第5話 コーヒー・アンド・ミルク

「確かにあいつは、菓子を二枚ずつ食ってたけれど!」

 薬草園で待ち構えていたソフィーは、開口一番に叫んだ。

「だからってあんなこと、していいと思ってるのかよ!?」

 薄い肩を怒らせ、指が白くなるほど拳を握りしめている。何を怒っているのか分からない、だが痛ましいのでどうか拳を解いてほしいと訴えると、ソフィーは力を抜いた。失望を露わに言葉を探る唇を歪ませ、つり上がっていた目をぐりんと見開き八の字を寄せる力の抜き方だった。

「……ベルタに茶の一杯も浴びせるのは、あんたには記憶に残るほどのことでもないって意味か、なあ」

 信じられないと、低く呟くソフィー。だが、それは私の科白だ。

「待ってください、それは先日の茶会のことでしょうか。私、そんなことしていません」

 確かに、終始和やかに友情を深めたとは言い難いけれど、お茶を浴びせ辱めるなんて誓ってしていない。一緒にいたソフィーこそが証人ではないか。両手を組み、祈る気持ちで見つめるが、返ってきたのは首を横に振り、眉間の皺をいっそう深くする苦々しい表情だった。

「正直、ベルタが茶会に呼ばれたときは嬉しかった。セレーニの家名ばかり気にして、ベルタ本人を見ない奴らばっかりで、あいつはいつも息苦しかったに違いないから……あんたが招いたとなれば、少し、学園での立場もよくなるんじゃないかって」

 ソフィーがまっすぐに私を見つめる。そこにはもう苦渋の色はなく、意志と拒絶だけがあった。

「もう、あたしとベルタには関わらないでくれ。いや、ベルタだけでも放っておいてくれ。やっと、苦労してきたものが報われるかもしれないんだ。……家の名前を出すのは好きじゃないが、ソフィー・カルナウフとして、頼む。もし、あんたがあたしに友情を感じているのなら……」

 灰色の昼過ぎの空気が、耳の奥で不協和音になる。私は逃げるように背を向けた。


 * * *


 名前として『純喫茶』をわざわざ掲げるそこは、いつも空席が目立つ。流行を外れたアンティークな装いよりも、入り口の二重扉が原因だろう。

 深い色の木製のドアには、ちょうど目線の位置に色付きガラスが嵌まっているのに、むしろそれは店内を見通すのを邪魔していた。モノトーンに映るガラス越しの景色は、陽を遮る木立の奥を覗きこんだようで、店長のこだわりによって置かれているひじ掛けが丸く膨らんだソファーや、油で磨かれたつやつやした猫足の棚、異界のヒトヨタケのような形の間接照明といったものの輪郭をあいまいに、影の中に隠してしまう。惹かれて踏み入れる客よりも、足をすくませる客の方が多いに違いない。

 その店の中の、小さな丸窓から光が射し、半分陰になった席に待ち人はいた。

「やっほー」

 ゆるやかなボサノヴァのリズムで手を振る彼女は、記憶よりわずかに痩せて見せた。小さなテーブルを挟んで差し向かうと、髪を切ったことまでよく分かった。

「あら、私のも頼んどいてくれたの?」

 テーブルの上に、汗をかいたグラスが二つ。ストローが氷に支えられて不安定に突き出していた。

「んーん、どっちにしようか決められなくて両方頼んだ」

 グラスの中身はそれぞれ半分ほど減っている。

「でも飲んでみたら、どっちもなんかちょっと違うなって」

「人のおごりだと思って……」

「あ、残り飲んでもいいよ」

「……」

 おまたせしましたぁ。涼しい顔の店員が、我関せずと皿を置いた。やはり二皿だった。待ち人は皿の底がテーブルに接するが早いかフォークを手に取り、二つのケーキを一口ずつ貪って、微妙な表情を作る。

「なんなの、この妹……」

「大丈夫? おねーちゃん、疲れてる?」

 勿論、彼女も知っての通りである。勤め人としての生活をしながら、土日を執筆に費やす毎日だ。常に何かやることがある。最近は、寝付けずぼんやりとスマートフォンを眺めている時間が惜しく、眠れないと文章に向かってしまう。気絶するように眠る日々が当たり前になりつつあった。

「えー、でも好きなことで忙しいなら最高じゃん」

「学生の忙しさとは違うもの」

「それはそうだ」

「珍しく物分かりがいい」

「そこまで珍しくもない」

 そんなわけがない。一度、登場人物の衣服に触れた時などは、モチーフになっている時代はいつ頃なのか、ならば時代と衣装の流行が全く合わない、髪型も変えるべきだと、彼女の言葉を借りれば「ありがたい沢山のアドバイス」をしてくれたものだ。そんな彼女に、「この作品は近世前後の西洋文化を借りたフィクションである」と真正面から何度も唱えて、狂気から解放したことは記憶に新しい。

 そんな妹が、「今度色々言う」と宣言したのだ。

「あ、そうだ。書籍化、おめでとうございます」

 形だけ深々と頭を下げ、両手の指先をテーブルに揃えて述べる祝いは、助走である。狂気の暴走ではなく、今日ここで出会うまでに考えに考え、練りに練った、理性と平静によって編まれた言葉が走り出すための前さばきに過ぎない。

「そんで、誤字脱字のチェックしながら先に一通り読んだんだけどさ」

 そら来た。身内という、時に手心を全く加えない読者によるご意見が。

「書き足しすぎてない?」

「え、あ、そう?」

 私はてっきり、ただの趣味だったものが認められた自信や自尊心を粉々にする批判が飛んでくるのだと思っていた。それくらい身構えていたところに飛んできた予想外の一打だった。

「いや、まあページ数の関係とかもあるんだろうけどさ、例えばここの……」

 示された部分は、間違いなく書き足した部分だった。

「そんなに変? 話の筋に関係ない描写ではないと思うんだけど」

「そりゃ前後を考えたら、“そうか、そういうことだったのか”って分かるけど、それが一々挟まってくるから……」

 口ごもり、思考し、ケーキをきっかり半分だけ食べる。

「何だろ、なんか普通になっちゃうんだよね」

「普通」

 おうむ返しにしてみても、妹の言を理解しかねた。そうだろうか、と首を傾げる疑問のほうが大きい。ベルタの物語の裏には、カメリアの思考や行動により起こされる別の物語があるわけで、それを垣間見せることは、いけないのだろうか。

「分かるには分かるんだよ、キャラクターなりに理由とか思考とかがあるわけだし。書いてあれば、“あー、お姉ちゃんこういうこと考えて書いたんだろうなー”ってなるし」

「キャラクターを使って私の頭を読まないでよね」

「……あ、そっか、だから普通なんだ」

 残されていたケーキの半分を消しながら、妹は頷いた。

「例えばさ、悪いことするぞー、それはこういう理由だぞーって言っても、その根っこにあるのが、お姉ちゃんの考える悪の基準なんだよね。んで、周囲に基本的に善人しかいないから、どっちかといえば悪いよねーみたいな悪役になっちゃってんの」

「別に、私を反映したキャラクターってわけじゃ……」

「ならば、尚のことカメリアのことなんか書かなくていいよ。書けば書くほど、悪役令嬢・カメリアじゃなくて、“比較的”悪役令嬢・カメリアになっちゃうもん。あ、何も書かなければ“ミステリアス”悪役令嬢になれるんじゃない? 少なくとも、こいつ何考えてるんだろーみたいな怖さは出そう」

 何それ。言おうとして口をつぐんだ。妹はいくらかおどけた口調で指摘したけれど、私にとっては、とても同じ気分で受け止められるものではなかった。

 半分ずつ減ったグラスを見比べる。これが、妹の基準として。

 私だったらどうだろう。さんざん悩んだ挙句、手を付けた方がまずくても、肩を落として飲み切ってしまうのではないだろうか。それが私の基準だ。

「どうせ書くなら、ベルタのことをもっと書く方がいいんじゃない?」

「例えば?」

「まずエッチなシーンを入れて」

「すみません。注文お願いします」

 一つ向こうの通路に水差しをもって歩いていた店員を呼び止める。

「でねでね、カメリアの遺児とベルタの子供が……」

「この季節のタルトを一つ」

「異母兄弟として対立するの!」

「待って妹ちゃん、その構図は」

「そう、さながらメアリー一世とエリザベス!」

 頬がひきつる。

「爆誕させようよ! スペイン領イギリス! メアリ一世ならできた、はず!」

「ねえ、もしかしてまだトンデモ歴史小説書かせるつもりでいる?」

「だって、スペイン系イギリス王室だよ?」

「だから何よ」

「お姉ちゃんは見たくないの!? スペイン=イギリス連合王国だよ!? そんな人だとは思わなかったよ!」

「私は夏の新作映画のほうが見たいよ」

 世の中のどれくらいの人がそんなトンチキを見たいのか。私の知る限り、今のところ一人である。よりにもよって、その世界にたった一人の存在が目の前にいるのだけれど。

「ちな、そういうレポート書いて教授と喧嘩したのが、私」

「楽しそうで何より。お姉ちゃん安心」

「レポートぐらい楽しく、思いつくままに書きたい……と思うんだけど、それじゃダメなんだよね。お姉ちゃんの小説と一緒で」

 妹の顔を見据えたまま、残りのケーキにフォークを突き刺す。まっすぐな視線が見返して、ケーキと私の顔とを往復した。

「レポートにするための思考や妄想は、全部私の頭の中で組み立てられて完成してるんだけど」

「妄想は資料に置き替えなさいよ」

「でも、教授が私じゃないように、私はお姉ちゃんじゃない。ネットや、これから本を買ってくれる人も、お姉ちゃんじゃない」

 フォークを取り落とすかと思った。辛うじて、心地よい静けさと淡い音楽が絡み合う店内に、無粋な金属音を響かせることはなかったけれど。

「ま、仕方ないけど」

「仕方ないって?」

「そうだな……例えば、お姉ちゃん、自分が城主だと思ってみて。お城の名前は『ヴァーチェ王国の救聖女』」

 まったく配慮に欠けた声量でタイトルを読み上げられ、にわかに背中がざわつく。首から頬が急に熱を持ち苦しいくらいなのに、背中には凍るような汗が一気に浮いた。店内でくつろいでいる客の誰にも、聞かれていないことを願うばかりだ。勿論、店長や店員にも。

「お姉ちゃん城主は、お城がまだ土台だけだった時期も、お城にいるすべての人の経歴も知っているの。使われたレンガの数から、植えられた木の葉っぱの枚数までね」

「……」

「そんなお城に、ある日人がやって来ました。さて、この人は『ヴァーチェ王国の救聖女』城のことをどれくらい知っているでしょうか。……なんて、聞くまでもないよね」

 日の当たらない席の客が、テーブルに肘をついて、スマートフォンの画面に指先を行き来させた。きっかり半分残された二つの哀れなグラスの一つに妹の手が伸びる。やにわに起こった波の下で、氷が音を立てた。

「その時目にできるもののことしか知らないに決まってる。だからお城のことや住んでる人について、城主にとっては当たり前すぎることを、珍しがったり有難がったりするかもしれない。でもこれって、仕方なくない?」

「それなら、私……城主がちゃんと説明すればいいってことでしょう?」

「無理でしょ、全部を伝えるなんて。城で使っている箒の本数から材質まで? 箒の穂先の棕櫚しゅろは何本ですって本当に説明しきるつもり?」

 妹の右手がストローをもてあそんで、グラスの中で小さくなった氷が鳴る。

「そりゃあ、必要なことだけよ。お城のことを知ってもらう上で」

「多分、逆だよ。与えるべきは、お姉ちゃんが必要だと判断したことじゃなくて、客が知りたいと思ったこと」

「そんなの、分かりようがないじゃない」

「そこで想像力だよ、お姉ちゃん」

 おまたせしましたぁ。すました顔の店員が、底に近いほど黒い液体で満ちたグラスと、白磁のポットを置いた。紙製のコースターが、水滴の模様に色を変える。浮かんでいる氷めがけて、小さなポットから乳白色の液体をぶちまける。深い黒鳶色の液体に煙が漂う形で混ざったミルクは、全体をやさしい色に変えた。

「アイスコーヒー・トゥーマッチミルク、ほぼミルク」

 出来上がったものに、妹が名を付けた。砂糖は入れずに飲むのが私流である。

 ストローにかき回されていた氷は、いつの間にか妹の努力により、そういうブロックであるかのように積み上げられていた。いびつな塔の形をしたそれは、乾いた音を立てて崩れた。

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