第39話 ヘドロゼリー

 水門下のプールにダイブした辻川ひまわりを呑み込んだまま、真っ黒い水は凍ったように静止していた。それと同期して豆蔵くんと定吉くんにとりついた黒子たちの動きも止まっていた。音が消え、ヘドロの匂いが鼻をつく。突然、それらが一斉に動き出した。時間差で辻川ひまわりのダイブに反応したように黒い水面が大きく波打ったのだ。波頭が水門の高さを越えると、黒い水はヘドロ臭としぶきをまき散らしながら一気に落ち、その勢いで波がコンクリ壁を遡ってプールの底を晒した。その一瞬に辻川ひまわりが運動座りの黒子と対峙しているのが見えた。辻川ひまわりの姿はすぐに黒い水に呑み込まれてしまったが、激しく波が上下するごとに黒子とやり合う姿が見て取れた。波と連動して増殖する他の黒子たちの動きも激しさを増し、飛び跳ねながら豆蔵くんと定吉くんに襲いかかってゆく。冬凪とあたしは黒子が投げて来る釣り糸を避けるためプールの縁を逃げ回るしかなかった。辻川ひまわりは時々波に逆らって黒い水の中から顔を出す。でも、そこから出ることはなく再び黒い水の中に潜っていく。一度、勢いを付けて外に飛び出そうとしていたけれど、黒い水は一つの生命体のように纏わり付いて辻川ひまわりを放さなかった。仕方なくそうしているだけなのだ。そうやって何度か息継ぎのために顔を出した辻川ひまわりが、

「夏波。ウチがあいつとやっている間に首を取れ!」

 と叫んだ。たしかに、黒い水が大きく波立ちプールの底が晒されると、暗黒の水門全体がほの明るく照らされる瞬間があった。その光源の中心に丸い物体があって、黒い藻状のものが纏わり付いていて何かはっきりと分からなかったけれど、どうやら人の首のようだった。

「分かった」

 あたしが黒い水に飛び込みかけたとき、後ろ手に腕を掴まれた。振り向くと冬凪が、

「夏波、泳げないでしょ。あたしが行く!」

 と代わりに冬凪が漆黒の水の中に飛び込んで行ったのだった。ところが水が跳ねる音がしない。恐る恐る縁から中を覗くと、冬凪は沈んでしまわないで大きく揺れる黒い水の上でバランスをとっていた。どうやら黒い水は辻川ひまわりに手を焼いて冬凪を取り込むことを拒んだらしい。ならばあたしもダイブする。すると一瞬だけ、膝くらいまで水に浸かったけれどすぐに水面に吐き出され、ゼリー状の表面を転げ回ることになった。うえ、ヘドロ臭い。ゼリーが食べられなくなりそう。

 水の中で辻川ひまわりが暴れ回るのに従って、ゼリー全体が上下する。冬凪とあたしはそれに合わせて表面を動き回り水底が晒される瞬間を狙って光る物体に迫る。何度かその藻に手が触れたけれど、その度にヘドロのゼリーが打ち寄せて来て、かっ攫われてしまった。指に藻が絡まっていた。やっぱりそれは髪の毛だった。気持ちわる。手を払ってそれを捨て、底が晒されるのを計りながらヘドロゼリーの上を駆け回る。

「まだか?!」

 辻川ひまわりが、黒い水の中から顔を出してせっついて来た。

「闇雲にやってもダメだから、タイミングを合わせましょう」

 冬凪が提案すると、

「10秒後、波を大きく動かす。よろ」

 1、2、3、4、5、6、7、8、9。ゼリーの水位がぐっと下がったかと思うと、波が中央に寄せ集まって、一気に波頭が空につき上がっていった。

「波が落ちたら、底が出る!」

 冬凪が叫ぶ。あたしは波の斜面を螺旋に駆け上がり、波頭が崩れるのに合わせて一気に駆け下りる。波がコンクリ壁を遡り底が晒される。ほの明るいその中心に調由香里の首が見えた。

「貰った!」

 あたしが底に転がる光る物体を抱えると、だれかがあたしの腰のベルトを掴んで一気に水門の外に放り出した。着地もままならず、首を抱えて地面を転がり立ち上がる。水門を見返ると、黒い水が縁より高く沸き立ち、そこにたくさん出来た波頭が朝方のような生首に変化する。それらが蛇のように伸びてあたしに、いや、調由香里の首に向かって襲いかかって来た。あたしは反撃のしかたもわからないから調由香里の首を抱えたまま、その場でうずくまり身構えることしかできない。そこへ黒子を一蹴した豆蔵くんと定吉くんがシャムシールを振るって駆けつけ、襲い来る生首の喉元を切りまくってくれた。それでも生首の数は黒子同様減ることなく次々と調由香里の首に伸びてくる。

「夏波。本体はどこだ!?」

 上空から辻川ひまわりが叫んだ。ヘドロゼリーから解放されたようだった。言われてあたしは辺りに目を凝らす。仲間はずれにされていじけてた奴。そのことにいつまでも囚われてた奴。どこかに隠れているそいつを探す。すると嫌な視線を感じた。ここからすぐ側の松の梢にどんよりとした黄色い目があった。

「いた! その松の梢に蓑笠が!」

 辻川ひまわりは松の梢に飛びつき蓑笠を捉えると、頭と胴とを掴み一瞬でひしぎ切った。あたしに迫る生首がボトボトと音を立てて地面に落下し次々と黒い煙を発して消えてゆく。そして最後の一つが霧消してなくなると、雄蛇ヶ池に静けさが戻り、北岸に打ち寄せるさざ波の音がだけが聞こえるようになった。

「夏波。よくやった」

 上から猛烈なニセアカシアの香りが降ってきた。見上げると大きな翼を広げた辻川ひまわりが舞い降りて来ていた。着地してこちらに歩み寄ってきたときには翼は消え、ニセアカシアの香りもなくなっていた。

「顔を拝みたい」

 とあたしから光る物体を受け取ると、全体に巻き付いた黒髪をかき分けて色のない顔を露わにした。長い間水に浸かっていたとは思えないほど状態はよかった。目は閉じていたので冬の月のような瞳は拝めなかったけれど、アルカイックスマイルは健在だった。まさに絶世の美女。傾城、別品とはこの人のためにある言葉。首を持ち去った者の気持ちもちょっとだけ分かる気がした。辻川ひまわりは、その顔を見つめながら、

「由香里さん。あなたの遺志はウチらがきっと継いでみせるよ」

 と言って鼻をすすったのだった。

 冬凪が合流し帰るつもりでいると、遊歩道の先から懐中電灯の光が近づいてきた。その光が目の前まで来て、

「やあ、ごめんごめん。遅くなってしまった。ホンダ・バモスTN360があの砂利道でまたエンコしちゃって」

 鞠野フスキだった。なんか知らんが、また言い訳してる。

 冬凪が、

「調由香里の首を見付けました」

 それまで笑顔だった鞠野フスキが真剣な表情になって、

「そうか。ここにあったのか」

 と辻川ひまわりに歩み寄り、調由香里の首に両手を会わせた。そして、

「この人の首が人柱なんだね」

「その感じはあるけど充分でなさそう」

「体だね。盗まれた」

「多分」

 どうやら、まだ人柱は完全にブッコ抜けたわけではなさそうだった。

 桟橋の駐車場に車を置いてあるという辻川ひまわりとは水門で別れた。調由香里の首は辻川ひまわりが預かると言って持って行った。あたしたちは放水路脇を通ってバス停に戻ることにした。

 水門下を覗いて見た。来た時とは変わって水は底のほうに少しあるばかりでほとんど干上がっていた。

「これじゃあ、ブルーギル、釣れないね」

 と冬凪に言うと、

「ブルーギル? なんのこと?」

 と、とぼけるのでちょっとイラッとした。

「来るとき、ここでブルーギル沢山釣ったって言ってたじゃん」

「そんなこと言わないよ。ここはよく子供が溺れるから来ちゃダメな場所だったし、あたし釣りなんてしないし」

「雄蛇ヶ池に釣りしに来てたんじゃなかったの?」

「ボートに乗りに来てたんだよ」

 放水路の周辺の来た時感じた別世界にずれ込んだような重苦しさは消えていた。冬凪はあの時きっと、別世界の何かに想念を持って行かれたんだ。だって冬凪が、あたしの心の傷を逆なでするようなことを言うわけないのだから。

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