第42話 巧みな計算
斜面を下って……木々の隙間から、ようやく訓練場が見えてきた。
とうに息は切れ、水を満杯に汲んだバケツを支える腕は、今にも伸び切り筋肉がはち切れてしまいそうだった。
もしも目の前で、水槽が木っ端みじんに爆発したら……。そんな暗い不安を抱きながら、俺は木々のカーテンを潜り抜ける。
「お、待っておったぞいっ。待ちくたびれて、骨になるかと思ったわい!」
闘技場の中には、アルミホイルのような銀の光沢を放つ、イカつい防火服に身を包んだ正一爺が、俺の帰りを待ってシャンと立ち尽くしていた。
水槽、肝心の水槽はっ。俺は急いで金網を潜ってリングに上がる。
……よかった。勇者の装備三点は、薄黄色の液体の中を、気持ちよさそうにぷうかぷうかと泳いでいる。
ああ、よく考えれば、訓練場は出発した時と何一つ変わりがないのだから、無事に決まっているではないか。
こんどは、爆弾の導火線である水槽の水かさを確認する。……開始時と比べて、約半分ほど、水面が下がっている。
俺は、横に設置された階段にのぼり、バケツの水を勢いよくひっくり返した。
水しぶきが飛び散り、波に揉まれた笹船が揺れる。蠟燭の小さな火は、水しぶきをもろに浴びたというのに、あいかわらずユラユラ揺らめき赤い光を放っていた。
階段をおりて、ふたたび水かさを確認する。
水面は、たしかに見て取れるほど上昇しているが……これでは、満杯には遠く及ばない。
つまり、今の倍以上のペースで水を注ぎ入れ続けなければ、勇者の装備は確実に消え失せる。
「そんな真っ青な顔をせんでも、ええだろう?」
銀の防火服をギラギラ輝かせながら、正一爺がぼそっと言った。
「やるべきことは、はっきりと見えておる。つまり……減る以上に、水を増やしていけばよいのだ」
水槽の笹船が、嘲笑うかのように、ポチャンと波を立てる。
「そうすれば、爆発はせんですむ。勇者の装備も無事だろう?」
「でも、正一爺。見るからに、準備万端じゃあないですか」
「そ、そ、そ、そんなことないわいっ!」
正一爺は、銀の防火服をシャカシャカさせながら、しきりにその場で地団駄を踏んだ。
……こんなところで、立ち話をしている場合ではない。バケツを一個失うトラブルに見舞われ、加えて、ゴブリンとやらに散々、時間を喰われてしまったのだ。
俺は急いで、リングの隅に置かれたバケツを取りに行く。
「……あっ、そういえば正一爺さん」
バケツを二個取り終え、リングを出ようとしたところで、ふいにとある重要なことを思い出した。
「音と匂いに注意しろ。出発前、そんなことを教えてくれましたよね」
「フム。言った、言った。たしかにワシは、あんたにそう言ったわい」
「もしかして、あのヒントは、『音と匂いでゴブリンの存在を事前に察知して、遭遇しないように進め』という意味だったのではないですか?」
「……」
正一爺は、銀の帽子をうつむけたまま、黙り込んでしまった。小さな覗き窓は黒く濁っていて、その表情は、読み取ることができなかった。
なぜ黙るのか。それは……ヒントの答えを知られてしまっては、とたんに試練が容
易になるからに他ならないだろう。
つまり、正一爺は、俺がゴブリンに遭遇して手間取ることを想定したうえで、この試練を設けたのではないだろうか。
「ゴブリンに遭遇せず、スムーズにバケツの水を運ぶことができれば、決して水槽は爆発しないよう、事前に調節してある。そうですよね、正一爺さん」
「……」
ふたたび沈黙。防火服の擦れるシャカシャカァ……という音が、気まずそうに響いた。
ヒントの重要性に気づくのが遅ければ遅いほど、俺の精神は、後悔に苛まれることになる。
いつ爆発するともわからなぬ不安が解消されたとたんに、今度はヒントの重要性に気づけなかった後悔にすり替わる。
巧みに設計された、見事な精神的責め苦である。
だがしかし、一巡目の段階でゴブリンに遭遇し、ヒントの重要性を痛感するとは、思ってもいなかったのだろう。
そこだけが、計算高い正一爺が唯一、精神と体力双方に作用する地獄の訓練を考案するうえで、見落としていた点だ。
精神を追い立てる脅威。俺は、その正体を暴いてしまった。精神の首輪を解き放ってやったのだ。
あとは、俺の体力次第という訳である。
「聴覚と嗅覚を敏感にして、ゴブリンを避けることができれば、あとは筋肉勝負だっ。負けないぞ、負けないぞう!」
俺は、正一爺の策略を看破した喜びに浸りながら、リングを飛び出した。
防火服の擦れるカシャアァ……という音が、背後で不気味に聞こえた。
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