第7話 ペーパー・オンリー
手紙をしたためる毎日が始まった。
ロベルトが案じたように、私の手紙の宛先は村一つの住人にも及ぶほどに増え、半月もしないうちに、アニスさえ協力したことを後悔し始めたくらいである。
けれど、私は書くのを止めなかった。放課後はさっさと屋敷に帰り部屋に籠り、眠る時間を惜しんで、朝は小間使いが起こしに来るより早く起きて、ペンを握り続けた。
ひと月も過ぎた頃、ついにロベルトが危惧した“ロベルトとは異なる連中”の一人から返事が届いた。手紙の主によると、セルジオのために私が筆を執っているという状況が、すでにバンスとランス兄弟の再現であり、私の行為自体を認められないということだそうだ。それから、最初に接触してきたのは私で、つまり様々な批判を書かせる原因は私にあることを長々と前置きしてから、
真っ向から罵詈雑言を浴びて、心臓が冷たくなる。しかし、どんな内容でも間違いなく私の計画の痕跡になるのだと考えれば、少し冷静になって文字に向き合えた。
二度三度と読んでいくと、文言こそ強いものであったが、言葉の選び方がどうにも不慣れで、悪口の作法を模索しながら書いたように見えてくる。夜も更けた頃、ランプの灯りを頼りに眠い頭で罵倒の言葉を考えている姿を思い描くと、愛らしさすら感じた。
「……さあ、腕の見せ所どころよ」
最悪の好感度をひっくり返す。ひっくり返した関係は、簡単には裏切れないことを、私は知っている。
バイト先にやって来たクレーマーと同じだ。「上の人間を出せ」と
いつもどこかぼんやりとしているその正社員スタッフに、その事件から私たちは尊敬のまなざしを向けたものだ。そしてある日、クレームの極意を教わった。
「共感と反復ができれば、まずは大丈夫だよ」
スマホの使い方より簡単だというように、その人は言った。つまり、相手が怒っていることを、言葉を少し変えて返してやるのだ。すると、相手はまず理解してもらえたという段階に、一つの納得を覚える。
「あと、何でも謝るのはだめ。謝らないのはもっとだめだけど」
大事なのは、怒らせてしまったことについての謝罪だ。相手が文句をつけた項目一つ一つへの謝罪はかえって後のトラブルに繋がる。その人は何かを思い出すように苦い表情を浮かべた。
「それから、事が収まった後も相手を特別扱いしちゃだめ。お客さんはみんな大事だけど、特別ではないから」
特別ではなく、公平に。常連になった後も特別おびえたり媚びたりせず、他の客と同じように接するようその人は私たちに指示した。
私に
今一番困るのは返事が全くこないことなのだが、私はとうとう相手から交流を持てたことの感謝を引き出せた。
「ありがとう、社員の人……!」
転生していなければ、私はまだあの人の元でアルバイトをしていたのだろう。スタッフ用のプラスチックの名札、ドレスとは比べるべくもない安い生地の制服、全部が懐かしく思い出された。
一人、また一人、ゆっくりとだが増えていく味方は、私を安堵させ、ままならない日常に踏み止まらせてくれる。『余白』からはみ出た行動が『物語』により改ざんされる日々は続いていて、“カメリア”の行いは『物語』の決定したものしか世界には残らない。
けれど増えていく手紙は、無力にも書き換えられる毎日への抵抗の証であり、顔を合わせなくても心を通わせてくれる朋友の存在を確かに感じさせてくれた。『余白』に存在する味方は表立った存在ではないが、私が『物語』に陥れられそうになった時、大きな助けになるはずだ。あの時、私に閃きをくれた刺繍の花のように。
手紙を書くのと同じくらい、読み返すことも忘れない。贈られた手紙が失われていないこと、書き換えられていないこと。この二つだけは、三日に一度は確認しなければ、私は安心できなかったのだ。
私が安堵するのと同時に、“カメリア”としての部分にもかすかな変化があった。
時に過剰なほど綴られる賛美は、“カメリア”の肉体にもよく馴染んだ。転入初日、貴族の子女たちが叫んだ万歳が私にもたらした、あの染み入るような高揚と同じだ。野生の獣が獲物を見つけ、口にする興奮で目を細めるように、本能としての体が求めている。多くの人は、大気を吸い清水で潤う体を持つが、生まれついた王者の体には、それ以外にも満たすものが必要なのだろう。
惜しむらくは、“美瑠”も“カメリア”も、心から喜びを共有する者がいないということだろう。たった一人で味わうそれは、どこか寂しい匂いがする。
(でもいいの。共感者を求めなくても大丈夫なようになるのが、目的なんだから)
『物語』の通りにカメリアが悪役令嬢としての役割を全うする日がきても、『余白』からの助けがあれば、同じ『小説』にはならない――なることができない。その先にあるのは、小説の中のカメリアが迎えたものとは異なる結末のはずだ。
それに少なくとも、私がセルジオのために陰ながら動いていたことは明るみにできる。それもやはり、“カメリア”の物語から脱するための布石だ。
「カメリア様、今日のお手紙です」
「ええ、ご苦労さま」
「すぐにお返事を書かれますか? 人払いは夕食まででよろしいでしょうか?」
銀の盆が運ばれてくる景色も慣れたもの、最初の数日こそ、あんまり頻繁に届く手紙に小間使いは何事かを気を揉んでいたようだが、これもまたセルジオのためであることを説けば、今までより協力的な仕事ぶりになった。
部屋に一人、遠ざかる足音を確認してから、名前を確認する。既に何度か手紙の往復がある者、丸い文字の主は数日前にアニスから紹介された母方にバンス・ヴァーチェと
(……イニシャルだけ)
苛々し始めた時、極めて素早く記す文字の特徴からは、書いた者の癖が見えない。インクを付ける間さえ惜しかったのか、全体的に掠れていて、しかも封蝋もない。眼前にかざしてみれば、秘密の匂いがした。
中に入っている便箋はどうやら一枚きりで、他の同封物があるわけでもないと手の感触が教える。秘密にしてはいやに薄っぺらい。
ひょっとして、ロベルトとアニスに続く、新たな賛同者だろうか。自らの行いを大っぴらに言いふらしているわけではないけれど、誰にも手紙のことを秘すようにとは命じていない。独自に接触してくる者が出てくる可能性は考えていた。何より、私の行動は敢えて妨害を企てるほどの行いではないことも明らかなので、私は何の警戒もせずに封を開けた。
――計画 失敗
最初に飛び込んできた単語は、署名よりもいくらかましな、伝達の意図が伝わる乱れ方だった。
――強襲 しかし逃走を許す ベルタ・セレーニこの度 貞操破れず
謝罪の言葉で、手紙は締めくくられていた。
強襲、貞操――殴られたような衝撃に、左手で頭を押さえる。皮膚の下で、今にも千切れそうなほどに、血管がどくどく揺さぶられている。
宛先を確認し、送り間違えではないことを確かめて、もう一度嫌々ながら読み返す。文面は、私の命によりベルタを襲った悪漢が(どうも三人組で実行されたらしい)計画の失敗を詫びる内容だった。二度目の衝撃を右手でやり過ごし、きつく目を閉じた。
「……嘘」
私がこんなことを依頼するはずがない。
確かに、一女子高生にすぎなかった“美瑠”は“カメリア”より精神的に幼かったけれど、どんなに嫌いな相手にだって、その肉体と心を損ねることを望まない程度の、ごく一般的な程度の倫理観はあった。自分自身に誓って、私はそう言える。
確かに、“カメリア”は“美瑠”より苛烈な一面を持っているが、この世界で女の貞操がどれだけ重要で、時に大きな不利益を生むその理不尽さを知っている。実家の使用人同士が関係し、未婚のまま妊娠してしまった時は、彼らの上司である上級使用人から雇い主である両親まで、屋敷の中はまるで悪魔が入り込んでしまったとばかり、上を下への大騒ぎになったのだ。
後に弱みを握られていただとか、合意はなかったとかの事情が明らかになったものの、未婚の妊婦をひどく汚らわしく、社会に置くべきではない存在として扱っていたことはよく覚えている。優しい母でさえ、事件の後から、腹が大きくなっていく使用人を自分に近づけさせなくなった。若い料理人が子供を授かったのをきっかけに屋敷を去った時には、涙を浮かべて別れを惜しんでいた、あの母が。
貞操を守れないものは、母にさえ嫌われてしまう。男女の違いを意識しだした頃、既にそのことだけは絶対的な世界の条理として刷り込まれていた。目に見えないそれがどれだけ重要なのか、扱い方を間違えるとどれだけの不幸が生まれるのか、手探りに学んだ後、決してそれを粗末には扱うまいと決めた。自分のものも他者のものも、不条理の多い世の中で、せめて自分だけは公平に大切にしようと誓った。
そんな“カメリア”が、憎さのあまりに男をけしかけたりするだろうか。私には、“カメリア”がそれを思いつく姿さえ想像もできない。
「ありえない、だって、小説には……」
こんなシーンは全くなかった。混乱する頭の中を探ってみても、類する場面さえ思い出すことができない。
『物語』が『余白』に侵食してきたのだろうか。けれど、本来『物語』が持たないシーンが一体どこから生じたといのだろう。
「こんな、まるで……」
まるで、書き換えられてしまったかのよう――私は手の中に手紙を握り隠し、部屋を飛び出した。
(嘘よ!)
遠くから、小間使いの声が聞こえる。目を丸くする使用人たちの間をすり抜け、屋敷を飛び出し、足はまだ止まらない。
(だって、とっくに完結していたじゃない!)
今更、書き換わることなどあるものか。あるものか。
肩で息をしても足りなくなって、ようやく足は止まった。ゆるく弧を描く橋のてっぺん、進んでも戻っても下るしかないそこは、私たちが夫婦となった教会に通じる場所だ。セルジオたちが普段の生活を送る屋敷の裏手は王城の敷地へと繋がっていて、どうやら私はそこまで逃げてきたらしい。逃げたかったはずの手紙を持ったまま。
「い、や……嫌、嫌、嫌!」
汗を吸った手紙を封筒もろとも破る。
「こんなもの!」
縦に、横に、繰り返し裂き、膝をついて水面に投げる。もう二度と現れないように、影も残さず音もなく水底に沈んでいくのを見届けた。
「カメリア様!」
困った犬のような顔をして、小間使いの少女が小走りに駆けてくる。躓きそうになる室内履きが、彼女の慌てぶりを示していた。
「そんなに身を乗り出しては危のうございます!」
腕を掴まれ、私は身を投げ出すようにしていた格好に気付く。服が汚れてしまうことを案じながら差し出された手に手を重ね、少女を安心させるために立ち上がった。小さな指は厨房を預かる使用人たちよりは滑らかだが、硬くなった指先の皮膚に大人の部分を感じさせ、弱った心が思わず縋りたくなるほど揺らいだ。しかし身体はそれを許さず、少し外向きになったつま先で真っすぐ立った。何ものにも動かされず立つことが、最も少女に報いる行いであると信じて足に力を入れる。
「ええ、ありがとう。もう大丈夫よ」
大丈夫と口にしてみると、いくらか本当にそうであるような気分になってきた。
落ち着いて考えてみれば、“カメリア”は作中で、性を傷つけるやり方でベルタに嫌がらせをすることはなかった。
そもそも、誰とも知れない人物を実行犯に仕立てるなんてありえない。“カメリア”は彼女自身の美学や思想により何をするべきか決める人間で、ベルタを貶めることだって自分自身で決め、実行しているのだ。そんな“カメリア”に、何かを隠そうとする後ろ暗さはない。むしろ、後ろ暗く感じるものならば、実行することそのものが間違っている可能性を考慮し思い止まるだろう。それらの“カメリア”の根底をひっくり返してしまうなら、それはいわゆるキャラクター崩壊というものだろう。そしてそれは、『物語』の崩壊に繋がりかねないものである。
「……大丈夫よ」
『物語』が完結しているが故に、崩壊は起こりえない。書き換えられるなど、ありえない。
私はこの世界の揺るぎない真理を心に唱え、刻み、未だ手を離さずにじっと見つめている少女に笑いかけようとした。そして、彼女の背後に黒々としたものを見る。
「きゃっ」
黒い塊はつむじ風のような足取りで、少女の背後を右に左に跳ね、ついに小さな茂みの中に伏せた。
「まあ、厨房のルーシーでございますよ!」
少女はかがんで、両手の指をおもちゃに見立てるように動かして、ルーシーを茂みから
秋の実りの金色と、新樹のみずみずしい緑色の目を持つ猫だった。
「その猫をどこかにやってちょうだい!」
金と緑の目が細くなる。少女が猫を抱き上げ、
「恐れながら、ルーシーは鼠を捕まえるのがとても得意なのです。鼠というのはあれで賢く、一度見た罠にはかかりにくくなるものでございます。しかし、ルーシーの賢さと素早さの前では、どんな鼠も形無しなのでございます」
「罠の工夫を怠らなければよいのです。何も捨ててこいというのではありません。私の目の届かないところにやってしまえばいいのですから」
震える腕が猫をゆっくり抱え直す。私がルーシーの解雇を取り消すのを待っているかのように。
「……承りました」
「それと、もう二度と厨房に動物を置かないよう」
「……承りました」
年齢相応の反発を飲み込んだ声は震えていた。
身を小さくして言葉もなく懇願する姿を前にしても、私は命令を取り消すつもりはない。垂穂の金と若葉の緑はベルタの色。『物語』の機軸の色を持つものはベルタに属する存在だ。私の内なる敵である。
ベルタは物語を通じて一つの能力に目覚め、動物と意思疎通ができるようになる。建国の伝説に語られる同名の女神・ベルタもまた動物たちと協力し、国の礎となる土地を求めたと言われている。彼女がベルタという名であることは『物語』として意味があるのだ。
すでに女神の力に目覚めているのだとしたら……私を目に映す全ての鳥獣は、ベルタの内通者だ。“カメリア”もまた『小説』では動物により謀反人たちとの密会を暴かれ、罪を糾弾されるに至っていた。
木立の陰に、いっそう暗い色の鳥が止まっている。金の目、緑の目、ガアと鳴いて。
「あっちへ行きなさい!」
小間使いが息をのんで走り出した。途中でルーシーを落とさないよう何度か足をゆるめたが、振り返ることなく見えなくなってしまう。凶兆の鳥は、手の届かない高さまで笑うように翼を羽ばたかせ、気配を消す。
日差しに焼かれ褪せた茎がうな垂れる池の端で、私は動けずにいた。
全てに祝福されたあの日、庭を彩っていた花々の姿はない。濃い緑の落とす影に魚が跳ね、日差しの色の鱗をきらめかせる。巡る季節の先に、セルジオとベルタが大理石の教会へ、手に手を取り合って歩んでいく幻だけが浮かんでくるようだった。
それはいずれ現実になるのだろうか。
今までより緊張感を持って手紙を受け取るようになった私の前に、二通目は届かなかった。
あれは手の込んだ悪戯で、セレーニ家の名前ならば悪戯の被害者になっても騒ぐ者が少ないと判断してベルタの名を出したのかもしれない。だから何も心配することはない。そう言い聞かせみれば、いっそ呆れるほど単純に心は軽くなり、日を追うごとに水底に消した手紙を思い出す時間も減っていった。
なのに、どうしてだろう。地面の深みを音もなく水が浸食していく感触があるのは。足をつけた地面が、いずれ私を奈落に引きずり込むべく、口を開けようとしている気配が落ち着かない気持ちにさせた。
「しばらく、帰りが遅くなる」
大穴がばっくり口を開けたのを知らせたのは、セルジオだった。
両陛下と側近たちに示すための義務に近い習慣として、共に夕食を摂っている最中だった。繰り返した思考の結論というよりは、今さっき思いついたので話しておこうという、何気ない話し方で続ける。
「大切な友人が、どうも良くない連中に目をつけられたらしい」
「ご友人……エルメンライン様でしょうか?」
セルジオがわずかに不機嫌な手つきでフォークを操った。
「ロベルトではない。だが、大切な人だ。できる限りの助けてやりたいと思う」
自分の言葉に満足した様子で、フォークに刺した肉を噛む。私は、馬鹿な質問をしたことを後悔した。
「ええ、女性では尚のこと不安にお過ごしでしょう。日頃の友愛に応えるのは、正しく真心の証明ですわ」
細い足のグラスが倒れた。あっ、と一言小さい叫びが重なり、一人の使用人は慌ててこぼれた飲み物をふき取り、もう一人は新しいグラスを探しに厨房へ走る。
食事の手が止まった。肉の匂いを漂わせる唇がひくりと意思に反して動き、しかし言葉はない。重く曇った眼差しのセルジオが差し向かう私を凝視していた。
「そういう言い方は良くない。聞いた者が勘違いしてしまうだろう」
「まあ、セルジオ様こそ、そんな怖いお顔では勘違いされてしまいますわ」
こめかみから細かな振動が広がり、セルジオの顔が耳まで赤くなる。
「ほほほ、冗談ですよ、セルジオ様ったら」
「……よしてくれ」
「ほ、ほ、ほ」
「よしたまえよ」
「ほ、ほ、ほ」
分かっていたではないか。手紙は水に沈んでも確かに存在し、書かれていたこともまた事実だったのだと。私が破いた程度では何も変わりはしないのに、私はあれっきり、何もかもが終わってしまったことを期待していた。愚かな期待だ。自分を笑わなければ、喉が焼けるまで泣き叫んでしまいそうだった。
「今日の料理は一段と美味しゅうございますわね」
上質な肉そのものの味もいいが、香味野菜と煮てこれでもかと香りを強めてもいいかもしれない。
もしも最後の晩餐を選べるのならば、忘れられないものが食べたい。味は問題ではない。如何に記憶に残るかだ。例えばセルジオとベルタなら、私が首をくくられる日に食べたものを一生忘れないのではないだろうか。
「そうだわ、料理長を呼んでくださらない」
私が今日の料理を称賛し明日の夕飯の希望を伝えると、戸惑った料理長の様子は一転、自信に満ちた表情で首を縦に振った。
「ありがとう。明日何があっても、食事を楽しみに過ごせそうよ」
特性の料理をより味わうため、するべきことを私は知っている。
まず、いつものように帰るのが遅くなると迎えの者に伝え、白い太陽が橙になり影が伸びるまで待つ。図書館に一番星のように灯っていた明かりが消え、間もなくベルタとセルジオが肩を並べ、同じ歩調で現れる。腰を抱く指の隆起が、斜陽に照らされ美しかった。
二人はそれぞれの夜を過ごす場所に向かうために分かれる。私はベルタの、愛しい人の名残りに浸る柔らかな背中を追った。
学生寮の薄暗い入り口に続く階段で、私はベルタの後ろ髪を掴んで引き倒し、崩れた彼女の体を落とした。地面に体を投げ出すベルタの頭をめがけて、
力なく手足を投げ出した体は動かず、左目の上あたりに当たった石もまた、弾かれて地面に落ちる。私はそれを拾いあげ、もう一度投げた。今度は前髪の生え際に当たったようだ。石はごろりと転がる。私は拾い上げる。ベルタは動かない。石がやる気なく落ちる。拾い上げる。今度は薄い腹に向かって放る。石を受け止めた腹が、水っぽい音を立てて窪んだ。自由に形を変える様が気に入って、もう一度投げる。空中でぐるりと回った石は、突き刺さるように、さっきよりこぶし一つ分下に突き刺さるように落ちた。
私の口から長い息が漏れる。それは全体的に「あ」の音をしていたが、真冬の夜に地を這う風のように低く、憂鬱な音だった。夕陽よりよほど赤くなったベルタを残し、私は夕闇の支配する学び舎に駆け込んだ。
二階建ての校舎は、廊下の一番端の窓から身を乗り出すと、建物を飾る彫刻に手が届く。男子生徒の中には、度胸試しとして彫刻を手掛かり足掛かりに屋根の上まで登る者がいた。私も彼らに
じきに私も赤に染まり、『物語』は閉じる。もっと早くこうすればよかった。私がページを破るためのたった一つの方法は、こんなに簡単だったのだ。
そっと閉じた瞼を薄く開けると、心配そうな小間使いと目が合う。
「おはようございます、カメリア様。今日は、ずいぶん深く眠ってらっしゃったようですね」
天蓋の下がる見慣れたベッドに悠々と横たわった私は、目を覚ました。毎日取り換えられるシーツと、肌に滑らかな寝間着の白が朝日に眩しい。
その日、ベルタ・セレーニは傷一つない体で
* * *
ともあれ、私という人間は至って凡庸な生活の中で育った人間である。
月や星を天蓋に、建物の影や橋のたもとで雨風を避ける位置を探し、地面を背に眠りにつき、明日如何に生き抜くか怯え悩み、他人のそれや財産を脅かすことをも計画しなければならない生き方はしたことがない。
同様に、富と名声の守護の元に生まれ、富めるが故に富が集まり、名声が手足の代わりになって働いてくれる生き方もまた、無縁のものだ。
しかし、それらがどういう生活であるのか思い描くことはできる。それは想像の力によるものであり、私が見聞きしたドラマや映画、小説の中に描かれた富める者や貧しい者を起点に創り出された人格であり、起点となった登場人物もまた、誰かの想像から生じた存在である。
私は自分の見た映画や小説を全て覚えているわけではない。けれど、記憶の水底で砂泥が舞い上がり、砕かれ沈殿したものが『ヴァーチェ王国の救聖女』の人物や舞台に密かに反映されているのだと思うと、遠い昔から続いてきた、物質ではないイメージの連鎖の輪に手をかけたような、感慨があった。
しかし、目に見えない結び付きは、手に力を込めると途端に存在感を失い、私を突き放すのだ。
そういうわけで、ぼんやりとした人格の輪郭を仕上げる、最も心細い瞬間に限って私はたった一人で頭を
例えば、パーティーに一人だけ招かれないのと、招かれて辱められるのと、どちらが辛いか。あるいは、より辛さを味わわせるため、敢えてパーティーでは親しく振舞って、油断したところを突き飛ばしてやるべきか。
五分ほど考えて、最初の案を選んだ。オーソドックスだが分かりやすく、そして仕掛け人の悪辣さが比較的控えめだろう。
おや。手を止める。私ときたら、仕掛け人であり、最大の悪役でもあるカメリアを擁護しようとしているのだろうか。
それならば、カメリアを善人にしたてて、終始和やかなパーティーの様子を描き、いずれはベルタと和解してしまえばいいではないか。しかしそれでは、物語が成り立たない。故に、カメリアは悪役令嬢としてベルタと対立する振る舞いをしなければならない。
私は『一国の女王となるべく厳しくも愛情深く育てられた高貴なお嬢様』だった人が、『嫉妬に狂い品性を失った獣』にまで身を落とす道のりを文字にする者だ。文字に昇華されるのは私の思考のごく一部で、多くはそぎ落とされ、無用のものに分類される。
消えゆくものの更に一部を拾い上げ、どうにか再利用して物語の中に組み込めないか頭を捻り、半分ばかりは保留にする。けれど、多くは跡を留めずに葬られる予感があった。
例えば、カメリアの幼い頃のわがままや、幼いが故の純粋さで大人を動かした出来事。例えば、苦手だった勉学の一部、それを克服するために流した汗と涙の跡、そうさせたのは未来の国母たる自分自身への呵責と、セルジオへの敬意と愛情。子犬が大好きだったこと、実はダンスだけは未だに苦手で、これが一番の秘密あること――物語から失われていくそれらに、私はカメリアという人間を見る。
失われていく文字からカメリアを思い描けば、気が強いながら人前で失敗することを恐れるほど小心な面があり、威圧的な派手さと同じように小さなものや繊細なものを愛することもできる、そんな像が出来上がってきた。お坊ちゃん育ち故のぼんやりしたところのあるセルジオなどは、無自覚に無神経な振る舞いをしてしまうこともあるので、カメリアが上手く立ち回って場を収めることもあるかもしれない。聞いた話によると、実際に西洋の貴族の婦人は、人間関係を執り成すために、社交の場に出ていくほかに手紙のやり取りなども頻繁に行っていたそうだ。
そうやって出来上がったカメリアが、『案外いいやつ』に出来上がりそうになったところで、私は気付いてしまった。
私はどうやら、人間・カメリアのある種の善性を守ろうとして、彼女へのダメージが少ない選択をしようとしていたのだ。
なるほど。止まっていた手が動き出す。カメリアには、ベルタをパーティーに誘わせることに決めた。勿論、お茶会の場でベルタを辱め、カメリアに気に入られたければベルタをどのように扱うべきかを、周囲の者に知らしめるためである。
そのようにすることが私の仕事であり、カメリアの役割なのだ。ひとしきり書いて、読み直し、『悪役令嬢』という記号のシンプルさに感動のようなものを覚えた。
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