第15話 別れてない
***
俺が今住んでいるおばあちゃんの家に人を呼ぶのは初めてだった。
その最初の人がまさか沙月になるとは一体誰が予想できようか。
そもそも平野の家とは違い、ちょっと外から蹴るだけで崩れ落ちそうな年季の入った家に友達を招こうなんて、考えたこともなかったのだが。
体重を乗せるたびに軋んだ音を奏でる階段を上り、沙月を部屋へ案内する。
「見ての通り何もないけど、適当に座って」
「ええ」
緑色の絨毯に、布団と勉強机。ちゃぶ台と変な模様の座布団。それが俺の部屋にある全てだ。
特にこれといった趣味もなく、物欲も同級生と比べたら少ない方だと思うのでかなり質素な部屋だと感じるだろう。
沙月はあまりそういうのを表情や態度に出さないから反応は薄い。
荷物を置いた沙月は、青と緑の座布団のうち青い方に座った。一応お客さんだから飲み物ぐらいは出そうと俺は一旦部屋を出ようとした。
「——それで、あなたは平野さんの家で何をしていたの?」
けどやっぱりやめた。
逃げるな――という強い圧力。私が納得するまでこの部屋から出るな――そう言われている感じがしてならなかった。
冷気を纏う沙月にひるんだ俺は回れ右をし、ちゃぶ台を挟んで緑の座布団の上に腰を下ろした。
「平野に呼ばれたから行っただけだ……」
「わざわざ学校をズル休みしてまで、それほどの仲ってこと?」
「ただの友達だよ」
これは俺一人の問題というわけではない。さっき平野に、沙月にバレたかもしれないという趣旨のメッセージを送ったけど、返事がきた気配はない。
つまり俺が自分で判断しなくてはいけないのだ。
何とか誤魔化すか、嘘をつくか、全部話してその上で沙月に黙っていてくれるよう頼むか。
選択肢自体はいくつかある。そしてそのどれもに、不安はあった。
「昨日一緒にお昼食べていたときは、家に呼ぶような仲には見えなかったのだけど」
「仲良くしすぎて、変な噂を立てられるのが嫌なんだ」
そりゃそうだ。むしろそれだけでただならぬ関係だと悟られるようだったら、もうとっくに破綻している。
沙月に睨まれ、縮こまりながら受け答えする俺。
これじゃあまるで尋問されているみたいだ。何も悪いことなんてしていないのに……。
――その時ふと思った。
何で沙月はご機嫌斜めなんだろう、と。
俺が学校をサボったことは悪いことかもしれない。先生に怒られるならまだしも、沙月には何の迷惑もかけていないのだから、どうこう言われる筋合いはないはず。
更に言えば、俺が平野の家に行って何をしようが沙月には関係のない話だ。
昔のようにまだ俺が沙月と付き合っていたのなら最低のクズ男だけど、今はそうじゃない。
さっきも外で沙月を無視することだってできた。けどそうしなかったのはなぜだろう。自分でもよく分からない。
沙月に逆らったらあとで何倍にもなって返ってくる――付き合っていた時の記憶を身体が覚えていて、本能的に従ってしまったのか。それとも、沙月には変な誤解をされたくないと、心のどこかで思っていたのか。
「——ねえ速斗。私のことは好き?」
「…………は?」
「だから、私のことが好きなのかって訊いているのよ」
どうしたんだ急に。沙月の表情に変化はない。これまでの会話の流れを一切乱すことなく同じ口調、リズムで問いかけてきた。
「……好き……だったよ」
少なくとあの頃はそうだった。ていうか好きでもない人と付き合ったりしない。
「今は? 平野さんと私だったらどっちが好きなの?」
「何でそこで平野が出てくるんだよ」
「何で? よくそんなことを言えたものね」
今度は変化が見て取れた。沙月は眉根を寄せ、膝の上で拳を強く握っていた。誰がどう見ても怒りの頂点に達しかけているのは明らかだ。
どのタイミングで何が引き金になったのかは不明。けど俺の方もイライラが積もり積もって爆発寸前まできていた。
さっきから遠回しの質問ばかりして、自分の気に入らない答えだと不機嫌になる。本心を見せようとせずこっちの内情を探るだけの沙月が悪いんだ。
そして俺は、とうとう沙月にとっての地雷を踏みぬくことになる。
「俺たちはもう別れて恋人同士じゃないんだから、誰と何しようが俺の勝手だろ」
沙月は口を閉じたまま、静かに俯いていた。
言い過ぎ? そんなわけない。当たり前のことを言っただけだ。今の沙月に、俺を縛る権利なんて一切ない。
「…………て……いわ」
「今何て……?」
人が変わったかのようなか細い声で、沙月が何かを呟いた。
怒っているのか、今は両手だけでなく全身が小刻みに震えている。ビンタの一発か二発は覚悟すべきか。
俯いていた沙月の顔が勢いよく上げられた。来るか――と、歯を喰いしばった俺は己の目を疑うほどの信じられないものを見た。
充血した瞳。そこから一粒、また一粒と、透明の涙がこぼれ落ちていた。
「別れてなんかいない……。ずっと一緒にいようって約束していたのに、急に私の元からいなくなるもの。でもあなたも私も、別れようなんて口にしていないわ」
俺は呆然とするしかなかった。
それは沙月が見せた泣き顔にびっくりしたってのもある。けどそれとは別に、沙月の今の言葉に違和感を覚えたからだ。
俺が沙月の元からいなくなった? いや逆だ。沙月が俺の元からいなくなったんだ。だから俺たちの関係はそこで終わった。
俺は当時のことを思い出そうと、脳に保存されている記憶を呼び起こそうとする。
すると沙月がまるで心でも読んだかのように首を二度振って、「無駄よ」と言った。
「——最初は半信半疑だったけどやっぱり本当だったのね」
俺が何も言わないのを見越しているのか、沙月は一息入れて続ける。
「速斗、あなた私と付き合っていた時のことほとんど覚えていないでしょ」
だって――
「記憶の一部を失っているのだから」
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