第41話 タイミングのいい人
***
長い時間その場でボーっとし続けているわけにはいかなかった。
雪島さんは行ってしまったけど、俺はそれを追わなければいけない。
ここで俺が照れて雪島さんを避けていると、仕事は終わらないし別の意味で家に帰れなくなる。
それにしても今の雪島さんの言動には、脳天をハンマーで叩かれたような衝撃だった。
この間の始業式に沙月がうちのクラスに転校生としてやってきたのを見たときと匹敵する。
頬に唇が当たったのも、ちょっと躓いたとかの事故ならまだ分かるけど、雪島さんはちゃんと言葉にして俺への好意を口にした。
つまりそういう風に捉えていいということなのだろうか……。
まだ出会ってばかりだというのに、こんななんの取り柄もない――いや、少し違うな。
さっきの会話の中で雪島さんは気になる発言をしていた。
どうも去年から俺のことを知っているようなことを匂わせる発言を――
雪島さんが通学中に目撃していたというのは、もちろん俺と平野のことだ。その特徴も合っているので適当に言ったのではないと考えられる。
つまり、去年俺のことを何度も目にしていたから覚えていた。昨日会って去年までのことを思い出した。そういうことなのだろう。
そこからどういう過程で恋愛感情にまで発展していったのかは不明だけど、女子の歪んだ恋心は既に――というか現在進行形で体験中のため、深く考えるだけ時間の無駄だ。
「それにしても……」
ビールのケースを大量に乗せた荷台を押す俺の口からは、自然とため息がこぼれていた。
従業員用の通路と店の売り場を繋ぐ扉がやけに分厚く見える。
フロアに出るのにこんなに緊張するのは、初出勤の日以来だ。
閉店まではまだ二時間近くある。少なくともそれまでは雪島さんと一緒に過ごさないといけない。どういう態度で接すればいいのか分からない。
もう辞めようかな……。
もし今目の前に退職届の用紙か何かが用意されていたら、迷うことなくサインする。それぐらい憂鬱な気分だった。
***
扉の前での数分の葛藤の末、俺は何事もなかったかのように雪島さんの元へ行った。
何か問題はなかったか、分からないことはあるか、それらを訊ねて雪島さんからも特に問題ないとの答えを受け取る。
そして二人してせっせと飲料水の補充に勤しんでいた。
この時点で俺は勝利を確信していた。雪島さんも一時の気の昂りでさっきはあんなことをしてしまったけど、こんなに冷気を放つエリアにいたことで頭も冷えたのだろう。
だから俺と同じように、とりあえず今はなかったことにして普通に仕事をする。
勝手にそう思い込んでいた俺は、完全に油断していた。
「――先輩、今わたしむちゃくちゃ怒っていて悲しいんですけど、なぜだか分かりますか?」
「怒っているのか悲しんでいるのかどっちなの?」
雪島さんの隣でビールを棚に入れていた俺は、横を見て少し腰が抜けかけた。
獲物を刈り取るかのような目つきを放つ雪島さん。まるで肉食動物と草食動物の構図だ。どっちがどっちかなんて言うまでもない。
「……わたし、人生初の告白だったんですけど」
「うっ……雪島さん、その話は今ちょっと……」
「誰かにキスしたのも初めてなんですけど」
「だから雪島さん、その話は……」
「先輩はあれですね」
「あれって……?」
「見かけによらず性格が悪いって言われたりしません?」
「特にそんなこと言われた覚えはないけど……」
「まあ経験豊富な先輩からすれば頬のキスなんて挨拶みたいなものかもしれませんね。少しはわたしのことを意識してくれるかもって期待しながら待っていたのにこれですもん」
「ちょ、ちょっと待って雪島さん……!」
「わたしはずっと待ってましたよ。先輩が降りてここに来るまで約十二分。ここで作業を初めて約三分。計十五分、ずっとドキドキしながら待っていたんですけど」
「そういう意味じゃなくて――」
「それとも先輩はそういう焦らしプレイが好きなんですか?」
……駄目だ。会話が噛み合っていない。
今の俺は、コントロールの悪い投手の大暴投を何とか身体を張って後ろに逸らすのを食い止めている捕手だ。
幸い今はお客さんは少なく、雪島さんもそこは気を遣っているのか声のボリュームはかなり抑えてくれている。
しかしさすがにこれ以上ヒートアップさせるのはマズい。それに正直なところ、俺の頭も追いついていなかった。
雪島さんが俺に異性として好意を寄せてくれていることは分かった。
けど逆に言えば、それだけなんだ。雪島さんが俺の何をどこまで知っているかは分からないけど、俺は雪島さんについてはそれこそ顔と名前ぐらいしか知らない。
普通こんな可愛い子に告白されたら喜んで浮かれたりするんだろうけど、今は困惑の思いが強かった。
だから一旦落ち着いて、ゆっくり整理して、改めて雪島さんと静かなところで話したいって思っていたんだけど、当の雪島さんがそうさせてくれない。
今はまだ業務中だ。ならばここは、ひとまず雪島さんを納得させる必要がある。
「意識はちゃんとしているよ」
「えっ?」
「さっきのは突然のことでびっくりしただけで、さすがにあんなことされて動揺しないわけないよ」
さっきまで腰の曲がったサラリーマンのような目をしていた雪島さんの瞼が、少しずつ大きく見開かれていく。
俺が言葉を発するたびに、その瞳に鮮やかさな色が宿っていき……
「先輩……じゃあその、今日の帰り」
雪島さんがさっきのを再現するかのごとく、胸に缶チューハイを抱いて俺に迫り――
「――あの、すみません店員さん」
「「は、はいっ!」」
背後からお客さんに声をかけられ、俺たちは揃って弾かれたように立ち上がった。
「この広告のお菓子が探しても見当たらなくて……」
全く気配に気づかなかった。さすがに聞かれてはないよな……。
雪島さんはまだどこにどの商品が陳列されているか把握していから、ここは俺が対応しないと。
雪島さんを目で制した俺は、お客さんが差し出した今日の広告に目を向ける。
広告の品は普段の売り場とは別に、お客さんの目に多く映る場所にまとめて置かれていることが多い。今回もそれだろう。
「ご案内しますね」
「ええ、お願いします。他にもいろいろと聞きたいことがるので」
「えっ……?」
何だか引っかかる言葉に俺は広告から顔を上げ――そこに立っていたのが沙月だと認識した瞬間、全身の血が引いて危うく倒れそうになった。
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