第69話 夏波の赤い糸
「夏波はどっちの記憶を持ってる?」
どっちとはよ。冬凪を見ると、
「夕霧太夫の記憶か伊左衛門の記憶か。どっちの視点で記憶してるかっていう意味だよ」
それなら、多分伊左衛門のほうだと思う。記憶の中のあたしはずっと夕霧太夫に寄り添っていたから。
「伊左衛門かな」
「やっぱりね」
クロエちゃんはあたしが鬼子として発現したことに違和感を抱いていたのだという。あたしが生まれ変わりのコミヤミユウという人が鬼子使いということもそうだけれど、最初の発現が遅すぎるのが引っかかったのだそう。
「普通はもっと小さい時にやっちゃう。ユウもあたしも小学生だった。ユウは児童公園であたしは教室で発現してしまった」
その時何が起きたかは言いたくなさそうだった。「やっちゃう、してしまった」という言い方にそれが現れている気がした。あたしの場合、駅前でスレイヤーの皆さんに囲まれた時、もし冬凪に止めて貰わなかったら、あの人たちを皆殺しにしてたかも知れなかった。つまり人の中で発現するとはそういうことのよう。
「フジミユやあたしたちも、伊左衛門が鬼子で夕霧太夫が鬼子使いなのかと思っていた時期があった。最後の死闘を闘ったのが伊左衛門だったからね」
けれど最近になってそれは逆だと気がついた。
「ユウがエニシの不思議な力のことを教えてくれた」
クロエちゃんが辻沢ではじめてユウさんと出会った頃、ユウさんは潮時での発現を克服しようとしていた。エニシの力を借りるためコミヤミユウに一晩中手を繋いでもらうことを考えついて、ある潮時にそれを実行した。潮時に発現しないということは、襲い来る屍人や蛭人間、ヒダルを生身の人間のまま迎え撃たねばならないということだから相当苦戦すると覚悟した上のことだった。けれど、ユウさんはそれ以上の危機に直面する。その晩は何故かいつもの屍人や蛭人間、ヒダルは現れなかった。その代わり赤い襦袢や青い半纏を身につけた、灰色の肌、金色の瞳に銀牙が口から飛び出し鎌のような爪を振りかざした、まるで夕霧物語から出てきたような恐ろしく強いひだるさまが大挙して襲ってきたのだった。ユウさんは苦戦しつつも何とかしのいでいたけれど、やはり生身の人間では手負いになってしまい、夜明けまじかには消耗し尽くして闘うどころか歩くことも出来なくなってしまった。そしてひだるさまに囲まれこれで終わりと思ったとき、意外なことが起こった。手を繋いでいたコミヤミユウが突然鬼子に発現したのだ。ユウさんのように獅子奮迅の闘いでひだるさまを倒して行ったのだという。
「それまでユウの中で押さえられていた鬼子がミヤミユに乗り移ったようだったって」
冬凪が、
「夕霧太夫は最後の闘いの時まだ動ける状態じゃなかった。だからエニシで繋がった鬼子使いの伊左衛門に自分の鬼子を託して闘った」
クロエちゃんは、あたしの前髪をかき分けながら、
「夏波もきっと、託されたんじゃないかな」
いったい誰の? あたしは誰ともエニシの赤い糸で繋がっていない。咬み千切ってしまったから。
すると、冬凪があたしの左手を取って、
「あたしには夏波の赤い糸が見えるよ。ほら自分の目で見てみなよ」
あたしは目の高さに掲げられた自分の左の薬指を見た。その根元には赤い糸が結んであるのがうっすらと見えた。そしてその糸の先を目で追うと社殿の暗闇の中に人の形が見えた。
「十六夜?」
ここではない別の次元にいるらしい十六夜がこっちを見て微笑んでいた。その右手の薬指とあたしの左手の薬指が赤い糸が繋がっていた。
「でも、十六夜のエニシの糸は冬凪に繋がってるって」
誰か言ってなかったっけ? クロエちゃんがかなり無理して真剣な表情を作って、
「この世界が不安定になるとき特別な鬼子が生まれる。その子たちは力を合わせてその問題を解決するようにエニシに仕向けられる。その目印としてその子たちは両手に赤い糸が付いている」
あたしの目の前に両手を差し出して見せて、薬指同士で「こことここ」と指した。
「ユウの代、フジミユやミヤミユ、それにあたしが大学生だった20年前、あの世とこの世がひっつくような次元の歪みが生じた。今再び同じようなことが起こりつつあって、夏波たちはエニシにそれを解決するよう仕向けられた特別な子たちなんだと思う」
いきなり世界があたしの肩に乗っかってきた。とんでもなく迷惑な話だけれど、きっと十六夜なら「流れに棹させ」と言うだろう。そしてそのことがきっと十六夜の解放に繋がる、そう信じて進むしかないのだろうと思った。
クロエちゃんは言わなければいけないことを話した反動で黙ってしまった。クロエちゃんたちが経験した「あの世とこの世がひっつくような次元の歪み」についてもう少し聞きたかったけれど、しばらくは無理そうだった。
外で虫の声がしている。山の上はもう秋の装いを始めているらしかった。
「さてと」
クロエちゃんが立ち上がったから出かけるのかと思ったら、社殿の奥に歩いて行っただけだった。そして長い棒を手にして戻ってくると、
「教育員会に怒られるかもだけど」
とその棒を床に突き立てた。それを傾けるとメリメリと音がして一畳ほどの面積の床板が浮いた。
「手伝ってくれる?」
その浮いた床板の隙間に棒を差し入れて持ち上げると床下の暗闇に向って木の階段が伸びていた。
「ロウソク取って来て」
ロウソクを手にしたクロエちゃんを先頭に階段を降りてゆくと、そこにも板敷きの広い空間があった。微かに木の匂いがしている。どこかで嗅いだことのある匂いのような気がしたけれど、埃くささが勝って思い出せなかった。クロエちゃんは板をきしませながらさらに億の暗がりへと進んでいく。そして半畳ほどの四角い枠がある場所に立つと、
「これ持ち上げられる? 前の時はみんなで持ち上げたけどあの時は大勢いたからな」
そこには太い木で出来た格子になっていた。すると冬凪がその格子を掴んで腰を落とすと、
「せい!」
一度で外してしまったのだった。
「すっご!」
その下も空間があった。クロエちゃんが、
「ごめん、冬凪はここにいて。一人で登れる高さじゃないから」
クロエちゃんが暗闇の中に飛び降りて、
「真下に降りてね。結構いろいろ出てるから」
あたしも用心して続いた。
下の空間に降りて、リング端末を照らした。あたしはその照らし出された光景を見て震えた。そこは沢山の木の板が整然と並んだところに太い木材が中央を貫いていて床が婉曲していた。それはあたしの一番古い記憶にあるあの船底そのままだった。あの端の板の壁にユウさんがあたしを抱いて座っていたんだ。そうだ。やっぱりあれは妄想なんかじゃなかったんだ。
「覚えてないと思うけど」
クロエちゃんが言った。
「夏波はここで生まれたんだよ。ユウの胸に抱かれて、かわいい赤ちゃんだった」
やっぱりあたしはユウさんの子だったんだ。鬼子は子を生さないっていうらしいけど、あたしは特別だったんだ。
「でもユウが産んだんじゃない」
あたしは口から出そうになっていた言葉を呑み込んだ。それは「お母さん」という言葉だった。
「ユウとフジミユとマヒとアレクセイ、それとあたしが連れ帰ったんだよ」
連れ帰った? あたしを?
「どこから?」
「地獄から」
クロエちゃんは、ヴァンパイアに殺されて屍人となったコミヤミユウを自分たちが地獄まで追いかけて行って連れて帰ったのだと言った。連れ帰ったものの一度屍人になったコミヤミユウは生まれ変わってしまっていた。その子を夏波と名付けて育てたのがユウさんだったのだそう。でも事情が変わり夏波を施設に預けることにした。その後のことはあたしもよく知っている。
「ま、詳しい話はあたしよりフジミユに聞いたほうがいいかも」
あの学究肌のミユキ母さんが地獄巡りしたっていうのが想像できなかった。でも、これまでタイムワープしたり、ヴァンパイアと一緒に蓑笠の怪物と闘ったり、ハンネで粘着してくる老人に大昔の辻沢を見せられたりしたから、なんかありかもって思ってしまう自分が恐ろしかった。
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