入道雲、さんかく

しろたなぎ

夏休み

 高校に入って初めての夏休みが訪れようとしていた。校長先生の話が長いのはどこも同じらしい。後に控えている保健の先生のお話を聞く体力が削がれていく。体育館の蒸し暑さは想像以上で、自分が真っ直ぐ立てているのかわからなくなってくる。校長先生の残像で遊びながら、部活のことを考えた。美術部の中で八月に出す作品が未完成なのは、私と二、三年生の先輩二人の計三人だけだった。そして私は、先輩達のことが大好きであった。顧問の先生が夏休み中実家に帰省しなければいけないらしく、少しの間三人で美術室を使えることになっていた。夏休みが潰れて面倒だとは全く思わない。家にいてもやることがないし、もう完成済みの部員より長い時間をかけて作品に向き合えるのはとてもわくわくすることだし、先輩達と一緒に過ごせるのなら夏休み全部美術室で費やしてもいいくらいに先輩達が大好きだから。休憩時間に課題を見てもらう約束もしてある。楽しみだなぁ、と耽っていると、膝の裏を汗が伝った。校長先生の話は蝉の鳴き声と混ざり合って、抽象的な夏の風物詩のひとつと化していた。薬物には手を出さないしちゃんと無傷で登校するし夜道は出歩かないって約束するから、早く美術室に行きたい。そればっかりだった。

 ホームルームが終わってすぐ教室を飛び出した。安全かつ迅速に階段を降りて、廊下を走った。階段が終わればこっちのもの、という建物への謎マウントがあった。廊下は走っちゃいけないけど放課後は大丈夫、みたいな謎ルールもあった。美術室は少しだけ開いていて、先輩の笑い声が漏れている。

「お疲れ様です!」

「あー、また走ってきたの? お疲れ様」

「急がなくても逃げたりしないのに」

この雰囲気が好きだ。末っ子みたいに扱ってくれるこの空間が世界中のどこより居心地がいい。一年生だけ美術室と遠く離れた場所に教室があるから、早く部室に行きたい私は毎回走ってしまう。先輩の言う通り、何も逃げたりしないのに足は動く。えへへ、と笑って画材を準備する。まだ冷房はついたばかりだけど、木陰になっているからそこまで暑くはなかった。これから何日もここにくるだけの生活が始まると思うと、わくわくが止まらなかった。


 夏休みが始まってから十日ほど過ぎていた。夏の午前、降り注ぐ針のような日差しに体力を奪われてはいるものの、美術室というオアシスを思い浮かべると止まった足も軽くなる。今日は早く起きたから先に行って冷房をつけておこう。先輩達が苦しくないように。

 校舎の影に入ると涼しい風が吹いて、やっとまともに呼吸することができた。今日は猛暑日になる予報が出ていたから、朝のうちに家を出て正解だったかもしれない。作品も今日明日あたりで完成しそうなくらい順調に色が付いてきた。がんがんに冷房の効いた職員室で鍵をもらって、ひとり部室の冷房をつけた。窓の外には高い入道雲、木漏れ日、蝉の声。私の上履きが床を擦る音、ねぼすけな冷房。すっきりと完成してしまっているような気がした。

 完璧で不完全な部室で、三時間ほど集中して絵の具を重ねていた。完成まであと少しというところでどっと疲れがきて、机に突っ伏した。頭の中が川みたいになって、さっきまでぐるぐると考えていたことがさらさら流れていく。ああああ疲れた。先輩がいないとこんなにも癒しがないのか。改めて先輩達への愛を実感する。ちょっと気持ち悪いかもしれない。でも本当のこと。カルピスでも飲もうと財布を持って廊下に出た。冷房で冷え切った身体は真夏の廊下に一瞬の安らぎを覚え、すぐにその温度を嫌悪した。暑いな。先輩達、大丈夫かな。ぼーっと自販機までを歩いた。

 がこん。冷え冷えのカルピスを手にし、すぐに日陰へと非難した。この眩しさは本当に凶器だ。どれだけ日焼け止めを塗っていても痛いものは痛いし熱くなるものは熱くなる。蝉もなんだか盛り上がってきている気がする。五感が夏に支配されてめまいがした。

「おはよう、早いね」

 先輩の声で自我を取り戻せた。死ぬかと思った。夏の魔物に連れ去られるところだった。

「おはようございます。先輩はゆっくりでしたね」

「ちょっと夜更かししちゃってね、夏休みだし」

「あはは、夏休みですもんね。なにしても許されます」

 先輩とふたりで廊下を歩いた。一番上の先輩はまだらしい。冷えた天国で先輩とふたり、キャンバスを彩った。

 沈黙を破ったのは先輩だった。筆を置く音と共に大きなため息が聞こえてきた。

「ふふ、お疲れですか」

「うーん、うん、そうね」

「休憩しますか? お菓子持ってきましょうか」

「それよりお話したいな」

 先輩がこちらを見た。いつもより目の色が読めない。いいですよ、と言ったけど、ほんの少しだけ嫌な感じかした。

「あのね、……あぁ、別に描いてるままでもいいんだよ」

「や、先輩との時間が楽しみで学校来てますからね。先輩最優先ですよ」

「そっか。ありがとね。ほんとに可愛い後輩を持ったな」

 先輩の眉は八の字になっていた。可愛いけども先輩の悩ましそうな顔はあんまり見たくなかった。

「実はさ、私好きな人がいて」

「おお!」

「えへ……それがさ、うんと、……引かない?」

「引きませんよ! 絶対」

「絶対か、ありがとありがと」

 わしゃわしゃと頭を撫でられる。私、汗かいてないかな。私こそ引かれてないかな。

「先輩なんだよね」

 先輩の手は変わらず私の頭を摩擦したまま。先輩。そっかぁ、先輩か。先輩は年上が好きなんだな。

「ほへえ、先輩のどなたです? 生徒会長? 美化委員会の人とも仲良いですよね」

「美術部の」

「はえぇ」

 わお。わおわおわお。わおわお。先輩ってあの。私が知ってる人。だ、大好きな先輩が大好きな先輩のことを大好き。愛に満ち溢れている。ど、どういうことだ。私はどうしたらいいんだ。先輩の手がだんだん強くなってくる。

「あ、別にあれね、邪魔だとか言いたいんじゃなくって。ほんとに。むしろ君には感謝してるくらいだし、三人でいられて幸せだよ」

「はひ」

「ただ他の人から見て自然に接せてるかなって。それにあの、誰かに言いたくなっちゃって。暑いからどうにかしてるんだよね、今」

「先輩、手強いです。はげます」

「ご、ごめん」

 ようやく頭を自由にしてもらえた。首の疲れを感じながら顔をあげると、耳まで真っ赤な先輩がいた。可愛いなこの人。

「普通に仲良さげに見えますよ」

「そう? 普通にか、ふつうに……」

 嬉しそうな悲しそうな、先輩のそんな表情、初めて見た。私もなんだか嬉しくて悲しかった。というか、うん、少しだけ、さみしかった。別に先輩のどちらかを独り占めしたいなんって思ったこともないけど、置いていかれるのは嫌だな、とちょっと思ってしまった。

「応援しますよ、先輩のこと」

 でも先輩が悲しい顔をするのはもっと嫌だった。

「応援……そっか、ありがとう」

 照れた先輩の顔が可愛くて、なんだか胸がいっぱいになった。先輩にはずっと笑っていてほしいと思った。大好きな人だから。

「よし! 聞いてくれてありがとう、すっきりした」

「いえいえ、大事な話をしてくれてこちらこそありがとうございます。先輩達の幸せを一番に願ってます。可愛い後輩代表として」

「ほんとにいい後輩だね、ほれおやつをあげよう」

 休憩が終わってそろそろ作業に戻ろうかというところで、大寝坊の先輩が来た。いつものように挨拶をして、いつものように各々絵を描いて、駄弁ったり数学をみんなで解いたり。いつもと同じだけど、なんだか歯がゆかった。先輩を交互に見つめてはにこにこした。先輩と先輩がずっと一緒だといいな、そう願った。青色の絵の具がついた筆を洗おうと洗い場に向かったとき、先輩が後ろから「うりゃ!」と抱きしめてきた。冷えた背中に先輩の体温を感じる。

「君のことも大大大好きだよ、可愛い後輩ちゃん」

 少し振り返ると先輩の赤いほっぺたが見えた。えへへへ、と二人笑った。ふたつ離れた席から先輩が飛び込んできて、三人で笑った。この夏休みがずっと続けばいいのに。三人きりの教室を、夕焼けが見つめていた。

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入道雲、さんかく しろたなぎ @Sirota_nagi

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