第6話 ステッチ

 ついにぽつぽつとしたたり始めた。穏やかな落涙の如き雨の中を走り、門を抜けて表通りを飛び出し、石畳に生まれ始めた水溜まりを蹴る。指先から血の気が引いて重い雲と同じ灰色になってしまうのではないかと思う頃、迎えの馬車と鉢合わせた。あんぐりと口を開けた御者の様子を見て、私は初めて自分が如何に愚かな行いをしたのか気付く。窓に映る姿のみっともないこと。べったりと張り付き肩にのしかかる黒髪を気持ち程度に払う。普段より荒い手つきに、さっきのソフィーの声が思い出された。

(こんなことって……!)

 彼女は私が、先のパーティーでベルタにお茶を浴びせかけたと言った。私の記憶にはないその行いは、本来の『ヴァーチェ王国の救聖女』作中で“カメリア”が行うはずのものだ。

 これではまるで、書き換えられてしまったようではないか。

 あるいは、正しく流れるべき『物語』の時間に引き戻されてしまったというのか。

(そんな馬鹿な……)

 どちらの可能性もあまりに突拍子もなくて、思いついた自分自身でさえ肯定する気にならない。ソフィーが何か思い違いをしているのではないか、という可能性の方がよほど現実的だった。

 しかし、小説より奇なる現実が帰宅を告げた私に襲い掛かったのだ。

 先に帰宅していたセルジオが薄暗くおぼろな廊下の奥から歩いてくる。私の有様を見て驚いた小間使いが、拭くものをお持ちしますと駆け足でいなくなってしまったため、私は彼と二人きりで対峙することになった。天候を映した常より褪せた紫の目が、しとどに濡れた頭から色を変えた靴のつま先まで動く。

「……やあ」

 仮初かりそめとはいえ妻となった者が惨めな濡れ鼠になっている時にかけるには、あまりにそっけない。けれど今の姿が見苦しいことは事実で、私は恥じ入りこそすれ、彼をなじる気持ちにはならなかった。

「……ただいま戻りました」

 一礼する間にも雨の名残が髪に肌を伝い、床にぽつぽつと雨の名残が形を作る。それを見て、セルジオは、私を責めるように鼻を鳴らした。

「そんな恰好を見せて、同情を買おうというのか? 先日、皆の前で辱められたセレーニ嬢の方がどれだけ哀れだっただろうか……!」

「!? お、お待ちください、セルジオ様!」

 息を飲むごく短い混乱の後、私の頭は先のソフィーの様子をセルジオの言葉とを結び付ける。「まさか……」

 まさかあなたまで、ソフィーと同じことを言うなんて。言葉を失った私の前で、セルジオは顔を赤らめた。

「別に、セレーニ嬢のために言っているわけではない。ただ、僕は……つまり、将来女王として共に立つ者に相応しくない行いだったと……」

 二の句の告げない私が、彼とベルタの仲を疑っていると思ったようだ。とっくに疑いではなく確信を抱いているのだが、問題はそこではない。

 ソフィーとセルジオ、二人が語る内容が同じであるのならば、この時間の進行に取り残されているのは私ということになってしまうのだ。

 それにしても、本当に素直な人だ。言葉を重ねるほど気まずさも増すのだろう、小間使いの少女が戻ってくるのを見止めると、それでは失敬とばかりに背を向けて歩き出した。

 少女に礼を言う私は、少なくとも彼女の先輩にあたる上級使用人を呼び出し、あまつさえ温かな飲み物を飲ませる必要がある姿に見えたらしい。運ばれた自室の姿見で検分した自分は、なるほどそうされるに十分な様子だと思えた。

「搾りたての乳を温めて、たっぷりの蜂蜜と南国の香辛料を使っております。温まりますわ」

 カップが冷え切った手の中で温かい。甘味を引き立てるささやかな辛味が、腹から全身に広がっていくのを感じ、泣きそうになった。数を増やした小間使いたちが、普段よりもいっそう慎重な手つきで濡れた制服から下着まで脱がし、さらりと乾いた服へと着替えさせていく。

「カメリア様、差し出がましくも提案致しますが」

 差し出がましくも提案できるのは、彼女が時折指先の緊張が増すのは、彼女が屋敷の主人とはいかずとも、全ての使用人の長である証明の鍵束を持つ者だからだ。何本もの金属が鳴らす音は優美ではなくとも力強く、所有者の発言力を後押しする。

「屋敷と学園、常にセルジオ様とお顔を合わせていれば、意見が対立し不調和が生じることもございます」

 指先で小間使いに命じ櫛を用意させ、部屋着に合わせた髪形を作り始める。

「私が今までの経験によりますと、どうもこれは地位や家格に関係なく、貴族から庶民まで共通する問題だと断じることが可能でございます」

 後ろ髪をまとめ上げようとする手を制し、自然に下ろしたままの形を願う。手は素早く動きを変えた。

「しかし幸いにして、同じ敷地にいながら顔を合わせない方法というものが複数ございます。気持ちが落ち着くまでお好きな本をお読みになったり、昨晩のように刺繍に精を出すのも気が紛れてようございますよ」

「……刺繍?」

「ええ、まだ途中でしたが、あれは花の刺繍でございましょう」

「私がそれを、……昨晩?」

 使用人たちに退室を命じ、扉一つ向こうの寝室へ飛び込む。

 天蓋に覆われた寝台の傍ら、こちらからは隠れてしまう側に、曲線の脚と彫刻が美しいサイドテーブルの端が見える。

 記憶が――私の記憶が、正しいのならば……

 そう、昨日はお茶と焼き菓子で緊張を解しながら、薬草園で花を愛で、摘んでは可哀想だと、少々つらい姿勢をとったりもしながら観察し、教わった通りにゆっくり針を進めたのだ。間違いなく覚えている。

(そうよ、ほら、結局出来上がらなくて)

 寝る前まで粘ったけれど、結局最後までは仕上がらなくて、散り始めを縫い取ったような刺繍をサイドテーブルに放って眠ってしまったのだ。

 記憶の通り、枠に張った布に針が刺さったままのそれはあった

「……?」

 だが、形が明らかに違う。一見花弁に見える愕片の三枚は、確かに昨晩のうちに縫い上げたはずなのに、今手の中には一枚しかない。残りの二枚は散ってしまったかのように失われている。鼻先がつくほどに近くからまばたきも忘れて布目を覗き込むが、見間違いではない。生地に針が通った痕跡さえない。糸が抜けたというより、まだ針を通されたことがないように真っまっさらなのだ。

「そんな、馬鹿な……」

 本来流れるべき『物語』の経過を辿ったならば、ソフィーたちの態度は正しい。そして、この刺繍が“カメリア”の手元に残っているはずがない。茶会の席でベルタとの関係が破綻したならば、刺繍を始めるきっかけは“カメリア”にはないのだ。

 私が辿った時間と、ベルタの『物語』の時間が、縦糸と横糸のように交差しているとでもいうのだろうか。それが何を意味するのか、私には分からない。けれど、まだ完全に『ヴァーチェ王国の救聖女』としての時間に飲み込まれていないなら、光明があるはずだ――いや、光明を見出さなければならない。

 そうでなければ、私には破滅しかない。追われるように部屋を飛び出し、淑女のするべき足取りも忘れて広い廊下を突っ切る。

「ひどい足音かと思えば、君か」

 突然の訪問に、セルジオは顔をしかめながらも応じてくれた。整頓された本棚が蝋燭の灯りに照らされて影揺らめかせる室内に、彼は私を招き入れることを渋ったが、一言囁いてやると、するりと滑り込む体を言葉で牽制するのを止めた。

「セルジオ様、先日のお茶会のことで確認したいことがあります」

 手短に、と身振りで示したセルジオは、厄介な物事を少しでも快適に片付けようとするときのように、柔らかな背もたれの椅子に深く腰掛けた。

「セルジオ様は、お茶会にいらっしゃいましたか?」

 彼の首は横に振られた。

「お茶会の三日前の夜、私とカルナウフ様が親しくしていることはお話ししましたわよね?」

 ちょっと思い出すように眉を寄せてから、やはり首は横に動く。

「そして私は、カルナウフ様の友人であるセレーニ様もお招きするつもりだと」

「君は、さっきから何を言っているんだ!」

 私と同じ茶会の記憶を持たないのならば、彼が怒るのも当然だ。少々抜けているとさえ言える素直さを持つ彼のこと、今見せている怒りもまた裏の無いものに見えた。

「……君がさっき言っていたことと関係あるのか?」

 今度はこちらが尋ねる番だと、険しい顔で迫る。気迫を込めた凛々しい表情がセルジオの整った顔を、冷たくも王者の風格を持つに相応しい造形にして仕上げていた。まだ十七の瑞々しい威風を真正面から受け止める。こういう時、“カメリア”として教育を受けた時間があってよかったと思う。心を折らずに、頷くことができるのだから。

「私は、あなたの秘密を知っています」

 さっき囁いたように。

「あなたの心が私ではない方の元にあることを知っています」

 それは勘違いだ。多分、そう動こうとしたのだろう彼の唇は、化け物を目の前にしているかのように揺らいでいた。震えを制し、ようやく動こうとしたそれを制する。

「どうぞ何も申し上げないでください。心に別の方を思い浮かべながら、嘘をついて欲しくないのです」

 セルジオの表情から力が抜けた。諦観とも安堵ともつかぬ、しんとした気色は、しかしやはり私への愛情を内包するものではなかった。

「そしてどうか、その方のお名前を決して口になさらないでください。不安に駆られ、彼女とは何の関係もないのだと言葉にしたくなることもあるでしょう。彼女のことを疑っているのなら誤解であると、私をいさめて安心なさりたい日もあるかもしれません。けれど、あなたがその名を口にし、私が思うあなたの心の在り処と一致してしまったとき、私の疑いとあなたの秘密は完全に重なり、形を得てしまいます。不安定な状態よりも、むしろその方が恐ろしいのです」

 最も恐ろしい物事を避けなければならない。そのために、私たちは協力しなければならない。

 さとす気持ちで音に変えた訴えが、どれくらいセルジオに響いたかは分からない。幸いにも、セルジオは今度こそ首を縦に振ってくれた。

 だがその心がひどい誘惑に駆られていることが分かる。ベルタの名前を出して、私の疑心の先がベルタなのかそうではないのか、確かめたくて仕方がないのだろう。確かめるも疑心もなにも、私にはベルタであるという確証があるのだけれど。しかしそれを教えるわけにはいかない。

「私とその方との間で、ご自分をどうされるのかはセルジオ様自身でお決めください」

 そっと手のひらで突き放す時の言い方で一礼し、退室する。セルジオは呼び止めなかった。

 窓の外で雨は止み、落ちてきそうなほど重苦しい灰色の雲の隙間から、細い光が地に伸びている。蜘蛛の糸ほどに頼りないそれは、夕日の色に景色を照り映えさえている。確かに、地上まで届いているのだ。

 冷え切っていた指先が震え、腹が鳴る。夕食まではまだ時間があるだろうか。私室に控えていた少女を調理場に遣ると、間もなく少しばかり難しい顔をして帰ってきた。

「恐れ入ります、カメリア様。夕食まではまだ時間がかかるようなのですが、あいにく、軽く口にできるものも切らしてしまっているとのことでした」

 間が悪い日もあるだろう。何かちょっと甘いものでもあれば、いくらか気分も腹も紛れたかもしれないけれど。この少女は、特に菓子の味を引き立てる良いお茶を淹れるので、猶更惜しい。

「勿体ないお言葉です。ええ、私も、先日のお茶会の菓子くらい残っていないかと確認したのですが、台所と洗い場の女中たちのまかないにしてしまったと……」

 料理長の判断でそうなってしまったのならば、仕方がない。調理場で唯一の上級使用人である彼女の領域は、例え主人である陛下でさえもそう簡単に侵すことはできない、屋敷でも特異な空間だ。うっかり機嫌を損ね、未熟な台所女中に使用人たちの賄いを用意させでもしたら、使用人たちの胃と士気に多大な影響を与えてしまうことになる。

「じゃあ、お茶だけお願いするわ」

 少女を一度下がらせ、足音が遠ざかるのを確認し、私は机の引き出しに手をかけた。

 思い出したのだ。さっき少女が口にした賄いの菓子――先日、食べきれずに残ったそれらを、私はこっそり自分で食べる分だけ紙に包んで隠しておいたのだ。王太子妃に似つかわしくないこの行いは、あまりの美味しさに余らせてしまうのが勿体無くて、密かに慎重に起こした行動だった。

 本来の“カメリア”ならば、決してしない行いだ。

『物語』の筋から考えればあり得ないはずのそれは、そこにあった。油しみでまだらに変色した紙の中に、あの日テーブルに並んでいた菓子のいくつか包まれていたのだ。

「……私の記憶は、間違いじゃないわ」

 例えソフィーが、セルジオが、物語としてあるべき茶会を記憶していても、私があの日過ごした結果はこうして目の前にある。『私のお茶会』は、確かに存在したに違いないのだ。

「けれど、そうだとしたらあの刺繍は……?」

 仮に『小説の登場人物』の記憶が私のものと異なっていたとして、作りかけの刺繍がさらに中途半端になって残っているのは、どういうことだろう。

 人の記憶を、例えば魔法のようなもので書き換えたとして、あんな風に刺繍だけ残るのだろうか。あるべき物語に戻そうとしているならば、刺繍や菓子が残っていることの説明がつかない。

 再び菓子を隠すと入れ違いに戻ってきた小間使いが温かいお茶を差し出す。普段よりいくらか甘い香りが強いようだ。尋ねてみれば、空腹感が少しでも紛れるように考えてのことだそうだ。気遣いに感謝を告げ、優しさにより入れられたものが体を満たしていくのを、静かに待つ。

 混乱と戸惑いは解けない。しかし思考しようとしている自分を確かに感じた。考えられる可能性のいくつか、それを打開するには何をするべきか。

 私はあともう一人、いや、二人に会って確かめなければならない。一体、私の身に何が起ころうとしているのかを。

「夕飯まで手紙を書きます。食事の時間になったらまた来るように」

 一番上等の封筒に香り付けの薬用水を振りかけ、インクを浸したペンを便箋に走らせる。書くべき内容は少なかったが、何度もペン先が紙に引っかかりひどく慌てて書いた風になってしまった。書き直そうか考えて、案外これでいいのかもしれないと思い直す。心を尽くした無疵の文面よりも読む者の心に訴える可能性がある。

(……どれくらい響くは未知数だけれども)

 未知――それは、私にとって? ひょっとして、『小説』にとっても?

 心に浮かんだ不安の言葉は、次の瞬間新しい可能性を示すしるべに変わる。

 どうして気付かなかったのだろう。いや、だが、まだだ。この標の先にあるものが、私の憶測と同じなのか確かめなければならない。

 融かした蝋で封をしながら、宛先人とは別の、会うべき人の顔を思い浮かべる。癖毛を逆立てて怒り、私を追い返したあの顔。性懲りもなく私が彼女の元を訪れたら、同じ表情をするのだろうか。

 その答えを、私は翌日には知ることになる。

「二度と来るなって言っただろ!?」

 表情こそ記憶とたがわないが、一息で済むほどの怒鳴り声は、昨日よりもいっそう苛烈だった。くるくの赤毛が、文字通り怒りで天を衝くべく真っ直ぐになるのではないかと思うほどである。彼女の怒りをひと際鋭く激しく感じるのは、手元の鋏のせいでもあるかもしれない。

 無論、ただ彼女の怒りを煽り、怒鳴られるために昨日の今日で薬草園にやって来たわけではない。

「どうしても、あなたに確かめなければならないことがあるのです!」

「あたしには、ない!」

 勢いよく顔を背け、ソフィーは目の前の小さな茂みに注意を戻す。鮮やかな赤毛の陰に、色を失い干からびた花の名残りが見えた。

「剪定もカルナウフ様が?」

「学園に任せていたら、来年咲く花も咲かなくなっちまうよ。植えて、そこに収まってりゃいいってもんじゃないのにさ」

 ちょっきんと一つ刃が鳴るたびに花がらが摘まれていく。なめらかな手付きを沈黙と共に見守った。自分の仕事に集中することにしたソフィーは、同時に私を追い出すのではなく無視することに決めたようだ。

 彼女に確かめなければならないことがあるのに、私は自ら沈黙を破ることを恐れた。私たちを隔てる柔らかな隔たりは、破り方を間違えてしまえば取り返しがつかなくなってしまう。

「……なあ、女王だって、その地位についてそれで終わりじゃないだろ?」

 ソフィーは笑うことを忘れてしまったかのような険しい表情で振り返る。手のひらの花がらが差し出された。

「この木は小さいが毎年花をつける。けれど、来年の花芽は今年の花が枯れてすぐに作られ始めるんだ。学園がこの薬草園の剪定を行うのは半年に一度、次は暑い盛りが過ぎてからだ」

「つまり、あなたが先んじて剪定を済ませておかなければ、花がらと一緒に若い花芽も摘まれてしまうということですね」

 顔つきを変えずソフィーは頷く。手の中の褪せた花が形を崩して落ちた。

「人にも花にも、最も相応しいやり方っていうのがあるってことだな。あんただって……一国の女王だって同じだろう? 女王として相応しいやり方っていうのがあるんじゃないか?」

 ソフィーが言葉を選んでいるのが分かった。怒りは冷静に変わり、ベルタが受けた仕打ちが自らに降りかかる可能性をどれだけ低めながら私を非難できるか、彼女の脳は粛々と計算しているのだ。

おっしゃるとおりですわ」

 肯定が虚しい。何を言っても、今のソフィーが見た『ベルタを貶めるカメリア』の記憶が変わるはずはないのに。

「私とカルナウフ様が過ごした時間が、更にあなたの怒りを強めていることも、分かっているつもりです」

 虚しくも悔しくもあるけれど、私は目的を忘れてはいなかった。今日、ソフィーに会いに来たのは確認のためなのだ。

 私とソフィー、それぞれが持つ記憶がどこまで重なっていて、どこからずれているのか。鋏を革製のケースに仕舞いながら、眉間に薄く皴を作って自らの内を探っているソフィーの言葉を待った。

「そうだな、確かに、そうかもしれない」

 確かめるように小さく頭を傾げるソフィーの肯定が、私の予想を確信に変える。小柄な体から後光が射しているかのように、私は目を細めた。

「あんたと話すのは嫌じゃなかったって、前も言ったっけ? あたしは、あたしが扱いにくい人間だってことくらいは知ってる。それは、未来の女王であるあんたにとっても同じなのに、あんたはむしろ遠慮なしで色々話しかけてきて」

「遠慮がなかったのは、お互い様ではないですか」

「おっと、そうだったかな」

 赤毛の眉間がゆるむ。

「まあ、なんだ。あんたのこと面白いやつだなって思ってたよ」

「期待して、くださっていたのですね」

 ソフィーが目を見開く。まるで新種の花の開花を見届けたように、驚きを隠さない視線で私を見つめ、「期待」と小さく繰り返し、それが自分の中に確かに根付いているのか確認しているようだった。

「ああ、そういうやつが女王になったら、もっと面白いんじゃないかって思ってたんだ。あたしは」

 期待していた相手だからこそ、ベルタにお茶を引っ掛けるなどという行動が許せなかったのではないか。私の考えは決して外れではなかったらしい。

「私だって、カルナウフ様のことは面白い方だと思っていましてよ」

「あたしを? 自分で言うのもなんだけど、面白いじゃなく扱いにくいの間違いじゃないか?ほとんどの連中は『カルナウフ』の名前に惹かれて近づいてきて、あたしを手に負えなくて勝手に悪態ついて離れていくんだ」

「扱いにくいのではなく、優先する順番が異なるだけです。カルナウフ様は常にご家業と扱う薬種のこと、そして材料であり人々に恵みをもたらす植物のことを第一に考えていらっしゃるのです。それに気付けない人が、ただ多いというだけなのですわ」

「あんた……」

 言葉を探す気配があった。唇が薄く開いて、閉じて、もう少し大きく開いて。ソフィーはきょろりと目も動かし、顔にあるものを総動員して探しつくしたようだが、結局長い吐息が漏れただけだった。

「ええ、そうです。私は最初からそうでしたわ。覚えておいででしょう? あの日、薬草園でこっそり木を抜こうと、あまつさえ持って帰ってしまおうとしていたカルナウフ様を見て、私は咎めこそしましたが、離れはしなかったではないですか」

 やっとの思いで笑顔を作る。目尻はきちんと下がっているだろうか、眉間に皺はできていないだろうか、口の端はそろって上を向いているだろうか。表情の一つ一つが、不穏な釣り合いの中に成り立っていた。

 ソフィーが何と応じるか。答え次第で均衡は容易く崩れてしまう。

「そういえば、そんなこともあったな。あんた結局、私が木を引っこ抜こうとしてたこと、教師には告げ口しなかったみたいだな」

「!」

 希望が目の前を照らした。大袈裟ではない。ソフィーが初対面の時に交わした会話を覚えている事実が、暗雲垂れ込める私の足元に、一筋の道を見出させたのだ。

「あの時抜こうとしていたのは、鳥の羽のように細長い葉の木でしたね」

「そうだな」

「葉がひらひら翻って、白く見えたり緑に見えたり」

「ああ、うん。あの木ももう少し育つと全体的に緑になるんだ。まだ若いからそういう風にみえるけど」

「あなたは木の根元を掴んで」

「……なあ」

「私は」

「あんたは“今、何をしようとしていたのですか”って叫んだ」

 ソフィーの目がゆっくりと細くなる。問うというよりさぐる強引さを持った視線が、私をまさぐるようだ。

「さっきから何なんだ? 何か隠しているのか?」

 それも飛び切りおかしくて面白いことを隠しているのだろう。そうに違いない。素直になり給え。細いままの眼差しがソフィーの言葉を継ぐ。

 私は吹き出すように笑ってしまった。面白いなんて、とんでもない。もっとも、暗闇の中の綱渡りを面白く愉快だと言うならばそれまでだが。

「カルナウフ様、私の道行きを照らしてくださり、ありがとうございます」

「はあ?」

 人を値踏みするような、こまっしゃくれた顔をするのが得意な顔が、生まれて初めてするかのような、ぎこちない表情を形作る。驚くのでもなく、戸惑うのでもなく、拒絶するでもなく。見つけられない答えを求める子供を思わせる、あどけなさがあった。

「あなた、そういう顔も可愛らしく見えますわ」

「おい、話を……」

「それから、もう関わらないでほしいなんて、どうか言わないでくださいませ」

 ソフィーの質問には、答えることができない。教えることができない。言ったとして信じてもらえるはずなどない。だからそれ以上は言ってくれるなと、ただ晴れやかに笑って見せた。

「私は間違いなく、あなたに友情を感じていますし、そのために関係を断つなど、ってのほかに思っているのですから」

「聞く気ないな、あんた!」

「またお花のこと、お話し致しましょうね」

 それでは、どうぞごきげんよう! スカートを摘まんで走り出した私を呼び止める声はなく、ただ盛大な溜息だけが聞こえた。ひょっとしたら文句の一つも追加されていたかもしれないけれど、聞こえなかったものは聞こえなかったのだ。

 さあ今度は、昨日の手紙の受取人に合わなければ。ソフィーの様子で仮説に確信を得た今、迷うことはもうない。


 迷うことはないが――しかし、一人に送った手紙に、二人の人物が応じるとは予想外だった。待ち合わせに指示した、あの日、一方的な叙勲式が行われた場所には、ロベルトともう一人、髪をきりっと結い上げた少女が仁王立ちで待ち構えていたのだ。

「あの、こちらは……」

「アニス・エルメンラインでございます、カメリア様」

 軽やかに膝を折る小柄な彼女を、兄のために頭を下げた殊勝な少女を、忘れるはずがない。頭を上げたアニスは、すっきりとした目元に静かな怒りを宿しているように見えた。それも、見つめる先の私ではなく、彼女の背後であくびをしている兄・ロベルトに対してだ。

「あのー、なんかついて行くって聞かなくて」

「当たり前でしょ! わざわざ手紙で呼び出されるなんて、今度は何したのよ! どうせまた失礼なことしたんでしょ!?」

 ロベルトが鳩尾を抱えて背を丸くする。綺麗な肘打ちが食い込んだのだ。騎士の家系の淑女らしい、しなやかな身のこなしを連想させる、素晴らしい打ち込みだった。個人的にロベルトに思うところがあれば、賞賛の一つも言うべきなのだろうけれど、

「アニス様、私、お兄様にお願いがあってお呼びしたんですの」

「ええ、何を止めさせればよろしいでしょうか?」

「そうではなく、お力添えをお願いしたいのですわ」

 アニスは、私が何を言ったのか理解に苦しむような素振りを見せる。今度はロベルトがごく優しく妹を小突いた。その感触にはっとなったアニスが、自分の勘違いを謝りに謝り倒し始める。

「私も、勘違いをさせてしまう書き方をしてしまったかもしれません。どうか、あまりお気になさらず」

 むしろ、二人まとめて協力者になってくれれば御の字である。その旨を伝え、私は本題を切り出した。

「私、先日ロベルト様が仰っていたことを、あの後も考えておりましたの。曾祖父であるバンスが置き去りにしてしまった人々のことを」

 アニスの顔つきが厳しくなる。それはやはり兄に向けられていた。過去を蒸し返そうとした兄を咎めるための目つきに、アニスは彼女なりに今の在り方を受け入れているのだと理解した。

「アニス様のお考えは分かります。しかし、私は彼らをそのままにして、国が歩んでいくことを望みません。そして、気付かせてくださったお兄様には、本当に感謝しているのですよ」

「まあ……勿体ないお言葉ですわ」

「なんでお前が答えるんだよ」

 アニスはもう一度物理的に兄を黙らせようとしたが、今度はかわされる。さっきの一撃を受けたのはわざとだったのか。そんなことを思わせる身のこなしだった。

「それで、一体何をさせようって?」

「教えてほしいのです、一人残らず」

 まずはエルメンライン家のようにバンスと共にあった家系の生徒たち、次にその中でも、ロベルトのように反感を少なからず抱いている者。

「いえ、どんなにささやかな反感や不満でも構いません。それを隠し持っているだろうと、あなたが感じる方を教えてほしいのです」

 ロベルトの顔つきが変わる。まるで、不出来な生徒を品定めする教師のように遠慮がない。

「置き去りにしないと言ったが、どうやって? 将来の反乱分子として捕えないという保障がない」

 そんなことのために旧い付き合いの人々を差し出すつもりはないと、厳しい目つきは揺るがない。

「全てはセルジオ様のためです。いずれ訪れるセルジオ様の御代が、より多くの人々に祝福されるよう、玉座に並ぶ者としてできる限りのことをしたいのです」

 こういう時、自分のためだと言えた方が信憑性は増すだろう。言ってしまえば、自分の卑しい部分をさらけ出してまで達成すべき目的があることが明らかであるし、何より人間は自分自身を裏切らない。決して捨てられないものを理由に提示すれば、多少の無茶でもいくらか通る。

 けれど、私に限ってはそうするわけにはいかない。「このままでは、この世界を形作る物語に殺されてしまう」と、馬鹿正直に話すわけにはいかないのだ。エルメンラインの兄妹もまた『物語』の一部なのだから。

 ひょっとしたら、愚かにも『物語』にすり潰される恐怖を訴えれば、私は頭のおかしくなった気の毒な王太子妃として別の物語を歩んでいたかもしれないが、その可能性に気付くのはずっと後のことで、渋り顔を崩さないロベルトの了承を待っている私には、思いつきもしない選択だった。

「……全員が全員、俺のような連中ではない」

 思い悩む顔が、横に振られる。

「つまり、俺は女王となったあんたを唯一の主人として仰ぎ、仕えられれば爺さんたちのはなむけになると思っている程度のヤツさ。けれど、中にはセルジオを引きずり落とし、あんたが王もなく女王もなく、ただ一人の国の頂点になるべきだと思っている連中もいるんだ」

「だからあなたは、いつもセルジオ様の近くにいらっしゃるのですね」

 時にはひょうきんに道化の真似をして、時には女生徒に囲まれた茶会の客として、ロベルト自身の内心を決して悟られないようにしながら。

「恩を売ろうとか、そういうつもりじゃないが。今また揉めたら、バンス・ヴァーチェと共に流された血が無駄になるからな」

「血……」

 つまり、それがまた流れる可能性をも視野に入れているということか。尚更、行動を起こす意味があるというものだ。けれど、ロベルトはまだ迷っているように見える。

「あの、カメリア様」

 黙って私たちのやり取りを見ていたアニスが沈黙を破った。

「バンス・ヴァーチェに従った者の子孫には、機会に恵まれず、騎士の地位を離れた者もいます。裕福な商家に嫁ぎ、血脈こそ細々と残しながらも、既に名が失われた家柄も」

「おい」

「止めないで、兄さん。兄さんだって、そういう人たちのことを気にしていたではないですか」

「だからって、そういうヤツまで数えていくと、本当にどうしようもない数になるだろ」

 故に、全ての者に再び光を当てるなど無理な話だと、ロベルトはそう言いたいようだ。けれど、私はといえば、アニスが先に見立てた通り、どんな無茶なことでもやるつもりでいる。

 それこそ、生命をかけて挑もうという決意である。それだけの価値があると信じているが、あなたたち兄妹はどうか。

 尋ねれば、ついにロベルトは実に渋々と、協力に同意した。それでもまだ状況を受け入れかねると言うように頭を乱暴に書くと、片手に収まるほどの紙片に崩れた字で二つの名を書き付けた。

「これは?」

 差し出されたそれを受け取りながら、見覚えのない名前を黙読する。

「アニス(こいつ)が言った、騎士としての名を失った家の忘れ形見さ。この二人とはたまに連絡を取り合っている。個人的な希望で申し訳ないが、労ってくれるというならば、どうかこの二人を一番に選んでほしい」

 ロベルトは彼らしくなく素直な頭の下げ方をした。傍らの妹も兄にならう。

「約束致します。必ず、必ず彼らに手紙を書きますわ。ええ、今日、これからすぐにでも」

 私は胸元で紙片を握りしめる。

 この頼りない紙切れが、次の希望に繋がると信じ、熱を失わないうちに二通の手紙を書き上げた。

 一晩おいて言葉遣いを確認し、改めて封をする。果たして、無事に届き返事をもらえるだろうか。もし、このやり取りにまで『物語』の力が作用すれば、私は再び道を見失ってしまうことになる。時間ばかりが経ち、物事の結果が分からない状態は、私の食欲や睡眠欲というものにずいぶんな影響を与えた。

 落ち着かない気持ちのあまり、更にエルメンライン家の兄妹に手紙を送り付けてしまったほどだ。二人からは翌日に、学園で会うのだから直接声をかけてくれればいいのにと、不思議な顔をされてしまったこともあったが、それから半月も過ぎた頃、

「カメリア様、お手紙が届いております」

 と、小間使いが銀の盆に載せた封筒を運んできたのだ。

 手に馴染まない紙の繊維の感触に、手紙の主の質素な生活を感じ取る。送り主は、ロベルトに頼まれた二人のうちの一人だった。

 間違いなく、私の手紙は配達された。しかし、開封するまでは安心できない。そこに書かれた返答を読むまでは。心臓が速く、苦しい。

「ありがとう、少し一人にしてちょうだい」

 何も聞かずに出ていく小間使いは、この胸の音を聞いただろうか。右手で胸に触れると、骨の中から響いているとは思えないほど、力強い拍動が伝わってきた。なんてひどい。ヴァーチェ家に輿入れした時より、よほど緊張しているではないか。試みに少し笑ってみたが、どうにも治まらない。

 私は観念して封を破った。

 当たり障りのない挨拶に、まず白紙ではなかったことに安堵する。形だけ手紙の何かが送られてきたわけではなかった。

 次に季節の挨拶、それから突然の手紙への驚きが綴られていた。大きさの揃った文字は、カーブの部分に力が入っていて、書いた者の緊張が伝わってくる。

 手紙の主は、現状にある程度満足していること、祖先の活躍を改めて認められたことは誇らしく、大変な名誉に感じていることをあくまでも冷静に記していた。最後に短い別れの挨拶と、王国と私への賛美が綴られて手紙は終わった。心臓はまだうるさい。もう一度、最初の宛名から差出人まで目を通し、今度は逆に差出人から逆に読んでいく。

 一度封筒に戻して、もう一度取り出して、文字が消えていないことを確認した。

「神様……女神ベルタ、ありがとうございます……!」

 消えることもなく、書き換えられることもない手紙のやり取りができた。それは私の膝から力を奪い、床にぬかづき感謝をさせるほど、意味のある成功を意味していた。

 セルジオやソフィーに見られた記憶の改変、彼らとのやり取りから私が考えたのは、『小説の盲点』の存在だった。

 いくら『物語の世界』があっても、『小説』に描かれるのはその全てではない。

 カメリア転入の初日、ベルタが落ち着かない一日を過ごしたとしても、放課後カメリアがどう過ごしているのかは、必要のない描写である。

 お茶会を通じて知り合ったベルタから刺繍を習った事実が消されたとして、その日の晩、カメリアがどのように過ごしたか、そんなことまで描かれる必要はない。

 現に、私はそれらの時間にカメリアがどのように過ごしていたか『ヴァーチェ王国の救聖女』では読んだ記憶がないのだ。

 しかし、それらの時間は存在する。どうして存在しているのか。私の推測は、描かれない『小説の余白』として存在しているということだった。

 そうでなければ、周囲の人々の記憶は改ざんされているのに、隠していた菓子や、作りかけの刺繍が残っていることが説明できない。世界そのものが『物語』として上書きされているなら、消えていなければならないはずだ。けれど、それらは未だに私の手元にある。『物語』の干渉を免れた、目に見える証として。

 今回の手紙のやり取りの一番の目的は、仮設を確かめることだった。セルジオにもベルタにも関係ない余白の時間に属するものならば、『物語』による改ざんを受けないのではないか。推測は、返された手紙によって肯定された。

「このまま、続けていけば……」

 小説が小説である故に生じる空白部分、私の意思が唯一通じるそれを、私は極限まで利用していなかければならない。カメリアを死に導く『小説の描写』に抵抗できる、最後にして最大の武器なのだから。


 * * *


 妹に二杯と二皿をおごった日から、私は重い頭を抱え、しくしく悩む毎日を送っていた。

 良い表現を思いつけば使いたいし、面白いキャラクターができたら登場させたい。これはと思えるシーンが浮かべば、本編から少しくらい逸れても差し挟んでおきたい。私はそうやって書いてきた。文字数の増加を得点に見立て、にんまりしては、また続きを書いた。

 自分のやり方に疑問など抱いてこなかった私にとって、「書かない方がいい」というのは、ひどく衝撃的な手法の提示だった。

 残業をこなし、値下げのシールが貼られたお惣菜を掻き込んで、空腹は満たされながらも、鈍い頭はぐずぐずしている。夜が週末に向かって更けてゆく。その速さに置いて行かれた私は、平日の疲労に足を取られ、私の部屋にたった一つの贅沢な家具である、大きなビーズクッションに体を投げ出す。

 窓の向こうから車のエンジン音が近づき遠ざかり、聞こえなくなって、静けさが耳に沁みる。こういう時は何となく、実家のテレビを思い出す。バックグラウンドミュージック代わりにつかられていたそれは、無感情なエンジンとは異なり、常に媚びへつらっていた。どうすれば、できるだけ長く電源を入れたままにしてもらえるのか、そればかりを気にして次から次へと話題を変えて喋り続ける。ある時は話題のタレントの声で、時にはベテランの司会者の声、それから楽しさを叩きつけるような笑い声を挟んでみたりもして。

 しかし、その話題の多さだけは私も認めるところである。深刻な事故から、明日の弁当のおかずまで、あまりによく喋る。

「今宵、あなたは数奇な運命に翻弄された女性の人生を目撃します」

 なんて妙に自信満々な低い男の声が話せば、私もなぜか強気になって、驚くような人生を見せてみろと、真面目に両目をそろえて画面に向けてしまう。

 不倫が原因で泥沼の半生を歩むことになった女。私は、頬杖をつく。

 宝くじがきっかけで、生活が一変した女。あくびが出た。

 瓶殺しをした女。半開きの目を丸く開き、凝視した。曲がった背中のせいで小さく見える老女が映っていた。真っ白く変色した髪は薄く、しわの浮いた紙みたいな肌の上にかかっている。

 彼女はどこかの田舎で生まれ育たったそうだ。一時は工場が増えそれなりに産業が発展し、人も増え、田舎としての様相を変えたが、今はかつての喧騒も懐かしく、右肩下がりの人口に少しばかり頭を悩ませている――読み上げに合わせて町の映像が流れ、かつて老女の家があった場所などのテロップが時折挟まった。次いで映ったのは、現在の町長だという男だった。

「いや、なんでよ?」

 せめて老女の親族を映すべきではないか。個人的な要望を言えば、さっさと瓶殺しが何なのか知りたい。コマーシャルが挟まった。口が曲がり、鼻にしわが寄るのを感じる。

 新型の自動車が走る姿を見ながら、瓶を殺すことを考える。何かの比喩か。何故そんなことをしたのか。若き日の老女が瓶専門の殺し屋だったとか、夫と離婚するための演技として殺したのだとか、自由な想像を巡らせながらコマーシャル明けを待った。

 老女へのインタビューを再現したとする映像が始まる。彼女の毎朝の習慣、健康の秘訣、田舎暮らしの、ちょっとしたコツなどを短いシーンの連続でまとめ上げていた。

「……瓶は?」

 老女が空の瓶を片手に笑う姿が映る。本題が進展しそうな気配を感じ、私は腕を組んで深く頷いた。そうそう、それでいいのだ。たっぷり間を置いてから、花瓶に向いている瓶の形について、懇切丁寧な説明が始まった。

「え?」

 口がすぼんでいるものの方が初心者向けだそうだ。瓶は未だ死なない。

 空き瓶を花瓶に仕立てるようになったのは、老女が少女だった時分からだと言う。どこにでもいる、特別なところは何もない少女の、隣の家では一羽の文鳥が飼われていた。

「……その文鳥にそそのかされ、私は初めての瓶殺しに手を染めました」

 深刻な口ぶりだ。皺だらけの皮膚が重力のままに落ちて、目元に影を作り、泣き出しそうに見せる。振り絞るような話し方で、彼女は文鳥がインドネシア原産のスズメ目カエデチョウ科の鳥であると続けた。野生としては絶滅危惧種だが、愛玩目的で世界中に広まり定着しつつあるという、二面性があるのだそうだ。

「どうでもいいよ」

 瓶だよ。せめて瓶に絡めて鳥を語れよ。灰色に淡く桃色のかかった腹も、特徴的な鮮紅色の嘴も、殺しをそそのかす要因には思えなかった。

「鳥は、もう、どうでもいいよ」

 老女の首が旋回し、私たちは画面越しに見つめ合った、色のない唇が開き、擦れて小さくなった歯が覗く。

「あなたそんなこと言っていると鳴きますよ。ほうら、飛んできました」

 小さな小鳥が飛んできて、老人の薄い肩に止まる。刺々しい黄色のくちばしが開いて――ジリリ! ジリリ! ジリリ!

 びっくりするほど不快な鳴き声にひっくり返りそうになった私は、クッションから転げ落ち、フローリングに肩をついた姿勢で目を覚ました。

 目覚ましのアラームを切って、目をこする。

 週末が始まる。

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