第9話 エクスキューション

 万雷の喜びは厚い石の壁をも通り抜け、じめじめと薄暗い内部にくぐもった万歳となり届いた。記憶に従えば『物語』のクライマックス、反逆の首謀者であるカメリアを放逐し、建国の伝説に語られる女神と同じ名を持つ少女・ベルタを新たな花嫁として迎えると、セルジオが高らかに宣言する頃のはずだ。

 今まで気持ちが通っていることをお互いに感じながら、確かめることだけは避けてきた思いをセルジオが素直な言葉にして語り、未来を自ら選択するこの場面は、私の好きなシーンの一つだ。

 湧き上がる歓声の波は大きくなり小さくなり、再び大きな勢いでもって格子を震わせる。膝を抱えながら、私はそれを聞いていた。

 群衆はどんな顔で叫んでいるのだろう。私が初めてこの国に足を踏み入れた、花舞い歌が溢れ酔い乱れた日よりも、晴れやかな顔なのだろうか。見ようと思っても、明り取りの窓は遥か頭上に小さく、私は伸ばしかけた膝を折り、冷たい石の上に、三方を囲む壁と同じく私を閉じ込めるための石の上に座り込んだ。

 ひと際大きな歓声が一つ、いくらか間を開けてもう一つ上がる。それにかき消されるように、高い声と低い声が近づいてきた。言い争うような短い言葉の応酬の後、腐りかけた木でできたたった一つの出入り口が軋みを上げて開く。

「まあ!」

 思いがけない人物を認め、私はあからさまに明るい声で驚いてしまった。体に急に力がみなぎり、通路に向いた一面の鉄格子に縋りつくように腕を伸ばす。私の前まで進み出たその人も、まるで散歩中にすれ違う時にする短い挨拶のように、「よっ」と片手を上げた。

「ソフィー、あなたが来てくださるなんて」

 赤く渦巻く癖毛はいくらかくしゃくしゃしていて、目の下に隈が浮いていたけれど、見違えるはずがない。

「なんだよ、元気そうな声出すなよう」

 私たちは、隔てる格子などないように振舞った。彼女を案内してきたらしい男は、初めて見る生き物を観察するときの目つきで私たちを見比べてから、早めに切り上げるようにソフィーに告げ、牢獄の出入り口の傍らに戻っていく。

 ソフィーは相手を愚弄する短い悪口を、器用に舌打ちしながら呟き、満足してから私に向き直った。あの明け透けな、無礼と公平とどちらかで言えば、やや無礼寄りの口ぶりで何かを言おうとして、止めて、それから泥沼から抜け出せなくて困っているのだと訴えるようにゆっくりと私を見つめた。

「何を言いに来たのか、何を言えばいいか、忘れちまったよ。あんたがそんな声出すせいで」

 私はお詫びに、最近の食事や天気について中身のない話題をいくつか振る。ソフィーは少ない単語で応じていたが、やがてそれさえも歯切れが悪くなっていく。何か、大きな仕事に取り掛かる前の準備をしているような様子をしていたが、

「なあ、こうなることまで知っていたのかい? あたしたちが初めて出会って、初めて話した日、薬草園であんたは……」

 やがて調子の整った具合で、切り出した。

 あなたが木を引っこ抜こうとして、私がそれを押し留めた。近くて遠い日のことを私は忘れていない。けれど、私はソフィーに首を横に振って見せる。

「それ以上言わないで」

 無言の眼差しが問う。

「あの日のお話は、私とあなたの中だけに留めてください。すべてを見通す者からも」

「……」

「すでに言葉そのものに意味はありません。ただ、誰にも聞かせないという行為に意味があるのです。何者にも、決して聞かせはしないということに」

「それは、運命にさえ?」

 男が戻ってくる。いつの間に来たのか二人に増えていた。ソフィーが再び舌を鳴らす。男たちはソフィーを退けて、格子に出入りするための鍵を開ける。

 その時が来たのだ。私は身をかがめて彼らが引きずり出しやすいようにしてやる。両脇から腕を通し、私を支えながら逃げ出さないよう拘束しているつもりらしい二人に、しばし待つよう、最期の会話をさせてほしいと請う。

「ソフィー」

「ん?」

「靴が」

 使い古されているが、よく磨かれた赤い靴。丸いつま先が、油脂で光っている。

「あ、ああ。すまない、こういう時には相応しくないな。あんまり急いでいたものだから」

「いいえ、素敵な靴よ」

 思い出の中に消えた靴よりも、よほど魅力的に見えた。

「嘘ではないわ」

 ソフィーは、何かを言いかけて口を噤んだ。噛み締め、皺の浮いた唇は、ぐっと中央が上を向いたり、無理矢理口角を上げようとしたり、様々な試みをした後でようやく、短い別れの言葉を発した。実に簡素に、彼女らしく。

「ええ」

 それが妙に嬉しかった。

「あなた、どうぞお元気でね。末永く」

「……馬鹿野郎っ」

 私の身に起こる何もかもが終わってからも、ソフィーは変わらず生きていくだろう確信があった。ならば私も最後まで変わらずにいよう。全身の気力を踵から爪先に注ぎ、繰り返し、私は半月ぶりに囲いのない外へと歩み出た。何物にも阻まれることのない空気の瑞々しさを肌に、次いでそれが運んでくる罵声を耳に感じる。罵声の多くはまったく品性を疑うような、あるいは聞いたこともない下品な単語で構成されていたため、どうしても理解が一呼吸分遅くなってしまう。一呼吸分のずれが、唾を飛ばす荒々しい中傷が胸に深く刺さり、足を竦ませることを防いでいた。だから私は、“カメリア”としての歩みを止めずに済んだのだ。

「!」

 しかし、簡素な木でできた階段のその先、群衆を見下ろせる位置に至った時、私の足はとうとうびくりと引き攣って、凍り付いてしまう。同じ目線の高さに、首にかかった縄によって揺れている一組の男女――ロベルト・エルメンライン、そして妹のアニス・エルメンラインの姿があった。俯いたように頭を傾け、四肢を力なく軋む縄の動きに合わせて揺らしていた。

 嘆息を飲み込むのが精いっぱいだった。飲み込むことさえできないと、歩みを止めてしまった私を嘲笑う男たちや、いまや抵抗の手段を持たない兄妹に石を投げている人々を、無用に喜ばせてしまうことになる。

 ロベルト・エルメンライン――“美瑠”の記憶にも妙に引っ掛かる名だったが、そうか、『物語』の最後にカメリアの共犯として運命を共にする人物だったか。小説として読んだそのシーンはごく短く、ロベルトのことも、カメリア側の人間としてたまたま名を与えられた一人程度の認識だったけれど。

 背中を押され、つんのめるように一歩前に出る。ぶら下がる縄の一端で作られた輪が、己の仕事を全うできる瞬間を、今か今かと、待ちわびて影を落としていた。

 輪の真下に置かれた粗末な椅子に、体が持ち上げられる。私が、その時こそ身も世もなく怯えると思ったのだろう、男たちは足だけを妙にしっかりと支えて立たせた。

「お気遣い、恐れ入ります」

 ありふれた感謝は、悲鳴よりもよほど男たちを動揺させたらしいのが、ちょっと面白い。感覚がなくなるほどに血の気が引いていた指に、血液がめぐる感覚があった。こんな状況でも、笑いというものが力になるなんて、初めて知った。

 せめてもっと別の時に知ることができればよかったのだけれど。

 輪に首が通される。椅子を外されれば私はそれにしか縋るものがないというのに、今はまだ互いに皮膚も縄目も触れさせず、私たちは群衆に晒された。

 荒い縄目が視界の端に映る。密やかに息をのんで、ゆっくりと焦点を正面にもっていく。人民の海の、穏やかなこと。一つの歴史の区切り、新生させる王国、私がぶら下がった後にもたらされる熱狂を待つ人々の、嵐の前の静けさ。

 一人一人の顔を見ようとして、諦める。憎悪、好奇心、憤怒、歓喜、種類の異なる一つ一つの激情を受け止めるには、私はいくらか自棄になっていた。文字通り、死の前にすべて差し出し自らを棄てるものだった。 “美瑠”の魂を奪い攫った時はまるで奇襲の如き素早さで事を成し遂げたのに、今は景色を味わうほどゆったりとした足取りで迫りつつあった。

 あまりにも絶対的な、眼前に渦巻く嵐のごとき人々の声も感情も飲み込み無に帰す存在を前に、尽くす言葉に、流す涙にどれだけの力があるのか。

 しかし、涙も乾いた目に二つの寄り添う人影を映した時、喉に声が込み上げ溢れた。

 咆哮は、およそ自分の喉から生まれたとは思えない、餓え疲れた獣の最期のひと吠えに等しい声だった。

 護衛の付き人に守られ、絞首台から最も遠い真正面に立つ彼らは、恐ろしいものから身を守るように互いの体に腕を回す。私がそうさせているかのように、男の目が鋭くなった。私は喉が潰れることも恐れず叫ぶ。

 一体、どういうつもりで現れたのか。

 恐怖するならばこんな所に来る必要はないだろう。

 私が息絶え、生き返らないことを確認しないと安心できないのか。

 あなた達二人が結ばれるために、私の命が必要なのか。

 私の命で愛の喜びを得ようなどと、全く愚かなことである。

 あなた達が得る喜びは、ただ一人の命がついえる瞬間を目撃したという経験の喜びに過ぎないのだ。

 民に石を投げられる一つの死体を見て歓喜するなど、あなた達がするべきことではないと分からないのか。

 私は、私は……――

 私は何もしていない!

 私は私に誓ってそう言えるんだ!

 あんたたちがくっつくだけなら、私なんか実家に帰して放っておけばよかったのに!

 自分の身を守るために考えて考えて!

 それが全部裏切られた気持ちが分かるか!

 くそったれ!

 ああ、面白いでしょ、愉快でしょ!

 悪役の汚い死に際!

 これが見たかったんでしょう!

 笑えよ、笑え!

 私の死によって結ばれるんだから!

 あんたたちの物語の山場だ!

 愉快で幸福でたまらないって笑えよ!

 せいぜい!

 自分たちがたまらなく可哀想だという顔をやめろ!

 無実の者が死ぬより憐れまれるものがあるか!

 私は無実だ!

 いや!

 死にたくない!

 死にたくない!

 うなじに衝撃が走り、意識は真っ暗になる。

 首に縄を食い込ませてぶら下がる四肢から力が抜け、涙が落ち、弾け散る音まで鮮明に聞こえるほどの静寂の後、歓声が起こった。

 若い二人の男女は互いの背に腕を回しきつく抱き合い、キスをした。


 * * *


【件名】

【本文】誤字脱字チェックおわったー!

 おねーちゃんも頑張ってると思うけど、私も頑張った!


【件名】添付忘れた

【添付】goji- check-4.docx


 二通分のメールを読み終えるが早いか、連日の疲れを訴えていた両目の視界は、いっきにぶれた。親指の付け根のふくらみを瞼に押し付けて、手のひらで血行の悪さと、一仕事終えた達成感を味わう。

 温度が戻ってきた眼球で見たのは、まだ名前のないテキストファイル、細切れに保存されている一万文字余りの文章に、最も多くみられる単語は『カメリア』だ。推敲を重ねて削除された、バックスペースキーの力を免れた、たくさんのカメリアの成れの果て。死体じみたそれを、検分する視線で眺める。

 不思議なことに……いや、いまとなっては答えが分かっていることなのだけれど、ベルタの物語を書けば書くほど、カメリアの存在は濃度を増していった。

 軽やかにつま先から地面に足を落として歩く姿、カップを持つ手の小指に力がこもり、ぴんと張りつめる形良い爪、大勢の視線が刺さるのを感じながらも、決してひるむまいと自らを鼓舞する頬の紅潮。その心臓が最後一拍の弱弱しささえ思い描ける。

 そして、探る眼差しが焼け付く嫉妬の色に変わる瞬間。嫉妬のために鋭く変わっていく心に浮かぶのは、いくつもの非難と悲哀の言葉ばかり。十七年という生の中、口にすることはおろか想像さえしなかった、他人のためにあるとばかり思っていた憎しみや恨みの形をしたそれらが、次第に自分の腹に根付いていくのを、恐怖と狼狽でもって受け入れたその瞬間の血の冷たさまでも、私には感じることができると思えた。

 もっとも、そうして瞼の裏に描いたカメリアは、ほとんどが本編からはじかれ、一万文字の物語の中で眠っている。それは死体か、胎児か、今にも掻き消えそうな呼吸を繰り返すそれは一体何か、未だ定義さえない。けれど、ゼロバイトに帰すには惜しい。

 私は、疲れた頭から一つの完結による達成感を追いやりながら、新たな『名称未設定』にふさわしい名前を考え始めていた。息を吹いて目を開き、自分の足で立ち上がり、新たな物語を歩き始めるための名を。

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