第40話 ゴブリン参上
ついに山を越えたらしく、斜面が急になだらかになってきた。
耳をよく澄ますと、下方から、さらさらと小川の流れる音が聞こえてくる。
よし。バケツを一個失うというトラブルがあったが、一先ず順調に、迷わずここまで来れたようだ。
俺の足は自然、早まる。清流の音が、さらに激しく聞こえてくる。落ち葉を踏み踏み、勢いよく斜面を下っていく。
木々が薄くなってきた。陽光の漏れ出る、視界の開けた先には……。
ゴツゴツした男岩に囲まれた、渓流があった。
ゴーと迫力のある轟音を立て流れる川は、石の段々を渡り、山のはるか遠くの方へ続いている。
澄み渡る空に、雑味のない空気。広々と見渡せる森の緑に、ガラスのように透明で冷ややかな、小川の水。
ああ、なんて美しい景色なんだ……。
火照る体の疲労や試練の内容を忘れて、俺はしばらく、ただ呆然と、目の前の景色に見とれていた。
……カリ、カリカリィ。
今、なにかバケツにぶつかった? ふいに足元を見ると、
「なんだ、コイツはっ!!」
驚きのあまり、俺はその場で尻もちをついてしまう。そこにいたのは……全身緑色の奇妙なヤツッ!
ハダカデバネズミの顔面に巨大な耳を取り付けたような、世にも醜い容貌。体長は、俺の膝元くらいで、腰に枯草のようなパンツを巻きつけている。緑の皮膚は、ゴワゴワざらっざらしていて、見るからに手触りが悪そうだ。
緑のヤツは、小豆みたいな瞳を潤ませて、指から生えた尖った爪先を、バケツにコツコツぶっつけている。
「カ、カ、カ、カシャアァ。カッシャアアァ……」
滑車? 痰が絡んだような汚らしい音を喉から発しながら、緑のヤツは、興味津々に爪先でバケツを小突いている。
こいつは、精霊だろうか? いや、だがしかし……。
いままで出会ってきた精霊たちは皆、不思議なオーラのような、なにか幻惑的な雰囲気を纏っていた。
だが、目の前の全身緑で不健康に痩せたヤツからは、実体感のような、嫌な現実味を感じられるのだ。。
「……こ、これが気になるのか?」
俺は試しに、緑のヤツに語りかけてみることにした。
「カシ、カシィ……」
すると、緑のヤツは、『うん、うん』みたいなリズムで、乾いた声を発する。
まさか、俺の言葉が分かるのか? ふたたび続けてみる。
「これはバケツだ。水を汲む道具。で、俺は、このバケツにここの川の水を汲みに来たんだ。わかるか?」
「カシ、カシィ……」
分かっているのか、分っていないのか、また同じ動作と発音を繰り返す緑のヤツ。
なんだか、中途半端な反応だ。
いずれにせよ、こんな場所で、得体の知れない生物相手に、道草を食っている場合ではない。
「こうして満杯に水を汲んで……」
俺は、そそくさ渓流から立ち去ろうと、バケツに水を入れて見せた。次の瞬間。
「カシャアッ!」
とつぜん緑のヤツが、バケツに思いきり体当たりしてくる。予期せぬことに、バケツの持ち手をつるりと手から取り落としてしまう。
川縁で横向きに倒れたバケツから、汲んだばかりの川の水が、タラタラとこぼれ出た。
すると、緑のヤツが素早い身のこなしで、バケツの許へ駆け寄る。バケツからこぼれた水を指で触り、味を確かめる。次いで、バケツの中を何度も覗いて、なにやら乾いた鳴き声を上げる……。
一通り確認し終わると、クルっとこちらに向き直った。
眉間にシワを寄せ、口をへの字に曲げ、仁王立ちする緑のヤツ。ああ、言葉が通じなくとも、はっきりと分かった。
怒っている。なんだか知らないが、ヤツは、ひどく怒っているのだ。
「ゴ、ゴ、ゴォ……」
言葉を詰まらせて、
「ゴブリンッ!!」
ガッスガスの声で、一息にそう告げた。ヤツの名前か?
ヤツは今、自分の名前を喋ったのか?
その語気からは、まるで『俺はゴブリン様だ。馬鹿にすんじゃねえ』というような、ひどく高圧的で攻撃的な色を感じた。
ジャキンッ!
すると、飛び出し式のナイフみたく、指先の爪が一瞬にして伸びた!
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