第20話 訪問者

***


 明日学校が休みでよかった――と、平野舞は深く息を吐いた。



 さっきからお腹が鳴り続けているけど、食欲は湧いてこない。でもなぜかお腹は空く。



 空腹を訴え続ける自分の身体を大人しくさせるため、大量に水を飲んではトイレに行くを繰り返していた。



 何も考えたくないとき、あるいは何か考え事をするとき、舞は服を脱いで下着姿でベッドに寝転び、ボーっと天井を見つめて時間を過ごすことが多かった。



 何も考えたくないときと何か考え事をするときは、一見真逆のことのように思えるけど、舞の中ではどちらも同じことだった。



 何も考えたくないときは、現実逃避したくなるような問題が発生したとき。何か考え事をするときは、そうしないといけない問題が発生したとき。



 要は悩み事ができたということだ。



 けど我ながらよく一年も我慢でできていた——自分で自分を褒めたいところだが、舞もそこまで楽観的ではない。



 しばらく会うのは止めよう――と申し出たのは舞の方からだ。そう告げた時の速斗の表情が脳裏に焼き付いたまま剥がれない。



「何で契約なんてバカみたいなことしたんだろう、わたし……」



 どちらかが恋愛感情を抱いたら関係は終わり――という項目を入れたのは、他の誰でもない舞自身だ。

 


 それが最初からなんの意味もなさないことを知りながら、自らを律するという制約を込めてのものだった。



 契約書など所詮形だけの者だ。最初から――この地で速斗と出会う前から速斗に恋をしていた舞は、契約が成立する以前の問題だった。



 背中が少し痛くなってきたので、舞は枕を両手で抱いて横向きに体勢を変えた。



「冷たいな……」



 速斗の背中とは違い、そこに一切の温もりは感じなかった。それと同じように、今舞の身体を包み込んでくれる速斗はここにいない。



 ベッドが広く感じた。普段夜寝るときはそんなこと思うことなんてないのに、どうしてだろう。



 これが喪失感というものなのだろうか。たった一言で全てが壊れたことは自覚している。



 舞の長年の想いがこぼれ出たその言葉を速斗はどう受け止めたのか。気になって仕方なかった。



 なかったことにしてほしい気持ちと、そうしてほしくない気持ちが半々ぐらいで揺れ動いている。



「やっぱり会いたいよ……」



 息を大きく吸い込めば、速斗の匂いが鼻から入ってきた。それは脳に伝わり、舞の手は自然と自らの下着に伸びていく。



 舞が自分ですることを覚えたのは、中学三年生の夏休みだった。



 それまでは知識としては頭にあったけど、実際に行うのはそれが初めてだった。



 何度か繰り返すうちにどこが一番気持ちいのか、どの部分が最も快感に繋がるのか。そして、何を想像すればより大きな快楽を得られるのか。



 夏休みが終わるころには、夜な夜な布団を被って自分を慰めるのが日課になっていた。



「……っ、はぁ……滝沢……」



 一度始めたら満足するまで終わらない。



 荒々しく呼吸をすることにより速斗の残り香を体内に取り込み、よりその存在をリアルにイメージすることができる。


 

「はぁっ……はぁっ……」



 途中で邪魔になった下着を脱ぎ捨ててから数分後、今日何度目かの絶頂に達した。



 速斗としているときは、自分の方が先に達してもそのまま続けてと懇願するのだが、一人の時は言い難い虚無感に包まれる。



「あの事件を利用して滝沢をわたしのものにしようとした罰は、いずれ受けるつもりだったけど……」



夢のような一年間だった。好きな人と身体で結ばれたのだから。けどそこには常に罪悪感も付きまとっていた。



今は何を考えてもマイナスのことしか思い浮かんでこなかった。



――滝沢……好き…………。



この言葉は間違いなく速斗に届いていた。舞はそれを確信していた。



その証拠として、直後にハッとしたように口が開き気まずそうに目を逸らされたからだ。



だがそれと同時に速斗が果ててしまったため、曖昧になってしまった。



「滝沢は結局わたしのことどう思っているんだろう」



この関係を長い間続けていたから、少なからず嫌われているということはない。むしろ多少の好意もあったはず。



問題はそれが異性としてなのか、それともただのセフレとしてなのか。



いろいろ考えているうちに身体が冷えてきた。とりあえず服を着ようとベッドから降りたタイミングで、静かな部屋でインターホンの音が鳴り響いた。



宅配便か来る予定はない。平日のこの時間ならセールスの類だろうか。



舞はカーテンを少し開け、部屋の窓から外を確認した。



スーツを着ているような人なら居留守を決め込もうとしていたが、そこに立っていた人物を目にするとすぐに衣服を来て階段を下りた。



今あまり人と会いたい気分ではないというのが、舞の心理状況的な本心だった。



しかしそれでも玄関のドアを開けることにしたのは、ここで逃げたら後々後悔すると本能的に悟ったからである。






「――こんにちは平野さん、具合はどうかしら?」



「こんにちは神部さん、最悪だよ。今までの人生で一、二を争うレベルでね」



「そう。じゃあ上がらせてもらってもいいということね」



「あなた国語の成績悪いでしょ」



「嗅覚には自信があるのよ。速斗の匂いが漂っている」



沙月はそう言うと舞の返答を待つことなく中に入り、その手で扉を閉めた。


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