第8話 ペーパー・ロンリー

 雷が天地を揺らすある日、四頭立ての馬車が物々しく入城を願い出た。

 わだちに雨が注ぎ、泥と混ざり合いながら雨粒が跳ねるぬかるみを、上等の長靴が踏みつける。何ものも前進を妨げることはできないのだと主張するように、施された装飾が泥で塗られていくことさえ気に留めない。馬車から降りた三人は、全員がそっくりの足取りで、城の中へと歩み入る。

 友好的であるとは、とても言えない客人たちを住人たちは遠巻きに迎えた。一人が左手に握っていた書状を広げ、訪問の理由を告げる。出迎えの上級使用人から、廊下の向こうで耳をそばだてていた小間使い、そして主人たちも等しく驚愕し、あまりのことに泣き出しそうになる者もあれば、至極小さな声で悪態をつく者もあった。三人の客は狂騒というには静かな波が屋敷を満たしていくのをただ見つめていた。そうして、波に煽られた人々がいくらか落ち着きを取り戻すのを待ってから、改めて案内を求めた。

「今、とても立て込んでおりますの。手を止めずともいいのでしたら、どうぞお入りください」

 客らが目的とする部屋を守るは、叩いても中から開けられることはなかった。閉め切った扉の向こうから聞こえた言葉に三人はいささか機嫌を悪くしたようだったが、どうしても中から開けさせたいわけでもなかったと見え、今度はノックもせずに取っ手を回した。踏み込む前に書状を大きく広げ、訪問の理由を告げる。

「カメリア・ヴァーチェ殿、国家反逆罪の疑いで連行します」

 この書面こそが根拠であるのでよくよく目に焼き付けるようにと真っすぐに腕を突き出すが、机に向かうカメリアは、ちょっと頭を持ち上げて片目だけ動かすと、まるで興味が湧かないという様子でペンを動かし続けた。紙の繊維の上を金属のペン先が躍る、さらさらとした音は、唇の前に人差し指を立て歯の隙間から吐く、沈黙を促すときの音に似ていた。

 とうとう一人が、足音を鳴らしてカメリアに近づき、その肩を掴む。ペンが止まった。

「ご同行願う。室内のものは捜査のために我々が押収する。手を触れないよう」

「手を止めないことを了承されたので入室されたのでは? これが書き終わるまではお待ちください」

 視線で手を放すよう訴える。離れた手は、今度は二人の仲間に何かの合図を示す形になった。

「終わりましたら声掛けを」

 三人はそれぞれ室内に散り、クローゼットや棚をことごとくひっくり返し始めた。どうやら、先に室内の物品を預かることにしたらしい。証拠の品とするのなら、もう少し丁寧に扱えばいいのに、なんて粗野な手付きだろう。令状の読み上げ方や押し入り方以外は、学ばなかったのだろうか。

 三方から、ばさばさと乾いたものが乱れ散らばる音が等しく聞こえた。彼らの探し当てたものなど、もとい、彼らに探せるものなどたかが知れている。しかし、それが出てくるとは思わなかったと、あるいはこんなに大量に出てくるとは思わなかったと言うように、三人が三人とも息を飲む気配があった。

 今度は、私自身の意志でペンを止める。最後の手紙はまだ書き終えていない。

「何を、驚かれているのです?」

「……一体」

「手紙ですわ。ご覧のとおり」

 自分でもすでに何通あるかも分からない封筒と便箋の山。一つ所にまとめれば、その上で悠々と寝転がって体を受け止める乾いた感触を味わいながら過ごすことさえできるほど、膨大な量の手紙だ。

 もっとも、これはそんなに優しいものではない。

「そして、私がセルジオ様のために作り上げた城であり、要塞です」

 これは、ロベルトに教えてもらったセルジオの王位継承に不満を持つ者、そして将来不満を抱く可能性のある者に宛てた労いの言葉とその返答の堆積だ。どうかカメリア・ヴァーチェの名に免じて拳を下ろしてほしいこと、そうなった一因は現ヴィヴァーチェ家にもあるのだから、不満は文字にしてどうか私に直接突き付けてほしいということを、何度も訴えた。一人一人の胸を打つまで、何通だって。

「ご覧になるのでしたらどうぞ。現王家樹立にあたり、私たちがないがしろにしてきた人々を如何に救い上げるか、如何にその心と向き合おうとしたか、知っていただくことはやぶさかではございません」

 一度のやり取りで終わる場合があれば、返事そのものを渋られる場合もあった。返された言葉に傷ついたこともあったけれど、セルジオの代わりになれたと思えば、私が役に立つことを証明できるのならば、胸の痛みにも意味を見出せたのだ。手紙の束が積み重なる度、国を、セルジオを陰から守ることができているのだと嬉しくなって、痛む腕を擦りながら眠りについた夜は、一夜二夜ではない。

「押収、なさるのですよね?」

 痛みの結果、この場で読み解くにはあまりにも膨大な量になったそれに、三人は顔を突き合わせて相談し始める。持って帰ろうとして、容易に運べる量ではない。更にこれを正確に仕分けることを考えたら、それはもう気が遠くなる話だろう。

 それでも、有言実行するのなら、この部屋に押し入った時のように力づくでやってみるがいい。私はふっと息を漏らし、余裕があるように振る舞った。汗の一滴もかかないよう、声が震えないよう、呼吸の一つにも注意しなければならなかった。

 どうか、ここでは開封せず、持って帰ってほしい。

 何度も何度も読み返した、膨大な数の手紙。どの引き出しに誰の手紙が入っているかも覚えてしまったそれらが、『物語』に屈し書き換えられていたら――この乗り越えるべき正念場で手の平を返すように白紙になってしまっていたら、私は一体何を支えに自分の心を守ればいいだろう。

 それがどうしようもなく避けがたいのならば、せめて絶望を覚悟するだけの時間が欲しかった。

 一人が無造作に選んだ封筒から便箋を抜き出す。

「検分は専任官が行うものです! 私に命じたように、手を触れるべきではありませんわ!」

 広げた紙面に落ちた視線が驚きに見開かれ、私は自分の運命を悟った。

「これが謀反を企てた証ではないならば、この場で申し開きを願う」

 眼前に突き付けられた便箋には見覚えがある。やはり現在のヴァーチェ王家になってからうだつの上がらない貴族の家柄の子息で、どうにか再び名を上げたいと思っている家族のプレッシャーに悩んでいるとよく書いていた。現在の状況を作る原因となったバンスの決断について、まるで急な雨に降られ、晴天を待ちわびながら雨に濡れ続けている人のような、湿っぽい恨み言を、思い出したように書き足す書き方が印象的な手紙だった。

 なのに、私の目の前にある便箋には、セルジオを討ちカメリアによる王国の支配を望むこと、そのためにいかなる協力も惜しまない旨が、そのしっとりと重い書き方で綴られているのだ。

「何かの……間違いです……!」

 視線を深く落とす。

 間違いだ、こんなこと。今まで上手くやってきたはずなのに。

 あの覚えのない命令に失敗した旨伝える封書を受け取る瞬間までは、本当に、順調だったのだ。

「こちらにも、同じ内容のものがあります」

「こっちにも」

 同じような『証拠品』は次々と見つかった。手紙の山は、王太子妃による時勢に遅れた貴族たちへのいたわりの記録ではなく、彼らを謀反の味方にするべく交わされた記録になり果てていたのだ。

「そんな、全部……?」

「カメリア様、恐れながら同行ではなく、身柄拘束の上連行を願うことになりますな」

 抵抗の力も失った両手が背中に回され、ベルトで動きを封じられる。前に一人、後ろに二人が付いて引きずるように廊下へ連れ出した。

 怖々こわごわと見守っていた使用人たちと、今にも倒れそうなほど白い顔の妃を支える国王、そして、薄暗く燃える目をしたセルジオらの前に、引きずり出され、罪人となった体が罪なき物語に住人たちに晒される。

 しかし、針のむしろの如き彼らの眼差しよりも、室内用の履物の薄い靴底から伝わる硬い廊下の感触が大きな羞恥を生む。さながら公衆便所に裸足で入り込んだような、背中から足指の股までぞわりとぬるい水が這うような、気持ちの悪い恥ずかしさだ。

 反射的に顔を反らしたのは、幸か不幸か。屋敷から雨の中の馬車に乗せられるまでの道のりを直視せずに済んだことだけは幸いだったと言えた。

「待て!」

 拘束を今一度確認し、馬車が動き出す直前、濡れそぼったセルジオが供も連れずに駆けて来た。長い鞭を握る御者役が、慌てて手綱を引いて馬に動かぬよう指示を出す。

「少し待て、彼女と話を」

 色を増した紫の目にひと睨みされ、男たちは「手短にお願いします」と馬車から距離を取る。対峙する無辜の王子が雨に打たれ続ける様子に、罪人の心がいくらか痛んだ。

「カメリア、君が何をしていたのか全てを話す必要はない。王国へ謀反を企て貴族の一部を味方にしようとしていたこと、それだけでも恐ろしい大罪だ。例え神の前で詰問されたとて、他の罪まで洗いざらいにしなければならないということではないのだから」

 言って含めるような口ぶり、その意味するところを悟った瞬間、雨粒を弾くような笑い声が喉から溢れた。肩を震わせ身を転がすことができないのが惜しいとばかり、金属的な割れる笑いが、豊かな睫毛を涙で彩った。

「それは私のためではなく、セレーニ様のためでしょう!」

 ひいひいと息を吐いて、ようやくまともな言葉が言える。よじれそうな腹を抱えられないのが残念で仕方がない。

「あなたこそ、セレーニ様にいやらしい噂がたっても、守って差し上げればよろしいではないですか!」

 見知らぬ男たちに襲われたことを、ベルタがどのように伝えたか分からない。けれど、私がけしかけたのだと吐いてしまえば、ベルタの純潔について下世話な噂が飛び交い、尾びれ背びれが付いて、やがてそれが事実のように囁かれるようになるのは時間の問題だろう。

 仮にそうなったとしてセルジオがどこまで彼女をかばえるのか、興味が湧かないわけではなかった。故に、セルジオの言に頷いて答えることはしなかった。

 セルジオはわずかな瞬間、どうにか言いくるめられないか考えた様子をみせたが、すぐに苦々しい、まったく不愉快なものを払いのける時の怒りにも似た顔つきに変わる。表情は揺らがなかった。

「婚姻の破棄は、追って通達する。行け」

 馬車が走り出す。

 遠ざかる車輪の回転はやがて小さくなり、雨が地を打つ灰色の音だけが残った。


 * * *


 無意識の癖のようなものだったのだろう。

 今は未公開にしているウェブ版を読み直していけば、まるでベルタとカメリアのダブルヒロイン小説だ。カメリアの情報が溢れ過ぎている。書き始めた頃、自分が何を考えていたのかはよく思い出せない――むしろ、何も考えずに書いていたせいで、記憶に残っていないのではないかと思う。

 大まかに読んだところ、思いついたことをそのまま、思いついたタイミングで放り込んで書いていた印象だ。「ここはこうしよう」とか「こういう設定だったら面白いかも」とか、割といい加減な思考の痕跡があった。

 その中には、「そこまで意地悪に書かなくてもいいのではないか」という、無意識の抑制がある。その延長に、日常や古典的な訓戒の匂いを感じ、吐き気がした。

 喧嘩両成敗、どっちもどっち、短所だけではなく長所も見ましょう――かなりの人々が、幼い時分から刷り込まれているだろう教えに従って、ある種の良心に基づき、私は物語を書いたというわけである。

 悪役令嬢とはいえ、誰かを殺したりはしない。普通の人間だから。

 悪役令嬢とはいえ、相対的な考え方をしないはずがない。普通の人間は、相手の視点に立って考えましょうと教わるはずだから。

 悪役令嬢とはいえ、女を女として辱めたりはしない。卑怯なことを、普通の人間は避けるものだから。

 悪役令嬢とはいえ、自ら命を絶ったりはしない。普通の人間はそこに至るまでもっと抵抗するものだから。

 本当に普通であるのは、カメリアではなく、私自身だ。自己の投影と例えるほど強いものではないが、カメリアの下地になっているのは、私の経験だ。それが、カメリアを未だ人間たらしめていて、悪役になり切れない原因である。

 私が擁護していたのは、カメリアの中にある私自身だった。まったく、反吐が出るほどの自己愛である。意図せず愛しているのだから厄介である。

 そぎ落としそぎ落とし、記号化されてなお、そぎ落とすべき部分。それは、カメリアの中にある私だ。

 そうして、カメリアはようやく、記号化を超え、虚構フィクションの世界に生まれ直す。転生する彼女を、私は祝福する。

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