第45話 デート②
***
「……なあ沙月、俺たち確か元々は新しいスマホを買いに来たんだよな?」
「ええそうね」
「けど何でこんなところにいるんだ……?」
「あなたのためって何度も説明したでしょ?」
「……ラブホに来ることが?」
「このまま何もせずにお金だけ払って帰るつもりなの?」
「いや、それは……」
口淀む俺。時刻は正午。
なぜこのような状況になったのか、時は約三時間巻き戻る。
***
「せっかく来たのに残念だったわね」
「こればっかりはどうしようもないな……」
新たにスマホを契約するために意気揚々と携帯ショップに乗り込んだのはいいものの、入店後三十分足らずで店を後にすることになった。
理由は単純明解。高校生では契約できず、保護者の同意が必要だったからである。
よく考えれば当然のことか。店頭に並んでいた実機を触ってどれにしようかと悩んでいたのが、今や思い出すだけでも恥ずかしくて顔から火が出そうだ。
「次はおばあちゃんと一緒に来るよ」
「……一気にテンション下がったわね」
「朝っぱらから遠出した理由が一気になくなったからな……」
おまけにまたしばらくスマホなしの生活が続く。沙月風に言えば、原始人に逆戻りと言ったところか。
「まだ十時回ったところだからさすがにお昼には早いわね」
「えっ、帰るんじゃないの?」
「真顔で言われると、どうツッこんでいいのか分からないのだけど」
「ごめん……」
全部が冗談というわけではなく、もし沙月が帰ろうと言えば俺は多分普通に帰って寝ていたと思う。
けど本気で困ったような表情を浮かべた沙月の瞳の奥が悲哀に揺れた気がして、それ以上言葉は出なかった。
「どうせ今日一日予定空けているのでしょ?」
「まあそうだけど……」
「せっかくここまで来たのだから、私に付き合ってよ」
――いや、今日は元々スマホを買いに来ただけだからもう帰ろう。
なんて言えるはずもなく、俺は沙月に手を引かれていく。
こうして初めて降り立った街で、二度目の一日が始まったのだった。
***
「ほら見てよ速斗! キリンがこんなに近くにいるわ!」
「見てるって。あんまり乗り出したり手を出しすぎたら餌と間違われて食べられるぞ」
「ねえほら見てよ速斗! この舌すごい色と長さだわ」
「だからちゃんと見てるよ」
「だったらもっとこっちに来て一緒に見ましょうよ。どうして柵から五メートルも離れているの」
「…………」
実は動物が苦手なんだ――と言ったら沙月はどういう反応を示すだろうか。
多分沙月のことだから、俺に気をつかって「別のところに行きましょう」なんてスマした顔で言うに違いない。
だけど取り繕ったようないつもの笑みではなく、あんな純粋に白い歯を見せて笑う沙月を見てしまったら、そんな言葉口が裂けても言えなかった。
「俺は写真係でいいよ」
と、ポケットの中に手を突っ込み、そしてカバンの中をガサガサと探るも肝心の物は出てこない。
「……一体何で撮るつもりなのよ。スマホは壊れてるし、一眼レフやデジカメももちろん持っていないでしょ」
何をやっているんだ俺は。
目の前にはやれやれと首を振る沙月。その手には透明のアクリルケースに包まれたスマホが握られており、俺は沙月に手を引かれなすがままに引きずられていく。
「ほら、一緒に撮りましょ。キリンとスリーショットよ」
「いや、それだけは――」
もう遅かった。
次の瞬間、猛烈な異臭とともに、生暖かいザラりとした感触が俺の左頬を上から下まで襲った。
***
「どうして最初に言ってくれなかったのよ」
「言おうと思ってたけど沙月があまりにも楽しそうだったから、後ろから眺めてるだけでいいかなって……」
トイレで水で流すだけでは足らず、ハンドソープまで丹念に塗り込むように左頬に染み込ませたというのに、一度のレロレロで染み付いた臭いが上書きされることはなかった。
「これじゃあキスする時にムードが台無しになっちゃうわね」
「元からする予定はない」
沙月がこう言うということは、相当臭っているということだろう。
とにかく家に帰ったら洗いまくって、あとは自然に薄れていくことを待つしかない。
「昔も同じことがあったんだよ」
「昔?」
俺は沙月に幼稚園の時に起こったプチ事件について語ることにした。
俺の通っていた幼稚園では年に一回移動動物園というのが幼稚園にやって来て、そこで動物たちと触れ合うといった行事があった。
最初はヒヨコやハムスター、モルモットといった小動物を手を乗せたりして楽しんでいたのだけれど、ヒヨコは寝るしハムスターには手のひらに糞をされるしですぐに飽きてしまっていた。
そして怖いもの知らずの五歳児は運動場の中央でゆらゆらと歩いている灰色のロバを発見した。
子どもの腕が丸ごと入りそうな巨大な鼻の穴、口を開くと人を小馬鹿にしたように出てくるピンク色の歯ぐき。
友達と一緒に指をさしてゲラゲラと笑っていたのがマズかったのか。
それともロバがこんなクソガキにバカにされていると察したのか、気がつくと俺の腕にはペロリと一筋の線が描かれ、見るとベトベトの涎まみれになっていた。
その後の記憶はない。
それがトラウマになり、以来自分と同じくらいかそれより大きい動物を目にすると、自然と身体が拒否反応を示すようになったのだ。
「何だ、思っていたよりしょうもないわね」
「しょうもなくはないだろ! 俺の人生を変えた出来事の一つだぞ」
「すごい深刻そうな顔で話し始めたからもっとシリアスなものを覚悟したのだけれど、拍子抜けだわ」
トイレのすぐ近くのベンチに座っていた俺たちだったが、十年経った今もなお俺の記憶と心に刻まれている深い傷は沙月にとっては心底どうでもいい出来事だったらしい。
俺としては動物園を訴えて訴訟だ! と言ってやりたいところだけど、そもそもこの動物園は極端に飼育員の数が少ない気がする。
そもそも入場料が無料という時点で、ろくな動物はいないだろうと思っていた。
パンダで有名な某動物園と比べても、そもそものお客さんの数も少ないし、こう言ってはなんだけど今月で閉園すると言われても普通に信じてしまうぐらいだ。
けどキリンも含めちゃんとゴリラやライオン、クジャクといった大型の動物もたくさんいるし、どういう経営で成り立っているのだろうと今は考えてみたり……。
「もう少し回ってみたいけど、気の進まない人を連れても仕方ないし、何より隣に臭い人を置いておくのは私としても嫌だし……」
「……もう帰る?」
「何言っているの? そのまま電車に乗るつもり? 業務妨害で訴えられるわよ?」
「うっ……」
「とりあえずその顔を何とかしないとね。私についてきて」
「?」
――人通りの多い道を歩くと周りの人に迷惑でしょ。
それはそうだ。と納得した俺は動物園を出たあと沙月に連れられて、ネズミが這い回ってそうな裏路地を進んだり曲がったりしていた。
そしてたどり着いたのは、煌びやかなホテル街。
けどそこがただのホテルではないということは、何となく察することができた。
スーツを着たおじさんと派手なメイクとカバンを手にした女の人が手を繋いで歩いている。
同い年ぐらいの若い男女ともさっきすれ違った。
「どこも値段はあまり変わらないわね」
真っ白でお城のような建物の前に止まった沙月は、そのまま躊躇うことなくスタスタと中へ入ろうとする。
「ちょっ、ちょっと待って沙月! ここがどういう所か分かってるのか?」
「当たり前でしょ」
「そんな真顔で返答されても」
「こんな入口の前でグダるとか、他の人に見られて一番恥ずかしいから辞めてほしいわ。大丈夫よ、今のところ顔以外は触れるつもりないから」
「……………………」
――回想終了。
――そうして今は、お湯を溜めてくるとか訳の分からないことを言ってお風呂場に消えた沙月が戻ってくるのをソファに座って待っていた。
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