第57話 まずは基礎から
「まずは、剣技の基本。素振りから始めるぞいっ」
正一爺が、一切無駄のない美しい所作で、勇者の大剣を鞘から引き抜いた。
サアァンと乾いた音を立て、その極上の刃身が姿を現す。鏡のように磨き上げられた刃身は、周囲の景色を濁りなく反射し、まるで透明になったみたいに化けて見せる。少し膨らんで、湾曲するように細くなっていく刃先は、反射した光を集め込んで、ギラリと鋭利に輝いていた。
「両手でしっかりとグリップを握り込んで、脇は閉め、刃先がぶれない位置まで剣を持ち上げる。この時、上半身の筋肉を脱力するように意識すること。そうすることで、剣の自重を分散させるように多くの筋肉で剣を支えることができる。振り抜くときも、同じく脱力を意識する。力を入れるのは、アタックの一瞬だけだ。線をなぞるように一直で、滑らかに淀みなく、一定の速度で振り下ろす……」
ビュンッ!!!!
空気を切り裂く音とともに、勇者の大剣が、正一爺の頭上から一瞬にして、消えて無くなった。突風が吹き荒れると……いつの間にか剣は、睨むように地面の方を向いて、正一爺の手元にピタリと収まっている。
あまりに一瞬の出来事だった。音を置き去りにし、残像すらものこさない、まさに神の域に到達した剣技。
正一爺の素振から、常人には決して真似することのできぬ達人のオーラが醸し出されていることが、素人目にもわかった。
……ただの素振りで、これほどまでに扱う者の素質を窺い知ることができるとは。
正直、素振りというモノを舐めて見ていた。これは、まるで馬鹿に出来ぬ、基礎中の基礎の練習に違いないのだ。
「さあ、真似してみろ」
正一爺から剣を受け取ると、俺は、両足を肩幅に広げて、グリップを命一杯に握り込んだ。
これまで、勇者の大剣を振るどころか、持ち上げることすらもできなかったが、果たして……。
歯を食いしばり、フンと息を吐きながら、剣を頭上へ引き上げる。
巨人が岩を持ち上げるかのように、ゆっくりと、危なっかしく、剣身が空の方を向く。
……上がった。
以前と比べて俺は、確実に成長を遂げているのだ!
だが、剣を持ち上げたくらいで喜ぶのは早い。素振りは、素振ってなんぼっ!
俺は、正一爺の教えの通りに、脱力を意識して……剣を振り下ろす!
スッカァァァ……。
残像どころか、しっかりと剣の軌道を眼で追えるほどの緩慢なスピードで、剣はだらしなく首を垂れた。
これでは……空気どころか、木の葉も切れそうにないっ!!
「まあ、最初はそんなものだ。出来なければ、出来るまで数をこなすだけ。いちっ。にっ。さんっ。しぃっ。掛け声で気合を入れて、諦めずに素振りを続けるんだ」
「はいっ」
そうして、俺は素振りの猛練習を始めた。
いちっ。にっ。さんっ。しぃっ……。訓練場には、力んだ俺の掛け声と、なでるような空気の流れる音だけが響いた。
ごじゅうろくっ。ごじゅうななっ。ごじゅうはちっ……。
まるでメトロノームになった気分だ。俺は、数字をかぞえながら剣を上下に振るだけの、ゼンマイ仕掛けの玩具。
ひゃくはち。ひゃくきゅう。ひゃくじゅう……。
剣を支える腕が痺れてくる。振り下ろす度、もげんばかりの痛みが肩に走る。酸素が頭まで回らず、集中力がジリジリと削られていく。
明らかに素振りのスピードが落ちてきている。それに、なんだか頭が霞むようで、正一爺から教えられたこと、まったく意識することができない。自然、素振りの質が下がる。
ひゃくにじゅうきゅう。ひゃくさんじゅ。
数字を言い終わる前に、俺は剣を取り落とし、バッタリと地面に打ち倒れた。
息をすることで精一杯。立ち上がることも、寝返りを打つこともままならない。
ついに体力が限界を迎えたらしかった。
「よしっ。今日は一旦、そのくらいにしておこう。明日、最後の調節をしたら、いよいよダンジョンへ向かうぞ。よいな?」
「せ、せ、正一爺さん。教えるのはすこぉしだけって、言いませんでしたっけ……」
「言ったぞい。だがな、こんなの、勇者専門学校で通用する剣技を習得するのに必要な練習量に比べれば、快感を伴わない射精くらいショボいもんだ。おもらしみたいなもんだぞいっ」
「はあ……。おもらし、ですか」
慣れない大剣を振り回し続けたせいか、瞼がトロンと重くなって、やがて意識が混濁しはじめた。
半端じゃない疲労が、俺を睡魔の沼に引きずり込んでいく。
そのまま俺は、だらしなく土の上で眠りこけてしまった。うっすら聞こえてくる「おもらしっ。おもらしっ」という正一爺の声が、ひび割れた鐘のように、いつまでも脳内に鳴り響いていた。
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