第三話 昨日の曲
夕焼け小焼け
亜黒と初めて話したのは、中学生になりたての時期だった。
ある日、学校から帰る途中、夕日を見上げながら帰っていると、鞄に何か大切なものを入れ忘れている気がした。鞄の中を確かめてみると、宿題のプリントが入っていないことに気が付いた。
僕が忘れ物に気づいた場所は、お母さんが、よく眞白のクラスメイトの保護者と会う、と話題にしていたスーパーの近くだった。学校まで遠いわけじゃないから、今から取りに行こうと思ったのだ。
中学校の環境に慣れてきたのはつい最近のことだった。もうすぐ一学期が終わるから、夏休みで静かにして過ごそうと思っていた。僕はあまり人と接点を持たないようにしていた。理由は簡単で、人を傷つけたくないし、自分を悪い人間だと思いたくない。ただ、それだけだ。
僕は部活には入っていない。だから放課後の学校の様子なんて見たことがなかった。
学校の周りにはみんなで何かを連呼しながら走る陸上部がいて、学校に着くと、野球部の叫び声が聞こえて、プールからは水を掻く音が聞こえる。自分からかけ離れた世界の音が沢山聴こえてきて、なんだか僕はそれだけで異世界に来てしまったような気分になる。
でも、そこが自分の一番安心できる場所なのかもしれない。陸上部に、水泳部に自分の一番安心できる場所がある人達がいるから、学校にたくさんの音が鳴っているんだろう。少なくとも、僕が通っていた小学校よりかは何倍もいい環境なんだ。
そっか、そうなんだよね。と、僕は自分を宥める。安心して、僕は生きていいんだよね。
そう思うと、玄関に進む足が軽くなった。
教室に向けて廊下を歩いていると、ピアノの音がした。ここ、音楽室とは遠いのに。
そのピアノの音色は、僕が向かっている教室の方から聞こえてきた。
もしかして、と思って、僕は足早に教室へと進んだ。
僕の思っていた通り、僕の教室からピアノの音が聞こえてきた。
それは誰にも見られない場所から発せられる、きれいな音だった。
教室の黒板の隣にある電子オルガンを弾いているのは、僕にとってはとても意外な人だった。意外なポイントの中でも結構大きかったのは、ピアノを弾いているのが、このクラスの男子だったということだ。
名前は確か……。
嘉瀬、亜黒……だったっけ。
亜黒は教室に入ろうとする僕に気づいて、演奏をやめた。
亜黒は僕を見る。つり目がきりっと僕に向けられる。
「鳴坂くん、忘れ物?」
興味なさげに、それでも聞き取りやすい優しい声色に僕はドキッとする。
「まあ、そんなとこ……」
「弾いてていい?」
「う、うん、邪魔しちゃってごめん」
「いやいいよ。俺が勝手に弾いてるだけだから」
亜黒はそう言うと、鍵盤に目を落とした。また、教室ではどこかで聞いたことのあるメロディーに包まれる。
亜黒とはあまり話したことはなく、委員会で一緒に行動するくらいの、他の誰とも変わらない感じの接し方をしていた。
それにしても、亜黒がピアノを弾いているなんて驚きだ。亜黒はこのクラスの中でも成績優秀で、読書が好きで落ち着いている感じの男子で、それでいて一緒に話すクラスメイトも結構いるのだ。僕は亜黒を初めて見たとき、スポーツが出来そうな見た目とのギャップに驚いてしまった。
僕は自分の席の引き出しから宿題のプリントを見つけて、それを鞄に入れた。
そして教室を出ようとすると、亜黒に声を掛けられた。
「じゃあね」
「うん」
そう言われたけれど、なんだか教室から出るのが惜しかった。亜黒の音色を聞くのがこの一回きりだなんて、ちょっともったいない気がした。
「ねえ……」
「なに」
亜黒が僕を見る。僕は勇気を振り絞る。
「またピアノ、聴きに来ても、いい?」
演奏が止まり、教室が静かになる。外からの部活の声が教室に入り込んでくる。
「別に、構わないけど」
僕は、心の中でやった、と声を上げた。僕は誰とも関わる気がなかったのに、なぜか亜黒のことを知りたくなっていた。
「亜黒君は、ピアノの習い事とかしてるの?」
「してない」
「え、じゃあ独学?」
「うん、まあ」
宿題を取りに行った次の日、僕は放課後、教室に残った。亜黒はというと、小説を読んだり宿題や自習をしていた。どうやらみんながいなくなる時間になるまで待っているみたいだ。
亜黒は小説にしおりを挟んで本を閉じると、ピアノの椅子に座った。僕は自分の椅子をピアノの隣に置いて、こうやって話していた。
「どうやったらこんなにうまくなれるの?」
「別に、上手いとかじゃないよ。楽譜なんて読めないし。全然素人だよ」
「え?」
「ほら、動画でさ、下に鍵盤があってそれを押すところに棒みたいなのが降ってくる感じのやむあるよね」
「あ、あるある」
「それを見ながら家にあるピアノで練習してて。だから、そう言うテクニックなんて何も知らない。知ったかぶりが鼻を伸ばしてるだけだよ」
「そ、そうなんだ。でも、ほんとにうまいと思うよ」
そう言うと亜黒は一瞬嬉しそうにくすっと笑った。
「ありがと」
そう言って、亜黒は昨日弾いていた曲をまた弾いた。
やっぱりどこかで聞いたことのある曲だった。
ピアノを弾いている亜黒は、さっきまでの様子とは違っていた。僕は、何かに打ち込める人の姿を直に見せられた気がして、僕には到底触れられないものと向き合っているのだと実感した。いつの間にか亜黒の指や手首の動き、僕の知らないところに連れて行ってくれるような音色に、僕は心を動かされていた。
演奏が終わると、僕は小さな拍手をした。
「すごい。昨日も弾いていたけど、なんて曲?」
「えっとね……」
亜黒はその曲の名前を言った。
「音楽の教科書にも載ってるはずだよ」
と、亜黒は付け足した。僕は気になって机にかけてあるバッグから音楽の教科書を取り出し、亜黒の隣に座って目次を見ながら探した。そのページには、亜黒の言った曲名とともに四人組のロックバンドの白黒写真が載せられていた。
「あ、このバンド、なんか知ってるかも」
「まあ、昔にすごい有名になったらしいからね。俺はあんまり詳しくないんだけど。たまたまこの曲を見つけただけなんだ」
「へえ……」
「俺が弾けるのはこの曲だけなんだ」
「え、他の曲とかは練習しないの?」
「うん、今のところ」
その後も僕は亜黒と話した。ピアノの話だけでなく、勉強の苦手なところとか、亜黒のおすすめの小説とか。そんな話題で、僕たちは盛り上がった。
五時になって、どこからか夕焼け小焼けが聞こえてきて、亜黒はピアノを閉じ、僕は椅子を元の場所に戻した。
その時、教室に誰かが入ってきた。もう部活も終わるころだ。
「あっくーん、帰ろーぜ。……って、あっくん、ピアノの弟子でもできたの?」
その男子は亜黒に訊いた。あっくん……亜黒君の事だろうか。
「そんなの作るわけないでしょ」
亜黒は答える。
音楽の教科書をバッグに入れていた僕は声の方を向く。
「あっ」
「あ!」
僕とその男子は同時に声を上げた。その理由は、僕とその男子が同じマンションに住んでいたからだ。僕は部活に入っていないから、登下校の時間はあまりかぶらなかったけど、部活が中止になる定期テスト前は何回か同じマンションで見たことがある。
名前は酒井亮二だったと思う。亮二が亜黒と仲良くしているところは見たことがある。
「鳴坂、おんなじマンションの!」
「え、二人とも同じとこに住んでるんだ」
亜黒は言う。
「あ、うん」
「じゃあ、今日は三人で帰るか!」
そんな流れで、僕は人生で初めて、誰かと話しながら下校をするという体験をした。忘れ物の一件から、僕は人が人と楽しそうにしているのを向こう岸で眺める側から、人と楽しい時間を過ごす側になった。こんなことは、僕が理想としている日常とかけ離れていたし、恐れてすらいたけれど、亜黒や亮二と過ごすたび、そんな感情より楽しさの方が上回っていった。
「鳴坂くんはどうしてあっくんのピアノ聞いてたの?」
帰りながら、亮二は僕にそう訊いた。
「あ、一回学校に忘れ物して、それで亜黒君と会って、それですごいなって思って」
「へえ、ロマンチックだね~」
「どこがだよ!」
「え、どこが?」
亜黒君と僕のツッコミが重なった。そんな話をしながら、僕たちは下校した。
まーくんなんてあだ名をつけられて、友達としての呼び名が出来て、すごくうれしかった。命名したのは勿論亮二だ。
僕が亜黒のことを好きなのだと自覚したのは、もうちょっと後になってからだった。
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