覚えてない
蘭野 裕
覚えてない
十年来の友達の月乃は忘れっぽくて、時々困ってしまう。
今日も、電車で出かけようと誘われて駅で待ち合わせしたが、月乃は目当ての電車が運休なのを忘れていた。やっと次のに乗れば降りるとき、手すりに掛けていた傘を忘れそうになるといった有り様。
映画の前にランチをとる予定を変えたので時間が余った。
あたりをそぞろ歩きながらこんな話をした。
「映画に月乃から誘ってくれるなんて珍しいね」
「ホラーは一人で見れないの。それにミエコの好きな俳優さんが出てるって」
「覚えててくれたんだ」
好きな俳優といっても出演作を必ず見るほどの熱意はない。だから映画館に来るのは久しぶりだ。
街並も変化している。
「地図には目印みたいに描いてあった美容院が、なかなか見つからなくて焦ったよねぇ」
「あれ、そうだっけ? 覚えてない」
月乃はぽやんとした表情で答えた。それがこの人の良いところとも言える。
一緒に焦ってくれることはないが、急かされることもない。私はその性格に助けられていたのだ……と就職してから気づいた。
「ねぇミエコ、そこのカフェ、改装したけど今もココアにマシュマロが入ってるよ」
月乃は忘れっぽいのではなく、記憶に残りやすいもののジャンルが私と違うだけなのではないかという気もする。
映画は面白かった。好きな俳優の出番が想定外に少ないのが気にならないくらい。
見終わってから、マシュマロ入りココアを飲みながら感想を話しあった。
「ミエコの推し、どうだった?」
「ははは。序盤に死んじゃったよ。あやうく誰の役だか謎のままになるところだった」
「えぇ〜。付き合わせちゃってゴメン」
「いいよ。映画自体面白かったし。そのうちもっと大きな役をもらうよ」
「なら良かった」
それから特に怖かった場面の話になった。
人間のほうが怖い話かと思ったらそんなことはなかったとか。
「やったか!?」の直後に分かっていても驚いたとか。
「ねぇ月乃、主人公がまだ廃墟に着く前の、ドライブする場面も怖くなかった?」
ピンと来ないのか、月乃は答えない。
「ほら、車の窓に人の顔が映ったじゃない」
月乃の顔がこわばる。
「……見たの?」
「うん。あの場面、一緒に乗ってる人とかいなかったよね。どういう意味だったんだろう」
月乃はまた、ぽやんとした顔に戻った。
「え……そんなことあったっけ」
「え……って、あなたも見たんだよね? あの異様に陰気くさい顔が窓に……」
「窓って、主人公が運転してた車の?」
「そうそう」
「ミエコごめん……覚えてない……」
ちょっと待ってよ。
もしかして、見えたの私だけ?
(了)
覚えてない 蘭野 裕 @yuu_caprice
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