当に後悔しないんですか?』


 立て続けに送られてきた言葉にようやく立ち止まる。


『だって私、ゆめちゃんの気持ち全然考えてなかったから』

『夢子がどうとかなんて……今日だけは一切触れないでください。もし約束してくれるなら、午前中だけでもここを案内してあげます』


 振り返れば夢子は、相変わらずの無表情のまま私の背後にいた。

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