第10話 昼休み
校内で平野からこんな呼び出しをくらったのはこれが初めてだった。というより、一緒にお昼を食べたのも俺の記憶じゃ一度もない。
これまではずっとクラスメイトとして、それ以上でもそれ以下でもない自然な関係を続けてきたというのに。
それにさっきのあの言葉はなんだ。まさか沙月の持ってきたバナナで発情したとでもいうのか。
昼休みの時間は、まだあと十五分ほど残っている。このまま放って無視することもできるけど、それのせいで別の無茶な要求でもされたら困る。
一年前に平野と交わした契約は、ちょっとだけ俺が不利な内容になっている。俺はできる限り平野の願いをかなえる必要があるし、それは契約云々を除いてもそうしてあげたいという気持ちは俺の中にあった。
平野は保健室の方へ向かったらしい。
俺は階段を降りて一階を目指す。小学校、中学校と上がるにつれて廊下にいる生徒の数は減っているのは気のせいではないはず。
昔はわずかな時間でもボールを持って靴を履き替えてグラウンドに飛び出していたというのに、あの頃のエネルギーは一体どこに消えてしまったのだろう。
うちの校舎の西側は一階にクラスの教室がないせいか、一段と人の数は少ない。現に今歩いているのも俺一人である。
近くにある教室は技術室やカウンセリング室といった、ほとんど人の出入りがない教室ばかり。保健室の扉には、今先生は席を外していると印刷された紙が貼られている。電気も消えていて真っ暗だ。
ここはたまに通ったりするけど、この張り紙を見る回数は結構多い。高校生になって本気で体調不良になって駆け込む人なんてあまりいないんじゃないかと、俺は勝手に想像した。
平野が向かったであろうトイレは、この保健室のすぐ隣だ。去年何度か利用したけど、そもそもの使用回数も少ないせいか他の二階や三階のトイレに比べて、かなり奇麗な印象がある。
さすがに男子トイレにいるってことはないよな……。
かと言って、俺が女子トイレの中を覗くこともできない。
仕方ない、連絡するか。俺はスマホを取り出して平野にメッセージを送ろうとしたときだった。
——ガラガラ、と無人のはずの保健室の扉が開く音が聞こえ、ビクッと肩を震わせた俺が振り向くと。
「入って」
顔だけを覗かせた平野が、俺を呼んだ。
昼休み終了まで残り十分。
***
——二人ともどこに行ったんだろう。
昼食を終えて自分の席に戻った神部沙月は、ついさっき立て続けに教室の外に出た平野舞と滝沢速斗、それに自分を誘ってくれた田城蒼樹と一緒にお昼を共にしていた。
なぜなんの面識もない蒼樹が声をかけてくれたのかは分からないけど、きっと速斗に頼まれてのことだろう。
恥ずかしがりやの速斗が考えそうなことだ。そのことでからかってやろうと思った沙月だったが、それは自重した。
さすがに転校二日目で馴れ馴れしくするのは、周りのクラスメイトがいろいろな想像を掻き立てる。
今はまだ――と堪え、沙月は学内では初対面として速斗と接することにした。
本当は今すぐにでも後ろから抱きしめたいし、頭を撫でてもらいたい。特に昼食時なんて手を伸ばせばすぐ触れ合うことのできる距離にいたというのに、何もすることができなくて危うく禁断症状が出るところだった。
——昨日バナナを買っておいて正解だったわね。
何とかバナナを速斗のそれと妄想しながら食べることにより、最高潮に達しかけていた欲求を抑えることができたのであった。
今日はこうして乗り越えることができたが、この先卒業まで生殺しが続くことは沙月としては到底耐えられるものではない。
中学時代の速斗との熱い日々を思い出して一人で慰めるのも、今は本人がすぐ側にいるというのにもったいなく感じてきていた。
その点、昨晩は至福の時間であった。近所のスーパーに速斗が働いていると知ったのは本当に偶然なのだが、それもまた運命なのであろう。
あの瞬間だけは、昔に戻った気分だった。興奮しすぎたせいで、ついつい何度もレジを周回してしまうほどに。
——今ここで電話をかけたらびっくりするかしら。
速斗の方も、どうやら自分との関係は秘密にしておきたいというのがさっきので分かった。
だからこそ、沙月からの着信にびっくりした速斗が、おどおどした可愛らしい表情で教室に戻ってくる様子を見たいのだ。
ならばすぐ行動に移すべし――カバンの中に手を突っ込みスマホを探していた沙月は、一枚のクリアファイルが手に当たりそれを取り出した。
——忘れていた。
その中には転校や諸々の手続きの都合で、学校に提出する書類がいくつが挟まれている。
今日中に出せと言われていたのを思い出した沙月は溜め息まじりに立ち上がると、透明のクリアファイルを持って職員室に向かうことにした。
転校したての沙月は、まだどこに何の教室があるのかほとんど把握していない。
けれども職員室には何度か入っているので、そこだけは大体わかる。
しかし問題は、職員室に行くときは毎回正面玄関からのルートで辿っていたため、それ以外の道で行くのは初めてだということだった。
――でもまあ、一階にあるのは分かっているから適当に歩いていたらすぐに見つかるでしょう。
まだ昼休みが終わるまで十分ほどある。
どうせなら――と、沙月は探検もかねながら一階の教室を見て回りつつ職員室を探すことにした。
新規登録で充実の読書を
- マイページ
- 読書の状況から作品を自動で分類して簡単に管理できる
- 小説の未読話数がひと目でわかり前回の続きから読める
- フォローしたユーザーの活動を追える
- 通知
- 小説の更新や作者の新作の情報を受け取れる
- 閲覧履歴
- 以前読んだ小説が一覧で見つけやすい
アカウントをお持ちの方はログイン
ビューワー設定
文字サイズ
背景色
フォント
組み方向
機能をオンにすると、画面の下部をタップする度に自動的にスクロールして読み進められます。
応援すると応援コメントも書けます