チェスボード 後編(8 / 15)

ベルーナとモーフィーの矢継ぎ早の指し手に、目まぐるしくチェスの駒が動いていく。そしてとうとう、8手目。駒が取られる時がやってきた。


「──いけ、ビショップ。ヤツらの歩兵をひとり葬ってやれ」


モーフィーが自陣後列の聖職者ビショップを前方左斜めに動かした。その行く先には白の歩兵ポーン。黒の聖職者ビショップは足を強く踏み出して、その手にもつ聖杖を白の歩兵ポーンンへと振り下ろす。歩兵ポーンの人形は粉々に砕け散った。


「しかしながらずいぶんとぎこちない駒の動かし方をするな、クロガネイバラのリーダーよ。まあ、分かるがな。【仲間】たちが取られないように、プレイヤーではない駒を動かすようにしているんだろう?」


「……だったらなんだっていうのかしら?」


恐らくそれは図星だった。ベルーナはこの戦いの開始から俺たちやクロガネイバラのメンバーが担当する駒を動かしていない。


「言ったでしょう? 序盤は様子見よ。Nc4」


「ふん、この僕相手に様子見など……愚かな。序盤の展開ほど大切なものも無いというのに……b5」


「……」


迷いなく、モーフィーは黒の歩兵ポーンをひとつ前へと進ませた。その歩兵ポーンが掲げた剣が、直前にベルーナの動かした白の騎兵ナイトへと向けられる。


……このまま何もしなければ、次の黒番で俺たち白番は歩兵ポーンに引き続き騎兵ナイトを失ってしまう。それが序盤から大きな失点となることはド素人の俺の目にも明らかだ。


「……僕がチェスを好きになったのは300年前のことだ。暴力の強さが全ての魔界に飽き飽きして訪れたこの表の世界で、知性で雌雄を決するゲームがあることに感動したのが始まりさ」


モーフィーは訥々とつとつと語り出した。


「それからというものの、僕は暇さえあればチェスの研究に勤しんだものだ。そしてとうとう魔界からこの世界へと移り住むことにして100年余り……数多の人間たちとチェスをプレイして、この世界で敵と呼べる人間も居なくなってしまった。最近はとてもつまらないんだ」


モーフィーは深いため息を吐いて言う。


「……頼むから投了リザインなどという呆気ない幕切れはやめておくれよ?」


「……」


懇願すらしているようなモーフィーの言葉に、ベルーナは黙して答えない。熟考するように俯いた。




白【01:43:56】




「──テツトくん、ひとつ前に出てくれるかしら」


ベルーナは唐突に顔を上げたかと思うと、俺に向けてハッキリとした声で言った。


「前……進めってことですか?」


「ええ。b3よ、テツトくん」


ベルーナは迷いない瞳で俺を見つめてくる。


「リーダーを信じろ、テツト」


「ええ、安心してください」


序盤から追い詰められつつある戦況のはずで、戦いが始まる前は震えてすらいたナーベとマリアは、しかし一転して落ち着いた様子だった。


「こういう時、リーダーは【決して】間違えませんから」


断言するマリアに、ナーベもまた頷いた。


……これじゃ次の手番で騎兵ナイトが取られると思うんだけどな……?


だが、それは俺のド素人の浅知恵だからそう思ってしまうのかもしれない。


「分かりました。じゃあ、進みますよ」


「ええ。ありがとう」


試合が開始されて俺は初めて、ベルーナの言う通り2列目からひとつ前へと進む。それが意味するところも分からずに。


「こんな序盤でナイトをタダ捨てだと? 何も考えていないのか……?」


モーフィーがガッカリしたようにポーンを斜めに進める。黒の歩兵ポーンの剣で、白の騎兵ナイトの首が落とされた。


黒の歩兵ポーンがこれまで白の騎兵ナイトが居た位置──俺の斜め前へと移動してくる。


「これで僕の黒のポーンは次の手番に斜め前のテツトによって破壊されるだろうな。だがそれが何だというのだ? これがただのポーンとナイトの交換なら、僕は歓迎するだけだよ」


「テツトくん」


「そらきた、テツトで僕のポーンを取るんだね? そうしたら僕は自分の騎兵ナイトを中央に寄せて──」


「テツトくん、また【ひとつ前】に進んで」




「「──は?」」




思わず俺とモーフィーの声が重なった。


「ベルーナさん、今なんて……?」


「ひとつ前、b4へと進んでほしいと言ったの」


ベルーナはなんて事のないように言う。


「c4にいる黒のポーンは取らなくていいわ」


「わ、わかりました」


……それじゃあ、さっきの手番で一気にふたつ前に進んでいればよかった話なんじゃないか? 歩兵ポーンは最初の動きだけ、2つ前に進めるというルールなのだから。


そう思いつつも俺はベルーナさんの指示通りに前に出た。


「自分の手番をひとつ無駄に消費しただけだと……? なんだ、何を考えている……?」


モーフィーもまた訳が分からないと言った様子で盤面をにらみ付けている。冷静なのはベルーナと、自分たちクロガネイバラのリーダーを信じているナーベとマリアだけだった。


「さあ、あなたの手番よ。モーフィー」


「……無い。何もないはずだ……」


モーフィーが黒の駒を動かす。すかさず、先ほどまでの長考が嘘かのようにベルーナもまた白の駒を動かした。互いの指し手が連なっていく。俺やメイス、ナーベやマリアも少しずつ動かされた。


そして──




黒【01:52:28】




「……?」


これまで迷いなく指していたモーフィーの手が、ふいに止まる。それから盤面にジッと見入ったかと思うと、


「──なっ!?」


突然、呆気にとられたように口を開けて、硬直した。


「なんで……どうしてだっ!? どうして、いつの間に……こんなに状況が悪くなってるっ……!?」


モーフィーの驚愕に、しかし俺たちは首を傾げることしかできない。


……まあそりゃあ、俺には盤面の良し悪しなど分からないしな……。でも、一見して無秩序に入り乱れている白と黒の駒は一定の法則で配置されているように感じたし、それにどことなく唐突に左辺の白の厚みがグッと増しているような──


「──先ほどの中央d5へのビショップの移動で、一気に左辺が白番の支配下に置かれただと……ッ!?」


モーフィーの悩まし気な反応を見るに、どうやら俺が漠然と感じたことは合っているらしい。突然の劣勢にモーフィーが表情を歪める一方で、ベルーナは口元で微笑んだ。


「チェスって楽しいわよね。私も好きよ。だって【指すたびに】新しい定石じょうせきが見つかるんだもの」

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