第51話 されど、60秒

 ぽんわりと宙を浮かぶクラゲの精霊たちが、青白い光を放ち、街灯のように森の地面を照らし出す。

 

 山を登って渓流にたどり着く……。嫌というほどに往復を繰り返したせいで、その最短ルートは、既に頭の中に叩き込まれている。

 

 クラゲに触れて、電流のような幻想的な光を見て、また次のクラゲに触れる。足をすっ転ばせてバケツを一個紛失した、傾斜のきつい場所も、尋常でない体の軽さを手に入れたおかげで、いまや障害とすらも感じられない。

 

 己の限界である最高速度を維持したまま、ようやく渓流に到着した。

 

 川の下流のほうで、緑の醜い化け物━━ゴブリンが、川の清流に両手を沈めて、しきりにゴシゴシと擦り合わせていた。

 

 こちらの存在には、まるで気づく様子がない。もし、ヤツの習性を看破できていなければ、果たして今頃、どうなっていたことか……。

  アホ面をして手を洗うゴブリンを横目に、俺はバケツ一杯に水を汲んで、山へ戻った。

 

 木々の間を縫って、全力で森を駆け抜ける。風にかき乱されて、提灯みたくクラゲが揺れる。

 

 間に合え、間に合え、間に合えっ!

 

 あたりはすっかり夜闇に飲み込まれていた。太陽は往生際悪く、頭のてっぺんで地平線にしがみついて、なかなか沈もうとしない。

 

 正真正銘、最後の往復。最後のバケツ運びっ!

 

 ついに訓練場へ続く木の葉のカーテンが見えてきた。減速知らずの俺は、バケツを持ったまま、頭で突き破る。

 

 金網の闘技場は、炎の黒煙に包まれて、中の様子が見て取れなかった。まるで山火事! 

 

 魔法の火は、落ち葉をとうに焼き尽くしてもなお、その身を絶やすことなく、メラメラと地獄のような赤い光を燃やしていた。

 

 水槽、水槽の水は無事か……? 

 

 俺は、急いで水槽に駆け寄る。容赦なく灼熱が襲いかかり、煙が喉をじりじりと焦がす。

 だが、水槽の爆発が心配で、もはや炎のことなど気にしていられない!

 

 ……あれっ、そういえば、正一爺がいない。

 

 いや、小屋の横で、両耳に人差し指を突っ込んで、お化け屋敷に迷い込んでしまった子供のみたいに、うずくまっているではないか。一体なぜ?

 

 ふたたび視線を水槽に戻す。


「ヤバッ!!」


 胃酸と笹船の火を隔てる水の厚さは、ほんのわずか数ミリッ! 笹船の底が、ほとんど胃酸に接着しかけているではないかっ!


 俺は急いでバケツの水を水槽の中へ放り込む。


 ザッバアァァ……。


 水面が若干、せり上がる。だがしかし……それも一瞬のうちで、見る見るうちに、水面の位置は下がっていく。笹船が波間に揉まれビクビクと揺れる。水が薄くなった分、変化も著しいのだ。


「正一爺さんっ!!」


 耳を塞いでうずくまっていても聞こえるように、俺はありったけの大声で叫ぶ。


「なんだねぇ?」


 同じく老人とは思えぬ大声で、正一爺は叫び返す。


「もう十分に日は沈みました。試練は終わりです。蠟燭の火を消してくださいっ」


「まだ試練は終わっとらん。火を消すのは、完全に日が沈み切ってからだぁ」


 ああ、注ぎ入れたばかりのバケツの水は、水槽を囲う炎の熱に溶かされ、またたく間に蒸発してしまう。笹船は、ゆっくりと着実に、ミリ単位で胃酸へ近づいてゆく。


「このままだと……目の前で、本当に爆発してしまいます!」


「知ってるわいっ。あんたも避難しないと、木っ端みじんになってしまうぞい」


「お願いします! 小屋の水を汲ませてくださいっ!!」


「ダメだっ。水道管の氷を解かす訳にはいかんっ。試練は、どんなことがあっても、必ず最後までやる遂げる。それが、勇者の鉄則だっ!」


「あと、どのくらいですか。あとどのくらいで、試練はお終いですか」


「ワシではなく太陽に聞けっ。ああ、仕方がない。ワシが代わりに聞いてやる。……オイ、太陽。いつになったら沈むんだい? ウン、ああ、そうかい、そうかい。あと1分で、完全に日没らしいぞ」


 1分。たったの60秒。……されど、60秒。


 俺は成す術もなく、ただ呆然と、胃酸へにじり寄る笹船を眺めた。

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