第16話 沙月の問いかけ
記憶の一部を失っている……?
怒ったり泣いたりと、沙月にしては感情の起伏が激しいと思っていたら今度はこれだ。また俺をからかっているのだろうか。
要は俺が記憶喪失だと指摘しているのだ。
そんな小説や漫画の世界みたいなこと、俺の身に起こるわけがない。
「俺はちゃんと覚えているよ、沙月と付き合っていた時のこと」
ここで俺まで熱くなったら駄目だ。冷静さを保ちつつ、沙月との間にある謎の記憶の食い違いを紐ほどいていかなければ……。
「私の誕生日はいつ?」
涙を拭った沙月は、俺を試すかのような質問を投げかけてきた。
「九月十一日」
俺のお父さんと同じだ。だからすぐに覚えた。誕生日プレゼントは何にしようか考えていたけど、その少し前に別れた。
「初めてデートした場所は?」
「駅の近くの動物園」
当時ペット禁止のマンションに住んでいた沙月は、ライオンやキリン、像といったここでしか見られない動物そっちのけで小動物のふれあいコーナーにずっと入り浸っていた。
その時俺がデグーという動物を飼っていると話すとむちゃくちゃ羨ましがられた。
『きなこ』と名付けた雌のデグーだけど、引っ越すときどうしたんだっけ。
「告白したのはどっちから?」
「沙月から」
何回かデートを重ねたある日の放課後、突然の雨に傘を持って来ていなかった俺は下駄箱で止むのを待っていた。
その時沙月がやってきて傘に入れてもらった。そして帰り際『お礼なんていらないから私と付き合ってよ』と言われ、俺は首を縦に振った。
俺はいつ沙月のことを異性として意識するようになったんだろう。
「私が転校してくる前に最後に会ったのは?」
「中学の卒業式……?」
これは捉え方によって変わる。三年の時、俺と沙月はクラスが別だった。卒業式が終わって解散すると外で友達同士で写真を撮ったりしたけど、何度か沙月とすれ違ったのは覚えている。
目すら合わなかったけど、それを会ったというのならその日が最後だ。もし沙月の中の会うの定義が俺と異なれば、もっと遡る必要がある。
「あなたが平野さんと初めて会って話したのはいつ?」
「は……?」
「答えて」
「入学式の日だったと思うけど」
沙月自身が答えを知らないことを訊いてどうするというのだ。
沙月はさっきの涙のせいか目元が少し腫れているけど、今はいつも通りの凛とした表情に戻っていた。
ふざけているようには思えない。沙月の中で何か意味があってのことなのだろうか。
「私と初めてキスをしたのはいつ?」
「キス……?」
記憶を辿る。
けど俺と沙月がキスを交わす情景は浮かんでこなかった。描こうとすると、そこに現れるのは目を瞑った平野の顔だ。
だって沙月とは、一度もそんなことしていないのだから。
手を繋いだり、正面から抱きしめたことは何度かある。
でもそれ以上のことはしなかった。もちろんそういう知識はちゃんとあったし、俺も彼女が初めてできたってことで、もしかしたら……という期待もしていた。
にも関わらずプラトニックな関係が続いていた理由としては、単に俺に勇気がなかったからである。
男らしく自分から――ってのには気恥ずかしさと、拒絶されたらどうしようと常にネガティブなことを考えてしまっていたことに原因があった。
「沙月とは一度もキスはしていない」
「私とは……ね」
しまった。意味深な言い方になった。
「いや、これは特に――」
「訊きたいことは大体訊けたし、今日はこのぐらいでいいか」
俺が言い訳を考えようとしたところ、沙月は立ち上がって持ってきたカバンを肩に引っ掛けた。
「帰るのか……?」
「帰ってほしくないの?」
「えっ、それは……」
俺も立ち上がって部屋のドアを開ける。
ただの尋問ならお断りだけど……。昔のように他愛のない会話を続けるのなら悪くないと思っている。
「冗談よ。後のことは私に任せてちょうだい」
「後のこと?」
「こっちの話よ」
何を言っているのかさっぱりだ。結局俺の記憶がどうたらって話もそれっきりだったし、やっぱりあれも沙月のおふざけの一つだったのか……?
けどそれにしては、あの泣き顔は到底演技によるものとは思えなかった。そこだけが引っかかる。
「あと最後に、さっきの質問だけど一つを除いて全部間違っているわ」
「えっ…………」
と、脳天をハンマーで叩かれたかのような一撃を喰らい、しばらく立ち尽くす俺に沙月は顔を寄せ――
そっと唇を触れ合わせた。
「これで全部間違いになったわね」
そう言い残し沙月は帰って行った。
どのくらいの時間が経ったのだろう。跳ね上がった心臓の鼓動が落ち着くまで、俺はその場から動けなかった。
おばあちゃんが帰宅した物音で我に返った俺は、思い出したかのように勉強机に向かった。
そしてその引き出しの奥から、一年前平野と交わした契約書を引っ張り出した。
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