第46話 逃げきれっ!
俺は、音を立てないようそっとバケツを置いて、足元の大きな石を拾い上げると、群れの中心目がけて放り投げた。
ゴンッ、と石と石がぶつかり合う音が響くと、ゴブリンたちは弾かれたように、音のした方を向いた。
今だっ! バケツをひっくり返し、脳天から大量の水をかぶると、そのまま川へダイブッ!!
これだけ水浸しになった上に、川へ逃げ込んでしまえば、匂いと音だけで俺を捕捉することは、完全に不可能だろう。
この勝負、おれの勝だっ! 俺は、川の水で冷やされる体に反して、胸の中に熱い恍惚感を滾らせながら、川べりでアホ面をして突っ立つゴブリンたちを眺めた。
すると……群れの先頭に立つ一体のゴブリンが、空気の入ったバケツを抱えて川に流される俺の方に、吸い込まれるようにしてサッと顔を向けた。
小枝のように細くて長い人差し指を、ピンと伸ばして、俺の方を指し示す。
「カッシャアアッ!!!」
そのガスッガスの声を合図に、ゴブリンたちが一気に、川へ飛び込んでくる。
マズい、俺の居場所が知られた! しかも奴ら、やけに泳ぐのがうまいっ。緑の四肢を交互に動かし水をかき分け、グングンと俺の方へ近づいてくるではないか。
なぜだ。なぜ俺の居場所が知られた?
すると、唇の上に、変な生暖かい感触を覚えた。ペロッと舌を出して舐め取る。苦い鉄の味がした。
鼻のあたりを手で確認する。真っ赤な鮮血がベットリ手に付着した。
鼻血だ。ああ、過度の緊張と疲労か、はたまた恍惚によるものか、理由は定かではないが、俺は知らず、だらしなく鼻血を垂らしてしまっていたのだ。
後ろを振り返る。ザザザッと白い水しぶきを上げ、幾つもの緑の醜い頭が、浮いたり沈んだりを繰り返して、俺の足元をつけ狙って来る。
このままでは、確実に追いつかれてしまう。俺は大きく息を吸い込むと、ザブンと頭を水に沈め込んだ。
全身が川の水に浸かった。息をすることも、川の流れに抵抗することもできない。俺はただ、無力な魚になったみたく、青白い世界の流れにしたがい、漂いさまようだけ。
うっすら目を開ける。赤い帯のようなものが、風に揺らめく絹の布みたく、サーと後方へ流れていっているのが見えた。
ああ、さらにマズい。止まらない鼻血が道しるべとなり、奴らは水中にいても、俺の居場所を捕捉することができているのだ。
ゴブリンの群れと俺との距離は、ついに3メートルを切った。水中レースの勝敗は、既に決まったも同然。
どうする、どうする……。鼻血は一向に治まる気配がない。なにか、この窮地を脱する方法はないか……。
そんな時、ふと前方から、水の塊が激しく岩に打ち付けられるような大きな音が、水の振動を伝って聞こえてきた。
……この先に、落差のある岩の段がある。一度進んでしまったら戻ることが困難な、一方通行の道。分岐点。
あそこを利用しよう。この好機を逃せば……次はないかもしれない。
そう心に決めると、俺は一旦、顔を上げて息継ぎをし、すぐさま作戦の準備に取り掛かる。
二個のバケツを、水の流れに逆らうようにして構える。そうすることで、後方へ流れようとする血の帯を、バケツの底で次々にキャッチしてゆく。
バケツに生じる水の抵抗によって、川を泳ぐ速度が著しく低下してしまう。ゴブリンとの距離は……2メートルを切った!
バケツの底に、薄赤い血の混じった水が溜まっていくのが見える。あと少し。あと少しの辛抱……。
水が岩の段を落下する音が、より激しく聞こえてくる。ゴブリンのがさついた皮膚が、俺の足に触れた!
その瞬間。俺は川底から張り出た大きな岩を、両手でガシッと掴んだっ!
岩を掴む手を起点にして、流れに身を任せ、体の向きをクルっと180度回転させる。足元に、急に激しくなった水の流れを感じる。
俺は、岩の段差のちょうど手前の位置でぶら下がっているような姿勢になったのだ。
それと同時に、バケツの底に溜まった血混じりの薄赤い水が、サーと川へ放流される。
すると……ああ、ゴブリンたちは、俺の血を追って、次々と段差の下へ落ちていくではないか。
あっという間に、計十一体のゴブリンは、俺の真横を通り過ぎて行ってしまった。
流されないように注意しながら、腕の力だけで、張り出た岩々を渡り進んでいく。
そうして、ようやく俺は、川から抜け出ることに成功した。ずぶ濡れになった体を石の絨毯の上にあずけながら、息も切れ切れに、川の様子を確認する。
身長の三倍ほどはあるだろうか。岩の段差は、かなりの高さがあったらしい。荒い波のようなしぶきを上げ、岩肌を削りながら白い水が落ちていく。
かなり流れがはやい、その先の川に……ゴブリンの群れはいた。緑の醜い頭と、小枝のように細い緑の腕を、プカプカ浮かせながら、必死に泳いで俺の幻想を追っている。
別れを告げる間もなく、計十一体のゴブリンたちは、あっという間に川下の方へ消えていった。
「ふう……なんとか逃げ切ったぁ」
俺は、深いため息を吐くと、バケツを持って立ち上がった。
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