第23話 あの頃の記憶①
――ここはどこ?
――私は誰?
少し身体を動かしただけで、額の上側がジンジンする。
名前は神部沙月。ちゃんと頭に浮かんでくる。
けどそれ以外のことは何も思い出せない――
「あら、神部さん目が覚めた? もう少しでお母さんが到着するから、それから病院に行ってもらおうと思っているのだけれど……。身体の方の具合はどう?」
「大丈夫です。ちょっと打ったところが痛いぐらいで……」
痛むところを軽くさすった沙月は苦笑いを浮かべる。
階段から落ちた衝撃で記憶喪失――そんなアニメや小説のようなことは全く起きていなかった。
全部覚えている。
少し演技をして保健の先生を驚かせてやろうかと思ったけど、心配する様子の顔を見たらその気も失せた。
それから母親がやってくるまでの間、沙月は保健の先生の話を聞いて時間を過ごした。
気を失っていたのは十五分程度だという。
近くの教室で演劇部が練習していたらしく、ものすごい音を聞いて出てみたら女子生徒が一人倒れている。
すぐに先生を呼んで保健室まで運んでくれたそうだ。
状況から何が起きたのか察するのは容易かった。
救急車を呼ぼうか迷ったらしいが、しばらく様子を見て意識が戻らなさそうだったら呼ぶことにしたらしい。
――そんな雑な対応をしていたの……?
学校に対して僅かながら不信感を抱いてしまいそうになる。
一応頭を打って気を失っているのだから、もしかしたらという可能性も考えてほしいというのが、正直なところだった。
終わりよければすべてよし……ではないけれど、今ここで沙月が文句言ったところで何かが変わるわけでもないので適当に愛想笑いを浮かべて済ませた。
ちなみに、なぜあんな盛大に落ちたのかという話では、普通に足を滑らせたと答えた。
あの時の自分はどうかしていた――と、沙月は一人反省する。
一人の男子生徒が借りた本の情報を手に入れただけで舞い上がっていたのだ。
本当のことを言ったところで、失笑されるか、それこそ頭がおかしくなったと思われるに違いない。
――あそこでコケなければ今頃図書館に着いてたのにな……。
そんなことを考えていると、母が到着したという連絡が入った。
***
病院へは母の車で二人で向かった。
玄関口で教頭先生と担任の先生が何度も頭を下げる光景を沙月は不思議な気持ちで眺めていた。
――私が勝手にヘマして怪我をしたのに。
それが学校、教師というものなのだろうか。
まだ将来の夢やなりたい職業等が全くない沙月だったが、この瞬間教員という選択肢が消えることとなった。
***
「別にそんなに大したことないのに」
「駄目です。もし脳に異常があったらどうするの? 受験の年だと言うのにそのせいで――」
ラジオも音楽も鳴っていない車の中で母の小言を聞かされるのは勘弁してほしかった。
けど今回は、全面的に沙月に非があるから余計な反論はせずに上手いこと受け答えしていく。
「前にテレビで言っていたわ。一度の衝撃で脳細胞がいくつ死ぬか。あなた今回ので半分ぐらいなくなったんじゃないの?」
「その分ちゃんと勉強するから」
母は心配こそしてくれてはいるけれど、それと同じぐらい受験の心配もしていた。
一体何がそこまで母を掻き立てるのか、沙月には分からなかった。
勉強もいい高校に行くのも、将来のことを考えたら損にはならない。
今はそんな気持ちだけど、いつか母に反抗するときが来るのだろうか。
あるいは自分に子供ができたら、そういう気持ちになるのか。ハンドルを握る母の横顔を見つめているうちに、目的地へと到着する。
「着いたわ。さすがに人がいっぱいね」
いつもの小さな医院ではなく、市の大きな病院。
受付等は全て母が行ってくれた。
医師の診察では、特に酷い頭痛や吐き気はないと伝えるとその後簡単な首や目、耳の検査やバランス感覚や記憶のチェックをして問題ないと判断され、様子見となった。
もし急変すればCTやMRIで細かい検査を行うらしいが、沙月自身すでに大丈夫だと勝手に思っていたため、そこら辺の話はほとんど聞き流していた。
母が熱心に聞いていたから大丈夫だろう。学力がどうとか、勉強に支障がどうとか訊ねていたのは相変わらずだけど、医師も看護師も笑っていたから心配する必要はないのだろう。
「本当に人騒がせな子ね」
「……ごめんなさい。でも先生も問題ないって言ってたわ」
「そうだけど……」
やっぱり頭は怖いと付け足す母。
今は元気でも、突然目眩や嘔吐に襲われる可能性もあるらしく、沙月もそこまで楽観的にはなっていない。
今は塗り薬や痛み止めを処方してもらい、会計待ちをしているところだ。
総合受付にもなっているこの場所には、百人以上が座れるだけの椅子が用意されていた。
席が埋まっているのは半分ほど。見渡してみるとやはりというか、そのほとんどが歳をとった人たちだ。
沙月のように学校の制服を着ている人なんてどこにも――
「あれ……?」
いないどころか、自分と全く同じ柄の制服を見つけてしまった。
「どうしたの沙月?」
「ちょっとトイレに」
立ち上がり、その背中を追う。
実は階段から落ちた時にメガネが壊れてしまい、今は裸眼だった。
極度の近眼というわけでもないので、メガネなしでも普通に外は歩ける。それでも離れたところにいる人を見分けるのは難しかった。
しかし距離が近づくにつれ、それは確信へと変わる。
――やっぱり滝沢くんだわ。どうしてこんなところに……。
追いついたところで声をかける勇気はなく、今の沙月にできるのは、その後ろ姿を見届けることだけだった。
見たところ誰かと一緒というわけではない。
長い時間歩いた末、受付とは別の建物の中に入っていくのが見えた。
「腫瘍……内科……?」
その入口に書かれていたのは、聞き覚えのない言葉だった。
眼科や耳鼻科のような馴染みのあるものではないから、沙月にはそれが何か分からなかった。
――後で調べておこう。
その四文字だけを記憶し、沙月は母の待つ受付の待合場所へと戻った。
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