第45話 がら空きの背後から……

 さっそく川の水を汲んで……これでよし。水が満杯になったバケツを両手で支えるのは、かなりの苦行だったが、ステータス値が上がったおかげで、なんとか山を登れそうだった。

 

 このまま急いで訓練場に戻ろう。そう思い、振り返ろうとした瞬間。

 

 ……カリ、カリカリィ。

 

 水の入ったバケツが、ぽちゃん、と揺れる。

 

 ……噓だ。まさか、そんな筈はない。俺はたしかに、ゴブリンを倒した。その証拠に、視界に討伐を確認した旨の文字が浮かび上がってきたではないか。

 

 ……カリ、カリ、カリカリィ。

 

 ああ、俺は、確認しなければならない。確認して、世にも恐ろしい疑いを、綺麗サッパリ晴らさなければならない。

 

 眼前の川は、俺の不安など露知らず、ゴーと轟音を立て白々しい水しぶきを上げている。

 

 俺は、意を決して、振り返った。

 

 そこに立っていたのは……全身緑で、俺の膝下くらいの身長、大きな耳に、ひどく醜い顔をした生物。

 

 ああ、前のヤツよりも少しだけ身長が高い、おそらく年寄りのゴブリンだ。

 

 それも一体ではない。どれも似通った外観をした、十体ほどのゴブリンが、俺のことを不思議そうに凝視しながら、小首をかしげてぼうっと突っ立っているではないか!

 

 ああ、渓流に生息するゴブリンは、一体ではなかったのだ!!


「ク、ク、クレエェ……」


「は?」


 先頭に立ち、手に持ったバケツを指先で小突くゴブリンが、なにやら俺に語り掛けてきた。


「ツッタ、サカナ。クレッ! クレエェッ!!」


 たしかに今、目の前のゴブリンは、『釣った魚、くれ』と俺に言い放った。


 ……ああ、そうか。そういうことだったのか。


 ゴブリンは、なぜだか、ふんどし一丁の俺を、釣りをしに来た人間だと思い込み、採った魚を横取りしようと企んでいるのだ。


 ゆえにあの時、バケツに魚が入っていないことを知ったゴブリンは、俺に利用価値がないと判断して、躊躇なく襲い掛かってきたのだ。


 後ろに控えるゴブリンたちの、その試すような、薄汚い小豆の目、目、目、目。


 襲おうと思っていれば、俺はとっくに引き裂かれていることだろう。自らの餌を採ってくれる人間は、あえて殺さず、そのまま逃がすつもりなのだ。


 だが、バケツに魚が一匹もないとわかった時は……それまでだ。堰を切ったように流れ込んでくるに違いない。


 クソッ、小賢い奴らめ。


 この土で汚れて汗まみれのふんどしの中に、釣り竿が隠されているとでも思っているのか?

 ああ、すっかり萎びてしまった、別の竿ならあるけどなっ!!


「ヨコセッ。オレサマニ、ソレヲヨコセッ!!!」


 そう捲し立てるゴブリン。その声色や表情から、徐々に苛立ち始めているのが分かる。


 どうする? 当然、バケツに魚など入っていない。そのことが知られたらば……。

 

 ピンと張りつめた緊張の糸が切れ、一触即発の均衡は、たちまち崩れ去る。

 

 ああ、計十一体のゴブリンが一度に襲ってくれば、こちらに勝ち目は、万が一にもない。

 

 額に一筋、冷や汗がツーと垂れる。両に抱えた、水の張ったバケツが、プルプルと震える。

 

 考えろ。考えるんだ。なんとかして、この絶体絶命の状況を抜け出す方法を、考え出すんだ。

 

 ……すると、ふいに、眼前のゴブリンの、小豆のような潤んだ瞳が目に入った。

 

 『音と匂いには、十分に注意するんだぞ……』

 

 音と、匂い。正一爺から授かった、なんらかのヒント。


 ここで、ある考えが、紫電のごとく神田の脳内に閃く。


「まさか……」


「ドウシタッ。キサマハ、サカナヲ、モッテイナイノカッ?」


 俺は、ゴブリンの言葉をフル無視して、とっておきの変顔をかましてみた。


 フニャアァァーー。頬を摘まみ上げて、目を細くへの字に曲げて見せる。


「……」


 のっぺりぃ……。こんどは、舌をベロベロ垂らしながら、顔全体の肉を下に引き下げる。


「……」


 無反応。たとえ言葉は通じなくても、馬鹿にされていることくらい、わかるはずだ。

 俺の変顔が見えていれば。

 

 そうだ。奴らは、見えていない。あの小豆みたいな目は、長らく洞窟に住んで退化してしまったように、まったく機能することのない飾りに過ぎないのだ。

 

 では、奴らはどのようにして、周囲の環境を感知しているのか?

 

 ━━音と匂い。それこそが、正一爺の伝えたかった、ヒントの真意だったのだ。

 

 奴らは、暗い視界の代わりに、あの巨大な耳と鋭い嗅覚で、あたりの様子を知覚している。

 注意を払うべきなのは、俺が放つ音と匂いの方だったのだ。

 

 ああ、思い出した。最初、ゴブリンに襲われた時。俺が川に流された途端、ゴブリンは俺の姿を見失った。

 川の水に揉まれ、水の流れる轟音によって、匂いと音が打ち消され、ゴブリンは俺を追うことが困難になったのだろう。

 

 ……コロン。

 

 ゴブリンの群れから漂い始めた濃厚な殺気に、俺は思わず後ずさりし、小石を一個、蹴り転がしてしまう。

 

 ピクンと大きな耳を震わせ、ゴブリンたちの視線が一斉に、転がる小石の方へ注がれた。

 

 奴らの殺気は、見る見るうちに増している。硬直の均衡が崩れ始めていることを、肌身で感じる。 

 

 ……ここは一か八か、奴らの特性を利用して、賭けに出てみるしかないか。

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