第52話 previous life

 ……確実に、間に合わない。このペースで水が減り続ければ、1分も経たないうちに、笹船の底は胃酸に接着してしまうだろう。

 

 ああ、わずか1秒が、魔法の力で何倍にも引き延ばされ、俺は永遠に取り残されてしまったように感じられる。まるで、時間が凍り付いてしまったかのよう。

 

 されども、ゆっくり、ゆっくりと、膜のように薄い水槽の保護水は、決まりきったペースで散り去ってゆく。


「早く逃げろっ。そんなところに居ては、到底命が持たぬぞ。死にたくなければ、今すぐ走って、遠くへ逃げろっ!!!」


 正一爺の緊迫した声が耳に届けられる。だが、正一爺の言葉は、脳に到達する前に、スルリとどこかへ滑り落ちていってしまう。


 バケツの中身は、とうに乾き切っている。もちろん水源はどこにもない。周囲の火は、魔法で作られているがゆえに、消すこともできない。


 ━━正真正銘、ゲームオーバー。


 ゴブリンとの知恵比べも、クラゲの精霊との出会いも、ああ、すべての努力は、無駄なことでした。

 そうして、これまで得た経験値は、代償の火炎を前にし、無残に焼け焦げ消えて無くなるのでした。ハイ、お終い。ちゃんちゃん。めでたし、めでたしっ。


「水槽の上に、ひねって水の出る蛇口でもあればなぁ」


 夢見る気持ちで、そんな淡い妄想を抱きながら、俺はそっと、目を閉じた。


 ……ん。待てよ。いま、なんて言った?


 ひねって水の出る蛇口?


 それならば、すぐ目の前に、あるではないか。


 一体、どこに? 


 俺の股間にッ!!!


 俺は、神になったみたいな足取りで、姿勢よく段差の足場を登ると、水槽のフチに仁王立ちした。

 躊躇なく、ふんどしをズリッと下げ降ろすっ!


 そこに現れたのは……ああ、すっかり意気消沈しだらしなく頭をもたげる、俺のムスコッ!!


 緊張と疲労によって忘れかけていた尿意が、濁流めいて途端にドッと押し寄せてくる。

 今や膀胱はパッツパツに膨れ上がり、行き場を無くしたホットな液体が、下半身をグルグル駆けずり回る。 


 正一爺が、防火服の上からでもわかるほどに、大きくギョッと目を見開き、俺を凝視している。


 すでに準備は整えられた。あとは、蛇口をひねるだけっ。


 ムスコの先端を指先で制御し、水槽の中に狙いを定めて……

 

 勢いよく放尿ッ!!!!!

 

 チャアァァァ……。


「……ア、ア、アァァ」


 消え入るような喘ぎ声を漏らし、顔をホクホクと弛緩させながら、俺は、場違いな至福を味わった。


 股を広げ水槽のフチに姿勢よく立ち、炎の光に赤々と照らされた俺の姿は、さながら、黒い川の上にぽうっと浮かび上がる夜の屋形船のようであった。


 ちゃっ、ちゃっ、ちゃっ……。残尿のないよう、膀胱の隅々までしっかりと搾り取り終えると、すこし腰を振って、俺は静かに行為を終えた。


 肝心の、水槽の水は? 


 ああ、色が混じり合って、胃酸と水との境界がよく分からない。尿を混ぜ入れたことで、運悪く、色が似通ってしまったのだ。


 では、残り時間は? 思い出したように、フッと正一爺の方を振り返ると、正一爺が、うずくまったまま両手の指を立て、カウントをしていた。


 指が、ゆっくりと、一本ずつ折りたたまれる。残り9本、残り8本、残り7本……。


 ジュウゥ。今、なにかが焼ける音がしなかったか? 

 ああ、まさか。


 もう一度、水槽の中を見ると……笹船が胃酸に溶かされ、白い煙を上げて沈没している最中だった。

 すぐに蝋燭が傾き、小さな火が、怪しく揺れた。


「あ」


 紫の火球が、目の奥で弾けた。音も、匂いも、炎の熱も、なにもかもが、水槽の中に吸い込まれて。


 猛烈な突風の発生を見た。


「固有スキル発動ッ……」


 意識がブラックアウトする寸前、そんなしわがれた声が、うっすらと聞こえた気がした。

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