君の酸素になりたい

@maitakemaitakem

君の酸素になりたい

 てっきり僕はジュゴンかマナティか何かがモデルだと思っていたから、まさか本当に存在しているとは思っていなかったし、ましてや先輩が人魚になるだなんて予想できるはずもなかった。

「人なんだからちゃんと一汁三菜三食用意してくれてもよくない?」

「でも半分魚でしょう」

「上半身人なんだから人だよ」

 アクリルガラスの向こうの彼女は、バケツから生きたアジを取り出しては「クソまずい」と文句を言いながらもそれを口に運んでいる。別に生魚が食べられないわけではないらしい。

「今日もいつも通りでしたか」

「変わらず惰眠を貪って、変わらず水槽を泳いで、変わらずそれを知らない人達の見世物にされて。窮屈ったらありやしない」

「窮屈地獄だー」と、先輩は綺麗なヒレをばたつかせる。日の光を反射させた鱗が青緑に煌めいて、それはCDディスクの裏面を想像させた。

 閉館した水族館に人の気配はない。展示された先輩を見る為に大勢の客が押し寄せてくるところなんて、僕には想像できなかった。時たま制服を着た職員らしき人が僕をジロジロと睨みながら後ろを通り過ぎていく。

「あの、先輩」

 声をかけると先輩は「なに?」とアジを咀嚼しながらもごもごと言った。

「やっぱり、閉館の後でくるのはちょっと嫌なんですが」

「え? なんで?」

「先輩の担当以外の職員に不審に思われてるんですよ」

「知らないよそんなの」

 世界的に見ても珍しい人魚をどうにか展示したいと、先輩には様々な水族館からオファーが届いた。人間社会で生きる事が難しいと判断した彼女は、その中から最も快適に過ごせる水族館を選び、更に、閉館後の三十分間で僕と会話できる時間を設ける事を条件に展示される事を承諾した。先輩はこれを「息継ぎの三十分」と呼ぶ。

「ちゃんと営業中に来ますから、それじゃ駄目ですか」

「他の人間もいるから嫌だ」

「別にそれはいいでしょう」

「よくない。知らない人間に観察されながら自由に会話できるわけない」

 先輩は不貞腐れたように言い、陸地の部分を下りて水の中に沈んだ。その拍子にヒレに蹴られたバケツが音を立てて倒れる。中のアジが零れた。

 先輩が水を泳ぐとき、口からは気泡が出る。エラ呼吸でない証拠だった。クジラと同じような原理なのだろう。人間にとってどれだけ不自由な水だろうと、彼女は最初からそこで生まれたみたいに優雅に泳ぐ。彼女が人間か魚かなんて、些細な疑問でしかないと痛感させられる。

 しばらく水底で眠るように頭の後ろで手を組んでいた先輩は突然、何かを思い出したように目を開いて水中から顔を出した。夜は陸地で寝るのだろうか、水中だろうか。

「そう言えば今日はいつも通りじゃなかった」

「あ、来たんですか、あの人達」

「うん。威圧感の凄いスーツが。男二人と女一人で」

 先輩がここに展示されてしばらくした時から、とある大人達が水族館を訪れるようになった。どうやら動物愛護団体らしきもので、なんでも先輩をここから出して海へ行かせてやるべきと声を上げているらしい。

「怖かったですか」

「全然。むしろ優しかったよ。女の人が『自由にさせてあげますからね』とか言ってた」

「なんにも知らないくせにね」と、先輩は濡れた髪をかき上げながら言った。僕なら何か知っているとでも言いたいのだろうか。

「先輩はどうしたいんですか」

「何が?」

「海に行きたいんですか」

 アクリルガラスにそっと触れてみる。僕と彼女を隔てるたった一枚のガラスは、こんなにも厚く、こんなにも冷たい。

 先輩の元を訪れた人は「自由にさせてあげる」と言った。確かに、こんなにも狭くて不自由な場所に閉じ込められるくらいなら、それもいいのかもしれない。先輩の言う「窮屈地獄」なんかより、ずっと息がしやすいに決まってる。

「海はこんな場所よりいい所ですよ。惰眠を貪るのも、泳ぐのも、誰かの見世物にされる事はないです」

 僕が言うと先輩は少し考えるような表情を見せた後、「案外そうでもないよ」と、何でもないように言った。

「ここが窮屈だって言ったじゃないですか」

「窮屈も不自由も、私が選んだ事だからね。住めば都ってやつ?」

 眉を寄せてよく分かっていないような表情をした僕がガラスに映る。先輩はそれを見て少し笑った。

「私はここが嫌いじゃないよ。大好きってわけでもないけど。海に行く気はないかな」

「海は自由です」

「でも退屈だよ」

 先輩は言い切って、こちらを向いた。濡れた黒髪から水滴が滴り、人間にはない、魚にもない、彼女にしかない妖艶さを確かに身に纏っている。

 先輩はガラスの方に寄ってきて、僕と正面で向き合った。厚く、冷たく、透明なガラスが僕と彼女を隔てる。

 そして人差し指を僕の目の前にトン、と置いた。僕を指差し、先輩は笑う。

「だって、君といられる不自由がある。自由な海なんかよりずっといいに決まってる」

 先輩はそうやって静かに微笑む。その言葉が意味したところを僕は知らないし、知りたいとも思わない。

 ずっと広くて自由な海なんかより、こんなにも窮屈で不自由な水槽の方がいいのだと、彼女は当たり前に言うのだ。

「狭苦しくて息苦しい場所かもしれないけど、君のおかげで私は息継ぎをしてる。陸でも水でもなく、私はこの場所で息継ぎがしたいんだよ」

 なんだっていいのだ。先輩が人とか魚とか、水槽は窮屈で海は自由だとか。そんな事が大事だと思わなくていい。ただ、彼女がそうやって笑ってくれるなら、僕はそれ以外何もいらない。たった三十分、僕は彼女の酸素になりたい。

 それから数週間後、先輩は世論という何も知らない大人達に連れ去られて海へと放り出された。生きている限り息苦しいのは水中だろうと現実だろうと変わらないのかもしれない。

 閉館後の館内で、僕は彼女のいた水槽を見ている。水は抜かれ、ただ大きな穴がそこにある。

 穴の底に、廊下の天井にあるライトを照り返し、ほんの僅かにだけ鈍い碧色を光らせるものがある。先輩の鱗だった。

 彼女は今も、どこかの海を泳いでいるのだろうか。息継ぎすら必要としないはずの広大な場所で、不自由なく揺蕩っているのだろうか。

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