銀色のプラスチックの紙
演奏が終わり、僕は半ば泣き出しそうになりながら亜黒に拍手を送った。
亜黒がピアノの音を通して何かを叫んでいるのが、僕は痛いほどに伝わった。
「どう?」
冷や汗まみれの亜黒が僕に訊く。
「とてもよかったよ、凄く。……これで、あっくんがピアノを弾くことは、もうないんだよね?」
「うん……」
亜黒がそう言うと同時に、野球部の発声のいい挨拶がグラウンドから聞こえた。
「あ、もう帰らなきゃ……」
そんなことを言いながら、僕は椅子から立ち上がる。亜黒はピアノの電源を切り、鍵盤蓋を降ろした。椅子を元の位置に戻しながら、亜黒に告白をするタイミングを失ってしまった僕は、これからどうしたらいいんだろうと、途方に暮れる。
亜黒に告白するまで、僕はこの世界に居座り続けると、僕ははっきりとハイイロさんに言った。その告白はいつするのか、僕ははっきりと決めきれなかった。あの日、都心まで遊びに行ったとき、僕は告白をするつもりだったのに。
亜黒の体調が急激に悪くなって、僕はもう、告白をすることができなくなっていく。はやる気持ちと亜黒の体調を思いやる気持ちがせめぎあい、僕はどんどん良くない方向に向かって行っているのではないかと不安になっていく。
僕はロッカーに入れたバッグを持ち出そうとする。今日の宿題や明日の時間割が書かれている黒板を目にする。長方形のほぼ対角線上に、影と夕日の境界が重なっている。いつものように、当たり前に流れていく日常がここにはあるのだと、僕は思う。
すると、ロッカーの前に立った時、僕の後ろから僕のものではない腕が回された。
「えっ……」
亜黒が後ろから僕に抱き着いたのだと分かった。
「ごめん、まーくん……」
僕の両肩の上に乗る、熱い腕の温度。二つの肩甲骨の間あたりに吹きかけられる吐息。亜黒の顔が押し付けられている感覚。制服同士が擦れあう感触。抱き着かれて僕は動くことができない。僕はただただ目を見開く。
急な亜黒の行動に対する困惑と、抱き着かれた興奮が入り交じり、僕の感情がぐちゃぐちゃになっていく。
「ちょ、何して……」
僕は頑張って冷静になろうとする。何とか身を捩る。意外にスキンシップの多い亜黒でも、こんなことはしない。どうして……。
「ごめん、ごめん、ごめん……、ごめん! ごめん!」
言葉の意味が分からなくなるくらいに聞いてきた亜黒の、わけの分からない謝罪。僕はどうして亜黒が謝っているのか分からない。
亜黒の声が、だんだん震えていく。泣いているのが分かる。それでもなぜそんなことをするのか分からない。何にも、分からない。
「やめてっ‼」
頭が真っ白になる。とにかく落ち着いて欲しくて、僕は亜黒の腕を力尽くで振りほどく。これ以上、亜黒が壊れていくのを見たくはない。
亜黒は後ろにふらつき、机とぶつかって倒れこむ。
「えっ、あ、大丈夫?」
亜黒は力なく上半身を起き上がらせる。亜黒が涙を流しているのが分かる。
「ご、ごめん……。頭、冷やしてくる」
そして亜黒は立ち上がって、自分の机にかけてある水筒を取り、ふらふらとした足取りで教室を出ていった。
「あっくん……」
僕は亜黒に声をかけることができなかった。
教室が異常に静かになり、部活を終え戻ってくる人たちの声が微かに聞こえてくる。
亜黒を追いかけないといけない。僕はそう思い、教室を出ていった。
でも、亜黒はどこを探してもいない。階段の一番下の空間、玄関、他の学年の教室、中庭、グラウンド。学校は、みんなの部活から解放された喜びで満たされ、その中で僕だけが焦って亜黒を探していた。
もう一度教室の前を通ると、二人の女子が僕に目を向けた。佳弥と緑だった。
「お、まーくん! こんな時間まで何してんの?」
と佳弥。
「もしかしてまたあっくんのピアノ聞いてたの?」
と緑。
あだ名を使って二人は僕を悪意なくからかう。そんなからかいを僕は無視して、二人に訊いた。
「ね、ねえ、あっくん知らない?」
「え、どうしたの?」
と佳弥が訊き返す。
「とにかくあっくんが……!」
必死になって僕は声を上げる。ああ、と緑が言う。
「そう言えば、亜黒が階段上がってくの見たような……」
その言葉が耳に入ると同時に、僕は駆けだしていた。
「ありがと!」
僕は手すりに手を添えながら早足で階段を上る。足音が階段の空間に響き渡る。
どうして、急にいなくなったりするんだ……。
階段を上がるたび、人気が少なくなっていく。もしかして、人のいない場所に亜黒は行こうとしていたのではないかと思い、僕は三階まで駆け上がる。
音楽室の前まで来て、僕はある音を耳にする。街の営みの音から遮断されたみたいな、三階の静けさの中に、蛇口から水が流れる音がした。それは音楽室のトイレの中から聞こえてきた。
もしかして……と思い、僕はトイレの入り口の方を向く。
トイレから、蛇口がきゅっと止まる音がして、水の音も同時に止まる。
ゆっくりとした足音が、入り口に近づいてくる。
そして、水筒を持った亜黒がトイレから出てきた。
「えっ……」
亜黒の表情は、はっきりと正常じゃないと分かるほどにやつれ、狂っていた。目の焦点があっておらず、顔面蒼白で、ゾンビのように体がふらついていた。
「まーくん……?」
意識が遠のいていくような、亜黒の声。
「ねえ! どうしちゃったの⁉ あっくん‼」
僕が叫ぶと同時に、亜黒は廊下にばったりとうつ伏せに倒れた。その衝撃で手放された水筒の蓋が開き、中のお茶が溢れ出して、亜黒の周りに血液のように広がっていった。
あの日、あの時、階段の踊り場で頭から出血する亜黒の姿がフラッシュバックする。
「あっくん‼」
喉が使い物にならなくなるほどに、もう一度叫び、僕は亜黒のもとに駆け寄る。
廊下に膝をつき、脚が廊下に広がる冷たいお茶でびしょ濡れになる。鳥肌の立ってしまいそうなお茶の冷たさを無視して、僕は亜黒の体を揺さぶる。それでも亜黒の意志が感じられず、僕は涙を浮かべる。
「あっくん‼ あっくん‼ 嫌だよ、こんなの‼」
亜黒の背中に、僕の涙が落ちる。黒いブレザーに小さく染みて、跡が消えていく。
すると、僕はあるものを目にとめる。
涙がぱっと止まり、僕の悲しみが、恐怖に塗り替えられていく。
「なに、これ……」
亜黒のズボンの尻ポケット。その中から、あるものが顔を出していた。
銀色の紙が、尋常じゃないほど何枚もポケットの中に入っている。
僕は、亜黒の尻ポケットから、その一枚を取り出す。
「えっ……?」
僕は、声が出なくなる。今更、全身が凍ってしまうほどの冷たい空気を感じ、体が鳥肌を立てる。僕の呼吸は荒くなっている。うまく頭に酸素が昇らず、意識が抜けていくような感覚を覚える。
なんで、亜黒がこんなもの……。
どうして、亜黒がこんなことを……。
銀色のプラスチックの紙の艶やかな光の反射を見ながら、ぶつぶつとした感触を確かめる。
亜黒が持っていたのは、すでに使用済みの、睡眠薬の製品名が書かれた大量のブリスターパックだった。
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