第41話 音と匂い
ゴブリンは、俺が事態を呑み込むよりも速く、こちら目がけて飛び込んでくる。
ヤバい、襲われる。危険信号が、電撃のように全身を巡って俺を支配する。
とっさに身を屈め、頭を両手で覆う。シャアン、と鋭利な刃が空気を切り裂く音が、頭上から聞こえた。
ゴブリンは、俺の背後に着地すると、次の攻撃に移行するため、すぐさま脚を折りたたんで飛翔の準備をする。
……急所を狙った、渾身の一撃。とっさに屈まなければ、今頃、顔面はズタズタに引き裂かれ、見るも無残な重傷を負っていたに違いない。
ヤツは、完全に俺を殺す気だ。なんだか知らないが、ここにいては……かなりヤバい。
脱兎の如く、俺は走り出す! 勢いのままに大切なバケツを拾って、走る、走る、走るっ!!
「ウッシャアアァァ!!!」
後ろから、小石を蹴散らす騒々しい音の塊が追って来る。
だが振り返らない。振り返り動作によって、わずかでも減速すれば、たちまち追いつかれる。
追いつかれたらば……あとはヤツの鋭利な爪先で切り刻まれるだけだ。
すっかり土で汚れたふんどしが、股間に擦れて痛む。窮屈に締め上げられた金玉が、行き場を失くした孤児みたいに、悲痛の音を上げる。
ズルウッ。ああ、背中と股間に気を取られていたせいで、水に濡れた小石に足を滑らせてしまう! 俺の体は、完全に制御を失い……ザッブーンと川へダイブッ!!
思いのほか激しい川の流れに足を取られて、自由に身動きが取れない。あっという間に川の深い所へ流されてしまう。
すぐに追いついたゴブリンは、目と鼻の先、すこし川を渡ったところで、鋭利な爪をシャカシャカさせながら、太陽をバックに仁王立ちしている。
流れる川の水に捕らわれていては、襲い掛かるゴブリンを力強く払いのけることも、素早く逃げ出すこともできない。
ああ……もはや、これまでか。
俺は、諦めたように天を仰いだ。水の流れに身を任せ、どんぶらこ、どんぶらこ、と浮かんでは沈んでを繰り返す。
……あれ。いくら待っても、ゴブリンは襲ってこない。それどころか、川を渡る水しぶきの音すらも聞こえてこないのだ。
俺は、空気のたまったバケツを浮き輪代わりにしながら、そっとゴブリンのいた方を見遣る。
おや。ゴブリンは、爪をシャカシャカさせながら、さも困惑したように、その場でキョロキョロと立ち尽くしているではないか。
その様子は、まるで、突然盲目になってしまったかのよう……。
「まさか、あいつ……俺を見失ったのか?」
導き出された驚くべき結論に、思わず俺は、独りでにそう呟く。
そんな筈はない。いくら川に流されているとはいえ、どう考えたって、この距離では見失うはずがないのだ。
だがしかし。ヤツの視線は何度も俺の上を通過しているというのに、ヤツは、一向にこちらに気づく気配がないのだ。
どんぶらこぉ、どんぶらこぉ……。
川の流れに身を任せているうちに、いつの間にかゴブリンの姿は、見えないほどに小さくなっていた。
乾いた石の上に座り、天日干しの要領で、ずぶ濡れになった体を乾燥させる……わけにもいかず、俺はずぶ濡れのまま登山を再開した。
足の裏に、湿った土がザラザラと残る。空から降る落ち葉が、チクチクと皮膚に貼り付く……。
ゴブリンとやらに遭遇して、ただでさえ時間を無駄に食ってしまったのだ。このくらいの不快は我慢して、急いで訓練場へ戻り、水槽にバケツの水を注いでやらなければならない。
時限爆弾の起爆、タイムリミットを過ぎれば、いままでの努力が、すべて無駄になる。手遅れになっては、遅いのだ。
帰りは道に迷う心配がない。方向は知っている。
バケツをひっくり返さないように、一歩、一歩、慎重かつスピーディーに足を進めていく。
『……音と匂いには、十分に注意するんだぞ』
ふいに、正一爺の放った意味深な言葉が脳裏に浮かんできた。
あの時は運が良かった。川へ転んでいなければ今頃、俺はゴブリンになぶり殺されていたかもしれない。
━━音と匂い。もしかすると正一爺は、自らをゴブリンと名乗る、あの奇妙な生物について、なにか対策の術を知っており、その断片をヒントとして、俺に授けてくれたのではないだろうか。
ザッザッザッザッ……。
山には、落ち葉を踏む乾いた音だけが響いていた。
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