第3話 パーティー

 ベルタが初めて間近に見たカメリアの印象を、私は知っている。冴え冴えとした知性の色が髪と同じ黒い睫毛の奥に宿るのを、ベルタはほとんど絶望しながら見つめていた。持って生まれた魂を磨き続けた月日の一片を感じさせる瞳は、王者たる者の隣に相応しい。

 なればこそ、カメリアのような女性と結婚したセルジオが、何故あんなことをしたのか。ただの結婚ではない。セルジオ誕生の後、ヴィヴァーチェ家に生まれ落ちたのが女児だと分かった日から国中は分かれたヴァーチェの血脈が一つに戻ることを期待したと聞く。ひょっとしたら、建国以来最も祝福されるべき結婚とさえ言えるかもしれない。仮にセルジオに不満が生じたとして、その原因を想像することはベルタには困難だった。

 けれど、悩める額には確実に彼の感触が残っている。

 いつものように一人、勉強に勤しむうちに眠ってしまった夕焼けの図書館。うつ伏せ瞼を閉じたまま、覚醒と微睡みのあわいを漂っている時、誰かが忍び足で近づいてくる気配があった。朧な意識が嫌な記憶を呼び覚ます。家庭教師をつけてもらえず午後も学校に残っていると、わざわざそれを揶揄するために近づいて来る生徒がいた。入学当初は目立った彼らも一年しないうちに飽きて、最近は静かなものだったが、それでもこの時間の足音には嫌な気持ちになってしまう。

 寝たふりを決め込んだベルタの傍らで、予想通り、足音の主は立ち止った。探るような気配がしばらく続く。早くどこかに行ってくれればいいのに。

 いっそ勇気を振り絞り、「私のようなつまらない者を、更に貶めなければ気が済まないというのは、どういうことか」と飛び起きてやるのはどうだろう。ソフィーが噛みつかれたら必ず噛みつき返す時の口調を真似て声を張れば、いくらか胸もすくかもしれない。

 だがベルタが跳ね起きるより先に、忍び足よりもっと慎重な、痺れるような緊張をまとった指先がベルタの前髪を掻き分けた。花冷えを思わせる空気に触れて、眉間に皺が寄り、閉じた瞼に力が籠もる。

 それから、思いもかけない感触が額にあった。柔らかく、きめ細かく、溢れ出たばかりの涙のように温かい。それが何か、分からないベルタではない。いったい誰がと顔を上げた時には、風が過ぎるほど短い口付けを施した人物は、もう足音を隠すこともせず駆け出してしまっていた。

 椅子から音を立てて立ち上がり、跳ねるように廊下に身を乗り出すと、細い夕日に照らされて、琥珀色の髪が尊いもののように輝いて揺れているのが見えた。

「……セルジオ様」

 遠ざかる背中は、囁く声に足を止めることはなかった。

「セルジオ様」

 すでに誰もいない廊下に、今度は明確に呼びかける。見えなくなった背中が振り返るような気がした。

 たまらなく優しいあの感触は、ベルタの内にあった名も無き淡い感情に名を与え、その輪郭を明らかにしてしまった。何故セルジオがあんなことをしたのか、もし、自分と同じ気持ちがそうさせたのなら、何て幸せなことだろう。たわいもない会話や並んで静かに中庭の景色を眺める、ただそれだけでも胸の内が温かくなり、世界が少しだけ美しく、一日一日がかけがえのないものになった。

 ある日、中庭の木の蕾が大きくなってきていることに気づいた。小さな発見を傍らのセルジオに告げようとしたとき、彼と目が合った。隣を振り返ったベルタは、光を湛えた二つの目がゆったりとした笑みを浮かべながらまじまじと見つめていたのが、自分であることを知った。

 その日の夜、ベルタは寮には帰らずセレーニの屋敷へ向かい、予め連絡もなく帰宅したことに機嫌を損ねていた養父へ尋ねた。自分が他家との繋がりを作るために養われていることは理解しているが、例えばその相手は、王族でも構わないのだろうかと。

 彼は目を丸くし、首を横に振り、いきなり帰ってきて馬鹿なことを言うなと硬い声を出す。おおかたセルジオ殿下のことだろうと、ベルタが名を挙げるまでもなく考えていることは分かっているとばかりに、目を細めた。だって彼はもう少し暖かくなる頃には――

 幸福な空想に、迫るセルジオの運命の日が暗く影を落とし始めた。ベルタの内心に反し、町は祝賀の雰囲気に飲まれ浮かれた人々で溢れ、静かな夜の闇さえも華やいで普段より星を美しく見せているようだった。もし星が流れるのを見たら、ベルタは愚かな願いをしていたはずだ。例えば、カメリアが伝え聞くほどの美しさも知性もないつまらない女であるように、だとか。

 皆が待ち望む才媛は所詮噂が作った幻想に過ぎないのだと知れ渡れば、セルジオだって自分の運命に強く否を唱える気力が生まれるかもしれないではないか。そうなったら、今度はきっと、自分から彼の額に触れよう。誰もいない図書館、木陰の優しい薬草園、どこだっていい。

 だが、カメリアを見た直後、ベルタは自分の空想こそが幻想に過ぎず、思い描いたセルジオの白い額など、到底自分の手の届くものではないことを悟る。

 カメリアを前に、ベルタは涙がこぼれないよう彼女に勧められたお菓子とお茶で必死に自分をごまかすのが精いっぱいだった。大好きなはずの甘味の味も分からず、涙を飲みこむ喉はただただ熱く乾いて、香りや味をほめながら何杯もお茶をお替りすることしかできなかった。

 そんなベルタを本来のカメリアがどう見ていたのか、弱小貴族のもらわれっ子など意識もしなかったのか、小説では言及がなかったため知りようがない。

 対して私はというと、作中で描写されていた通りの人物が目の前に現れたことに、ささやかな感動を覚えていた。

「ベルタ・セレーニと申します。本日は友人のソフィー・カルナウフと共にお招きいただきありがとうございます」

 思わず手を伸ばして触れたくなるほどの秋穂色の髪が、一礼する動きに合わせて柔らかく揺れ、豊かな金色がなびく。カメリアより頭半分低い位置から、芽ぐむ春の色をした眼差しがおずおずと見上げた。潤んで光を弾く虹彩は、勢いづく若草よりも無機質な鉱石に似ている。まるで傷一つない対の翠玉だ。

 世界で最も希少な宝を見つめながら、あまりかしこまらないで欲しいと告げる。傍らのソフィーが「お邪魔させてもらうよ」と名乗りもなくカップに手を出したのを気にしている様子を見せながら、ベルタも茶の注がれたカップに口をつけた。

 一口、二口と飲み下す合間に、ゆっくり目を閉じ小さな鼻で香りを楽しんでいるのが分かる。再び開いた若草の双眸は朝露が宿ったように濡れていた。ソフィーが焼き菓子の感想を何か言っているらしく、ベルタはすぐに弧を描く笑い顔を作って友人が手にしたものと同じ菓子に手を伸ばす。こっそり一度に二枚取って二枚同時に齧った。そうしてしまう気持ちは痛いほど分かる。何せ美味い。パーティーの日程を告げた時、料理人から洗い場の女中まで、厨房に関わるものは凡そ全員が「王太子妃初めての公務である」とばかりに張り切って、手間を惜しまず、材料費もケチらずに用意したものなのだ。

 ベルタの目がひときわ輝き、指先で隠した口元はしかし盛んに動いていることに、はす向かいのテーブルで談笑しているセルジオは気付いただろうか。

 彼もまた友人との談笑にふけっているように見えるが、気付いているはずだ。ベルタがいるからこそ、セルジオは自分も友をともない茶会に参加したいと言い出したのだから。

「三日後、お茶会を開こうと思いますの。ようやく学友の皆さんの予定がつきましたので」

 切り出した夕食の席、差し向かいのセルジオは食器を操る手を止めて、前向き的な答えを口にした。私はナイフを前後させる手を止めないまま続ける。あれから我も我もと希望者が増え、お茶会の日取りが正式に決まるまで実に二か月近くを要したことを大げさに言い添えて。

「そうそう最近、カルナウフ様と親しくさせていただいていますの」

 なにせあれから二か月である。たまの薬草園での時間も、積もり積もってそれなりの長さになりつつあった。

「聞けば、彼女には特に親しいご友人がいらっしゃるとか」

 セルジオが少し笑った。半開きの口元が、いささか間抜けな笑顔だった。

「ベルタ・セレーニ様とおっしゃるのだそうです。セレーニ家といえば様々な気持ちを抱く方もいらっしゃるでしょうけれど、学友としてセレーニ様もお招きしようと思いますの」

 セルジオの手から銀の食器が滑り落ち、醜い音を立てた。小間使いの少女が、その鋭さに肩をすくめ、ありえない無作法に不思議そうな視線を送る。セルジオは真っ白なテーブルクロスにさえ怯むような手つきで新しい銀色に震える指を絡ませた。

「伝承の女神と同じ名前のお嬢さんだなんて、私、なんだか胸が高鳴ってしまいますわ」

 セルジオは返答に相応しくない相槌をどうにか振り絞っている。

 なんて素直な反応だろう。あまりに正直な動揺に、セルジオはもっともな理由をつけようと悪戦苦闘しながら下を動かしている。私は、子供のように笑い出したい気持ちを、一口分の料理と一緒に噛み砕き嚥下する。

(やっぱり私が正しかった)

 侍従長じいやはああ言ったけれど、やはりセルジオは年相応に子供だ。これでは自白も同然ではないか。

(ええ、まったく、だめよ、それでは……)

 さとい“カメリア”が一体いつ気付いたのか、私には分からない。作中にもはっきりそうと提示したシーンはなかった。けれど、カメリアが結論に至り、ベルタを見つけ出すまで決して時間はかからなかっただろうことは、容易に想像できた。

 その後何が起こったか、これは私でも知っている。“カメリア”として振る舞えば、物語はいくらでも再現できる。

 けれどここから描くのは、“私”による物語の続きだ。カメリアは冷淡な態度で、ベルタに極夜の闇の感触から、芯まで凍てつく北海の冷気まで味わわせたけれど、私はそんなことはしない。あまり交流のない同級生の間で、いくらか居心地悪そうにソフィーの後ろに隠れようとしているベルタにだって、極めて優しく声をかけた。

「へぁ!? はい、大丈夫です。楽しんでます!」

 いくつか用意した茶葉と菓子の相性を尋ねてみる。

「ど、どれも美味しいです! あ、えっと、もし、おすすめがあるなら……」

 美味と感じたものが美味だと結論付けて構わないことと、気に入ってもらえたならば嬉しいということを伝える。

「そう、ですか……。あの、皆さんほどこういうのに詳しくなくて……。でも、美味しいっていうのは、本当です!」

 楽しいと言ったことを肯定しない素直さに眩暈がした。それが全くの無意識による選別で、故に彼女自身は何も気付かない。ひょっとして聞こえていたらセルジオは何かしら引っかかるものを感じたかもしれないけれど、生憎彼は、彼が招いた友人たちと談笑中で、私はたった一人、ぐらぐらする世界に踏ん張っていた。

 元凶の少女が、僅かな変化を察して尋ねる。

「いいえ、突然こんなことを言うのは不躾ですが、可愛らしい方だなと思って」

 ベルタの目がくりっと大きくなって、半分ほど食べた菓子がカップの中に落ちる。私たちはにわかに慌てた。

「ええ、本当に正直で、隠し事のできない方。あなたのような方には、貴族同士の付き合いなどは、うさん臭さで息がつまる思いでしょう」

 髪と同じ色の柔らかな眉が困ったように下がって、鋭い指摘だと、指先で頬を掻く。

「……けれどひょっとしたら、あなたのような方がセルジオ様の横に立つのに相応しいのかもしれませんね」

「やめてください」

 彼女の持つカップに波が起こる。力を込めた微笑みの裏側に、燃え盛る怒りが見えた。

 そんなことは絶対にあり得ない夢想なのだ。ベルタ自身が一番分かっている。国中から祝福されカメリアを迎えた、未来の国王に横恋慕するなど不埒極まりない。邪悪でさえある。けれど一度確固たる形を得た感情を理念によって簡単に打ち消せるはずもなく、意識の片隅に追いやれるほど大人でもなく、愛情とうしろめたさで喉元を締め上げられながら、ベルタは自分とセルジオの間に横たわる深い谷を恨めしく見つめることしかできない。

 暗い底に身を投げて破滅することもできないその身に、谷の向こうから甘言が聞こえたのだ。セルジオに寄り添う女から「あなただって私の位置に立てたかもしれないのにね」と。渡れない岸から、猫なで声でこっちにおいでと呼ばれ、ベルタは抱える分だけの愛情を憤怒に変えて震えている。

 失敗だ。

 静止の言葉を発した後、怒りを慰撫し冷静さを取り戻すのをごく短時間でやってのけたベルタは、最も適した次の言葉を探している。私はその姿を見ながら、自分の選択が間違っていたことを悟った。

 本来“カメリア”は、同級生たちとの交流の場でベルタをひどく辱め、それを皮切りに、カメリアの歓心を買おうとする者は一斉にベルタを冷遇し始めるようになる。それならばと、努めて親しげに、ベルタにとって無害でしかもベルタの価値を認めているのだと示せばいいだろうと思ったのだが、やはり簡単に好転のきっかけは掴めないらしい。

 けれど、私たちを好奇の眼差しでちらちら観察している生徒たちは、恐らくまだ、本来の物語の役割に収まることはないだろう。彼女らは、カメリアから不興を買ったベルタに対し、つい先日までつかず離れず同級生として振舞っていたとは思えないような変貌を見せるはずなのだ。今日の成果として、その未来の可能性を潰せたとは言えるだろう。あるいは、少しでも低められたと言うべきか。

 いずれにしても、遠ざけなければならない未来だ。ベルタの置かれる環境を変えることは、同時にベルタの身に起こる一つの、重大な変化をも遠ざけることになるのだから。

「んー、盛り上がってるのか? これは?」

 肩を並べて、しかし互いに黙りこくったままの私たちを見比べながら、ソフィーが大股に近づいてくる。片手の親指から中指でカップの持ち手を掴み、薬指と小指に受け皿を起用に挟んだまま底に残ったお茶を飲み干した。

「どうしたんだよ、ベルタ。一生分の菓子を食べるってはりきってたくせに。手が止まってるぞ」

「!? ちょっと!」

 赤くなるべきか青くなるべきか、ベルタは表情をころころさせながら、さっきまで閉ざされていた口の重さが嘘のように、あれこれ愉快な言い訳を並べては打消し、訂正し、付け加えた。ソフィーがまるで「これが見たかったのだ」という風に笑い、幾人かの生徒が眉をしかめて見せた。

「なあ、あんたはベルタのこと知ってたみたいだけど、見ての通り愉快なヤツだろ」

 ベルタがはっとして友人を見やる。

「何だよ、あたしがカメリアと知り合いで何かおかしいか?」

 はっと見開かれていた目が伏され、私とソフィーとの間を行き来した。

「一応、学園の中でも有名人だと思うぜ、私は」

「そりゃあ、カルナウフ、だし」

「でもお前だって、名無しのつまらん貴族の一人ではないだろ? なあ?」

 ベルタは恐れを滲ませた視線で友人を探っていた。ベルタをただの貴族の娘に留め置かないのはセレーニの名のせいか、はたまたベルタの危うい恋などとっくに知れ渡ってしまっているとでも言うのか。

 私には、後ろ暗くも身を焦がす感情が彼女を疑り深くさせているように見えた。実際のところ、ソフィーはベルタの秘められた恋など想像もしていない。断言できるのは、ソフィーが真実を知るのは『小説』が後半に差し掛かった頃だと知っているからだ。

 ねえベルタ、あなたが心配しているようなことをご友人はまだ知らないわ――そう言ってあげることはできない。ただ、気兼ねなくじゃれつく一人と、それを受け止めるもう一人の複雑な心境を推し量るばかりだ。

「そうだ、あんた刺繍って興味あるかい?」

 ベルタの腕に腕を絡ませ捕まえたソフィーが思い出したように振り返り、私も思考から引き戻された意識で反射的に肯定する。

「なら丁度いいや。ベルタの特技の一つなのさ。一つっていうか、刺繍くらいしか思いつかないけどさ」

「ちょっと……」

「まあまあいいじゃないか。折角だ、後の有力者にコネの一つでも作っておけよ」

「あの、カルナウフ様……?」

 ソフィーに好き勝手言われた私たちは、顔を見合わせて困ったものだと小さく笑う。いくらか解けた緊張をベルタの目元に見つけ、安堵した。

「セレーニ様、本当によろしいのですか?」

 それでも確かめずにはいられない。同級生らの冷たい手のひら返しにも、ベルタの心は折れることなく、するべき時は果敢に反発し理性的な批判をも躊躇わなかった。それでもただ一人、“カメリア”にだけはベルタ自身の罪悪感により同じように振舞うことができないのだ。今、同じ後ろめたさからソフィーの提案を承諾しようとしているのならば、それこそ私の望まないものである。

 しかし、ベルタはえくぼを作って頷いた。

「ええ、勿論です。ソフィーのいう通り、悔しいですけど、本当に私が人に教えられるものって、それくらいしかないので」

「好きな刺繍を自分で施せるようになったら素敵ですわ。ああ、女侍従長ばあやにねだって何枚も手巾ハンカチに刺繍をしてもらったのが懐かしいわ」

 あれはいつだっただろう。新しいドレスを贈られた誕生日の夜か、季節の変わり目を惜しんだ昼日中だったことだったかもしれない。私は何かそういうきっかけがあると、彼女に手巾への刺繍を求めた。それは新しいドレスに合う花の刺繍だったり、時に名残の雪を留めてくれとせがんだりしたものだ。

「それに、自分でできるようになったらさ」

 ソフィーが僅かに瞼を落とし、思わし気な表情で笑みを浮かべる。

「赤ん坊が生まれたら、帽子だのなんだのに好きな刺繍ができるな」

 その言葉は、私の心臓を強かに打ち据えた。これを最後に止まってしまうのではないかというほど鋭い一拍の後、私は自分が今生きて立っていることを疑った。心臓は追い詰められ抵抗の手段も失った小鳥のように震えていた。肉と骨の奥で、激しくめちゃくちゃに羽ばたくように律動していた。

 白昼の雷に打たれるように心臓を止めてしまえたら、いっそ楽だったかもしれない。そうすれば、震える声で「道具を取ってきます」と言い置いて駆け出したベルタの後姿を見ることもなかったのに。

「……なんだ、あいつ。そんな急がなくていいのに、な?」

 どうにか、どうにか自分をごまかしながら同意した。

 考えなかったわけではない。いや、なるべく考えないようにしていた認めがたい現実の問題だ。いずれはお世継ぎを生まねばならないという未来は、私がセルジオと夫婦である以上、避けがたいものだ。私たちの子供は、ヴァーチェ家が一つの血筋に戻った目に見える証である。国民が望んでいないわけがないのだ。

 ソフィーの言を借りれば、急ぐものではない。けれど例えば明日にでも現国王が逝去したら、それは突然、喫緊の要事として私たちの目の前に突き出される。

 その時私は――“カメリア”として立ち向かえるだろうか、“美瑠”として拒むだろうか。セルジオは義務と使命感だけで抱けるのだろうか。ベルタは……この物語の本来のヒロインは、今何を考えていて、これから、どうするのだろうか。

 疑問と推測が重なり渦巻きながら脳を重くしていく。知らず、傍らのテーブルに手をついた。

「大丈夫ですか?」

 いくらか息を浅くしたベルタが、裁縫箱片手に覗き込む。薄い汗でしっとりと瑞々しく白い顔には、平静が戻っていた。案外と、上辺を取り繕う貴族のたしなみは身に着けていたらしい。

「ええ……」

 ソフィーが引っ張ってきた椅子に並んで腰かけ、ベルタに倣い刺繍枠に布を張る。何人かの生徒がわずかな好奇心で手元をのぞき込んでは、間もなく興味を失ってお喋りの輪に戻っていく。誰も彼もが、去り際に「未来の王女王太子は女王陛下手ずから刺繍された服を着られるなんて幸せなことです」と言った。

 ベルタはその度にいくらか身を縮め、ソフィーはにやにやと笑いながら去っていく生徒の背中を見送って、私は――一刺しごとに子供の姿を思い描き悲しくなった。一瞬でも、子供の一人も生まれれば、状況が変わるかもしれないなどと思ってしまった、自分のなんと浅ましいことだろう。

“カメリア”ならば手段の一つとして頭に留めおいたかもしれないが、“美瑠”としての私にはそんなことはできない。義務のために、自らの保身のために、セルジオに諦めさせるために一人の命を利用するなんて。そんなことをしたら、私は自分自身を許せなくなるだろう。それは、絞首台から吊るされるのと同じくらい辛いように思えた。

「カメリア、先に帰っているよ」

 私の胸の内など知る由もないセルジオが、そっと手を振った。手を振り返すと、穏やかな笑みを浮かべて背を向ける。セルジオに連れ立って行く数人を皮切りに、一人一人と何かしら理由をつけて、菓子も茶も僅かになったパーティーの席から離れていく。

「なあ、場所を変えるか?」

 会場の片づけを小間使いに命じ、私たちはまるで当てがあるようなソフィーについて場所を変えた。

「まあ、あたしのオススメはここしかないけどな」

 薬草園の木陰に滑り込むソフィーに並び、腰を落ち着ける。

「あの花、モチーフにしてもいいかもしれませんね」

 頭上では薄紅の大きな花弁が三枚垂れて、風に弄ばれて揺れていた。よく見れば、花弁に隠れるように小さな毬状のものが見える。

「あら、この木もしかして……」

 花を見上げて、ソフィーが歓声を上げる。いつか彼女が教えてくれた「珍しい花の咲く木」にとうとう開花の日がやってきたのだ。

「ああ、大きな花弁に見えるのはがくが変化したものなんだ。本当の花は、真ん中に、ほらちょっと隠れて見えにくいけど、玉になっている小花の集まりがあるだろ? あれさ」

 私とベルタは揃って感心の息を漏らし、顔を見合わせた。花を、美しいものを愛でる表情は、きっと同じだったに違いない。

 しかし、物語に愛されたベルタと、物語からはじき出される“カメリア”の笑顔は、決して同じになり得ないのだ。

 それに気づくことができなかった私はただ、午後のまどろむ空気の中に微笑み、再び手元の針を動かし始めた。


 * * *


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