第17話 契約と記憶


 契約書というのは物凄い効力を持つ――と前にテレビのニュース番組か何かで見た。



 こんなたった紙切れ一枚がそんな力を持っているというのか。それも高校生同士が交わした契約に。 



 契約書といえば、バイトを始めるときと半年ごとの更新時にもサインをしてハンコを押した覚えがある。



 内容はその時に全て目を通したけど、書いてあることが多すぎて思い出せと言われたら全部は思い出せない。



 けどもしその契約書に俺が見落としていた理不尽なことが記載されていたとしたら、俺はそれに従わなければいけなくなるのだろうか。さすがにそんなヤ〇ザみたいなことはないと思うけど……。


 

 それに比べたら、俺と平野の間で結んで契約はかなりシンプルなものになっている。



 使わなくなったノートや小物、小説などいろんな物がぎゅうぎゅうに押し込まれている引き出しの中から一年ぶりに外の世界に戻ってきたA4のルーズリーフは、ファイルの中にしまっていたにもかかわらずしわくちゃになっていた。



 ちゃんと契約書を書こうと提案したのは平野の方だった。



 その時の俺の心境としては、面倒くさいなあ……ぐらいにしか感じていなかった。



 平野とは出会ってまもなかったから、律儀な人という印象を抱いた覚えがある。


 

 ——どこから来たの?


 ——やっぱり都会出身だから、もう向こうではヤリまくりなんでしょ?



 出会って十分後ぐらいには、そんなこと言ってた気がする。思えば平野は最初から都内在住の人に対する偏見がおかしかった。



 しわのついた契約書を手で伸ばし、ちゃぶ台の上に置く。



 平野がパソコンのワードを使って作成した契約の中身を改めて読み直した。いくつかある項目の一つが目に留まった。



 ・この契約はどちらか一方が恋愛感情を抱いたら終了となる。


 

 あの平野の言葉が、今もずっと頭から離れない。



 状況がどうであれ、女の子から好きと言われたのは人生で初めてかもしれない。



 ……沙月は……どうだったかな……。沙月の口から直接そういう言葉を聞いた覚えはない……。



 あまり言葉でも行動でも伝えるような人じゃないから。沙月はどちらかと言うと、『あなたのためにこれをやってあげたのだから、代わりにこれをしなさい』みたいな感じで自分のしてほしいことを俺にやらせてきた。



 宿題写させてあげるから、カフェに連れてってとか。お菓子あげるから、手つないでとか。



 まあ当時の俺は沙月のそういうツンデレに近いところが可愛いな……って思っていたりしたんだけど。



 沙月と平野。まだ新学期が始まったばかり。これから一年間同じクラスメイトとして過ごしていくんだ。



 平野は学校ではこれまで通りと言っていた。沙月も多分余計なことはしないはずだ。



 沙月には俺と平野が特別な関係だと悟られ、平野にもそのことは一応スマホでメッセージを送った。



 平野とのトーク画面を確認してみるが返信どころか既読すらついていない。



 新規メッセージにバイト先の店長から、新たに一人雇って土曜日俺とシフト被っているからよろしく的なメッセージが届いていた。



 人手が増えるのはありがたいことだけど、今はそんなことどうでもよかった。

 

 









***



 人生初の東京。



 噂では道を歩いているだけでモデルや芸能関係のスカウトに声をかけられるとかかけられないとか。



 顔は整っている方だし胸も同級生と比較したらかなり発育は良い。今まで何度も告白も受けてきたし、童顔とちょっと背が低いことを除けば自分ももしかしたら……という期待もほんの少しだけあった。



 しかしそんな淡い期待も、すぐに散ることになった。



 ——何なんだこの人の多さは。



 町内の夏祭りなんかとは比べ物にならないほどの人人人。



 両親とは渋谷駅を出てすぐに、はぐれてしまった。



 無限に湧いてくる人の多さに圧倒され、その場から動くことすらできない。



 とにかく両親と合流しなくては――と思い、スマホを取り出すと――



「あっ、すみません」



 前から歩いてきた若い男性と衝突し、スマホが手から滑り落ちる。両耳にイヤホンをつけて歩きスマホをしていた若い男性はほんの少し頭を下げると、そのまま人ごみの中に消えていく。



「えっ、嘘……」



 悲劇はそれだけではなかった。画面にひびが入ったスマホがブラックアウトしたまま、全く反応しなくなったのだ。



 画面のどこをタップしても、電源ボタンや音量調節のボタンを長押ししても、SIMカードを差し直しても再起動することはなかった。



 未知の土地で唯一の生命線を失う。その事実を認めたとき、一気に恐怖が襲い掛かってきた。



「どうしよう……」



 自然と涙がこぼれてくる。



 周りの人はこっちを見やるも、その後すぐに何も見なかったかのように歩き去っていく。それもほとんどが、気味悪いものでも見るかのような視線を寄こしてきた。



 地元ではただ歩いているだけでも、見知らぬ人が気さくに挨拶してくるというのにここは本当に同じ日本なのだろうか。



 段々と行き交う人たちが、人の皮を被った精巧なアンドロイドにしか見えなくなってきていた。



 交番へ行く――そんな当たり前のことすら思いつかないほど、精神的に参っていた。



 そんな時だった。



「——大丈夫ですか?」



 何百人と脇を通り過ぎていった人の中で初めて、目の前で立ち止まってくれた人が現れたのは。



 大げさかもしれないが、自分を認識してくれた人はちゃんといた。 



「あの、お父さんお母さんとはぐれて、スマホも壊れて……」



 目元を拭い、鼻をすすりながら、バキバキになったスマホを見せる。



「あー、なるほど……」

 


 涙で視界がぼやけていたため、しっかりとその人の輪郭を捉えたのはこのタイミングだった。



 もっと大人の人かと思いきや、意外と自分と変わらなさそうに見える。高校生ぐらいだろうか。



 今は夏休みだし、平日の昼間に外にいてもおかしくはない。



「とりあえずもう少し静かな所に行きましょうか。俺のスマホ貸すんでそれで家族に電話してください」



 手を引かれ、白いポロシャツを着るその人の背中から目が離れなかった。



 ――我ながらちょろすぎる。こんなの吊り橋効果のようなものだ。


 

 後になって何度も自分にそう言い聞かせるも、一度生まれたその想いは決して消えることはなかった。



 平野舞15歳。高校受験を控える中学三年生。



 名前も知らない初対面の人に恋をした。

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